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昔の洋楽が好きな人。 別の顔はコーヒー馬鹿。 Moはモーと読みます。

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最近の記事

The Monkeesを再評価する -Part 19:Head

この章は、映画とそのサントラという2つの側面があるので、ややごちゃ混ぜになるが両方について書きながら、評価としては音楽面に重きを置いてみたい。 1968年3月でテレビ番組が終了すると決まると、モンキーズはレコーディングとツアーという音楽活動を行いつつ、映像に関してはテレビでやれなければ映画にしようと思い立つ。 テレビからのアイドル的なパブリックイメージから脱却したいモンキーズは、モンキーズプロジェクトのプロデューサーであるボブ•ラフェルソンと映画のアイデアを考え始める。

    • The Monkeesを再評価する -Part 18:The Birds, The Bees & The Monkees

      「架空のバンドの役を演じる4人」であったはずのモンキーズは、架空と現実との境界線が無いまま進んできた故に、テレビ番組が終了してもグループとしてあり続けようとした。 テレビ番組の終了も一つの区切りであれば、スタジオワークに関しても一つの区切りだったのだろう。モンキーズの4人はこれまでモンキーズと共にスタジオワークを行ってきたプロデューサーのチップ・ダグラスを次回のアルバムでは使わないこととし、自分達でレッキングクルーなどのスタジオミュージシャンを起用しそれぞれがやりたいように

      • The Monkeesを再評価する - Part 17:テレビ番組の終焉と更なる独立

        このプロジェクトのそもそもであるテレビ番組に目を向けると、モンキーズは第1シーズンで1967年に優秀コメディ・シリーズ賞と優秀コメディ監督賞(ジェームズ・フローリー、エピソード「Royal Flush」)という2つのエミー賞を受賞した。 第2シーズンでもフローリーは優秀コメディ監督賞にノミネートされている。(エピソード 「The Devil and Peter Tork」。) 「奥様は魔女」などの長寿番組を抑えてカウンターカルチャーであるロックバンドを主人公にしたコメディ

        • The Monkeesを再評価する - Part 16:シングル Daydream Believer / Goin’ Down

          4枚目のアルバム『Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd.』の1967年のレコーディングセッションにおいて、レコーディングされたがこのアルバムに収録されずにシングルとして発売された曲がある。 今回のタイトルにある「Daydream Believer」(A面)と「Goin’Down」(B面)である。 このアルバムからのシングルである「Pleasant Valley Sunday / Words」の次のシングルとして発売され、A面「Day

        The Monkeesを再評価する -Part 19:Head

        • The Monkeesを再評価する -Part 18:The Birds, The Bees & The Monkees

        • The Monkeesを再評価する - Part 17:テレビ番組の終焉と更なる独立

        • The Monkeesを再評価する - Part 16:シングル Daydream Believer / Goin’ Down

          The Monkeesを再評価する - Part 15:Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd.

          3枚目のアルバム『Headquarters』でメンバー自身が演奏を含めて全て制作出来た上にコンサートツアーでも確実に自演の経験を積んで行ったモンキーズだった。 しかしながら、『Headquarters』と同時にリリースされたビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、革新的な楽曲、レコーディング、そして皮肉にもモンキーズが戦って勝ち取ったバンド形態であったが逆にバンド形態に拘らない多重録音、ホーンセクションやストリングスの導

          The Monkeesを再評価する - Part 15:Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd.

          The Monkeesを再評価する - Part 14:ファスト・エディ

          4枚目のアルバムについて書く前にもうひとつ、エディ・ホーというドラマーについて書いておきたい。 エディ・ホーは4枚目のアルバムで全面的にドラムを担当することになる重要なドラマーである。 エディ・ホーに関する情報は非常に少ない。 従ってかなり断片的な情報にはなるが、なるべく拾えるだけ拾って描き並べてみようと思う。 エディ・ホー(Eddie Hoh)は1944年イリノイ州生まれ。 1964年からロサンゼルスのクラブでドラマーとして演奏を始める。 1965年、エディはモダン・

          The Monkeesを再評価する - Part 14:ファスト・エディ

          The Monkeesを再評価する - Part 13:コンサートツアー(1966〜1967年)

          4枚目のアルバムについて書く前に、4枚目のアルバムを語る上で事前に必要な情報を幾つか出しておきたい。 ひとつはエディ・ホーというドラマー。 もうひとつは1967年までのコンサートツアーについて。 今回は1967年までのコンサートツアーについて書く。 モンキーズはテレビ番組の収録、楽曲のレコーディングの他に、しっかりとコンサートツアーも行っていた。 いくら当事者のミッキー・ドレンツが「モンキーズは架空のバンドについての テレビ番組である」と言っても、コンサートツアーを行い実

          The Monkeesを再評価する - Part 13:コンサートツアー(1966〜1967年)

          The Monkeesを再評価する - Part 12:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(2)

          前回Part 11で1967年6月のティーン向け音楽雑誌『TeenSet』に掲載されていたスティーヴン・スティルスのピーター・トークに関するインタビュー記事の和訳を載せた。 今回は同じ1967年6月、及び翌月の7月の2回にわたって音楽雑誌『Tiger Beat』に掲載されたスティーヴン・スティルスの寄稿を和訳してみた。 こちらもなかなか貴重だと思う。編集者がいるものの体裁としてはスティルス自身が寄稿した体裁になっているので、より一人称の印象があるだろう。 ピーター・トー

          The Monkeesを再評価する - Part 12:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(2)

          The Monkeesを再評価する - Part 11:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(1)

          サードアルバム『Headquarters』でようやく自分達で音楽制作が出来るようになったモンキーズにおいて、解散後の70年代の活躍からもソングライターとしてマイク・ネスミスの音楽的評価というものは日本でも一部に見られるが、ピーター・トークについてはほとんど日本で音楽的評価が見られない。 ここで少し別の客観的な情報をあげてみようと思う。 以下は丁度『Headquarters』が発売された1967年6月のティーン向け音楽雑誌『TeenSet』での記事で、ピーター・トークの親友

          The Monkeesを再評価する - Part 11:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(1)

          The Monkeesを再評価する - Part 10:サードアルバム “Headquarters”

          1967年2月から自分達で音楽制作が出来る様になり、シングル「The Girl I Knew Somewhere」とお蔵入りにはなったが「All of Your Toy」をレコーディングしたモンキーズは、そのままチップ・ダグラスをプロデューサーに据えた体制で3枚目のアルバムの制作に入った。 このアルバムは、ピーター・トークがキーボードやギターを弾く時のベースとしてプロデューサーてあるチップ・ダグラス、ジェリー・イエスター(チップ・ダグラスの友人)、ジョン・ロンドン(マイク・

          The Monkeesを再評価する - Part 10:サードアルバム “Headquarters”

          The Monkeesを再評価する - Part 9:主導権

          1967年2月にドン・カーシュナーを解雇という形で追い出したモンキーズは、既にアルバムを2枚も出してしまった後ではあったが漸く音楽制作の主導権を握ることが出来た。 前回のPart 8ではドン・カーシュナー追放の顛末を中心に書いたが、今回はこの騒動と並行して進んでいたモンキーズ自身の主導権のもと初めて行った音楽制作について書いてみようと思う。 時を2ヶ月戻し1967年1月16日、マイク・ネスミスの勧誘によりチップ・ダグラスをプロデューサーに迎えたモンキーズは、ハリウッドのゴ

          The Monkeesを再評価する - Part 9:主導権

          The Monkeesを再評価する - Part 8:ドン・カーシュナー vs マイク・ネスミス

          モンキーズのテレビとレコードの両方の音楽監督(スーパーバイザー)であるドン・カーシュナーは、自身の実績豊富なニューヨークのブリルビルディングの作家達を使ったポップス量産システムを駆使して、モンキーズのファーストアルバム、セカンドアルバム、そしてシングル曲をコントロールして歴史的ヒットを連発してきた。 モンキーズはカーシュナーに協力するも、反面カーシュナーはモンキーズの考えの多くに非協力的であった。特にマイク・ネスミスは、よりクリエイティブなコントロールと、レコードで自分が演

          The Monkeesを再評価する - Part 8:ドン・カーシュナー vs マイク・ネスミス

          The Monkeesを再評価する - Part 7:セカンドアルバム 『More Of The Monkees』

          1966年10月、ファーストアルバム『The Monkees』がリリースされ そのジャケットを見たマイク・ネスミスは、あたかも4人が楽器を自演しているかのように紹介されていることに怒りを露にした。 毎週放映するテレビ番組の収録が続くと番組に使う新たな曲が必要となる。10月10日のファーストアルバムのリリース直後、7月のレコーディングとほぼ同じ体制のまま引き続きレコーディングが行われていった。 相変わらずドン・カーシュナー総指揮の下、ニューヨークのブリルビルディングの作家た

          The Monkeesを再評価する - Part 7:セカンドアルバム 『More Of The Monkees』

          The Monkeesを再評価する - Part 6:ファーストアルバム『The Monkees』

          1966年9月12日アメリカ東部標準時間19:30、30分のシットコム番組「The Monkees」の初回が遂にNBCで放送された。 当時まだまだ保守的な世であったアメリカの一般家庭で、夕飯後に一家が揃ってリビングのカウチに座ってテレビを付けたら飛び込んできたであろう南カリフォルニアのビーチで上半身裸で歩く(当時としての)ロングヘアーのデイビー・ジョーンズが登場するオープニングにぶっ飛んだであろうことは想像に難しくはない。 その短いオープニングの後、The Monkeesの

          The Monkeesを再評価する - Part 6:ファーストアルバム『The Monkees』

          The Monkeesを再評価する - Part 5:レコードデビュー

          テレビ番組が始まる約1ヶ月前の1966年8月16日、モンキーズはシングル「Last Train To Clarksville」で全米レコードデビューを果たした。 製作側はモンキーズの楽曲はあくまで1ヶ月後に始まるテレビ番組のサントラという位置付けであるが、アメリカのティーンにビートルズに続く、というかイギリス産ビートルズではないアメリカ国産のアイドルバンドのコメディドラマを毎週観せながらレコードを売るというビジネスである。 時代としてはビートルズがまだライブをやめずアイド

          The Monkeesを再評価する - Part 5:レコードデビュー

          The Monkeesを再評価する - Part 4:デビュー前夜

          3ヶ月時を戻して1966年4月。 秋シーズンのテレビ番組の制作とそのサントラ兼シングル・アルバム用の音楽制作が始まった。 パイロット版の制作時に配役のために担当楽器を割り当てる必要があったが、4人のうち誰がドラマーになるかという問題があった。 おさらいしておくと、ミッキー、マイク、ピーターはギタリストで、3人のうちマイクとピーターはドラムセットを試してみるのを拒否。デイビーは楽器の経験がほぼ無かったがドラムの演奏方法は一応知っておりカメラテストをしたのだが、ドラムキットの後

          The Monkeesを再評価する - Part 4:デビュー前夜