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The Monkeesを再評価する - Part 5:レコードデビュー

テレビ番組が始まる約1ヶ月前の1966年8月16日、モンキーズはシングル「Last Train To Clarksville」で全米レコードデビューを果たした。

製作側はモンキーズの楽曲はあくまで1ヶ月後に始まるテレビ番組のサントラという位置付けであるが、アメリカのティーンにビートルズに続く、というかイギリス産ビートルズではないアメリカ国産のアイドルバンドのコメディドラマを毎週観せながらレコードを売るというビジネスである。

時代としてはビートルズがまだライブをやめずアイドル的な受け入れられ方だったギリギリのタイミング。1年後にはミュージックシーンが芸術的な進化に昇華していくことなど思ってもいない製作側は、このアイドルプロジェクトを推し進めていく。


「Last Train To Clarksville」は、ブリルビルディングのライターであるトミー・ボイス&ボビー・ハートの作詞作曲。
1966年7月25日に録音され、1カ月もしない8月16日にリリースされた。
ビートルズの「Paperback Writer」を彷彿させる当時のブリティッシュロック風の印象的なリフで始まる。
これにレッキングクルーの一員であり技巧派のルイ・シェルトンのギターが素晴らしいアルペジオを重ねて煌びやかなアレンジになっている。他のパートもレッキングクルーによって演奏された。この辺りの事情は前章の通り。
リードボーカルはミッキーで、コーラスはピーター。
列車の汽笛を連想されるWoo Ahhのコーラスアレンジも素晴らしい。

タイトルにあるクラークスビルというのは、テネシー州のクラークスビル市を意味する。ここは第101空挺師団があるケンタッキー州のキャンベル基地の近郊にあり、クラークスビルに行くということはベトナム戦争のため空軍に従軍しに向かうことを意味し、生きて帰れない片道切符の旅かもしれないことを意味する。

歌詞の内容は、若者がクラークスビル行きの最終列車に乗らなければならない、もう戻れないかも知れない、なので最後に何としても会いたいので駅で会いたい、急いで来てくれ、と彼女に訴えるという内容。
当時はアメリカベトナム戦争真っ只中であり、若者の間では反戦運動も起き始めていた。アンチ体制であるロングヘアーでロックンロールを演奏するクレイジーな若者が戦争に取られていく生活のワンシーンを歌うという、大企業が仕掛けるプロダクションにしては結構過激で攻めのデビュー曲だったと言える。いや、ボブ・ラフェルソンとしては最初の構想時から一貫してアンチ体制のカウンターカルチャーで若者層を掴むという戦略だったのだから、生まれるべくして生まれたデビュー曲だったのかも知れない。
また、製作側としてはイギリスのコピーではなくアメリカらしさを表現したいという思惑もあったそうなので、その意味では曲も歌詞も十分にこの当時のアメリカらしさを出せたと言って良いだろう。


テレビ番組が1966年9月12日にNBCで開始する直前、9月1日から11日にかけて、モンキーズはシカゴ、ボストン、ニューヨーク、ロサンゼルスでのプロモーションツアーを実施した。このプロモーションツアーで、モンキーズはラジオDJ、報道関係者、レコードディーラーなどに紹介されていった。

プロモーションツアーは、9月1日にハリウッドでスタート。スクリーンジェムズでプライベートレセプションが行われた。モンキーズのテレビシリーズを記念して盛大なパーティーが開催され、2本のエピソードが上映された。集まった参加者の前でモンキーズは簡単な演奏をしたようだが、どの曲が演奏されたか、ちゃんと演奏したのか口パクだったのか等は不明。


このプロモーションツアーの中で、ロサンゼルスのラジオ局KHJは、かなり野心的なイベントを開催した。
リスナーがKHJにハガキを送り、抽選で選ばれた約400人がテレビ番組放送開始の前日である1966年9月11日にカリフォルニア州デルマーのビーチ沿いの町に向かう列車に乗車し、デルマーでモンキーズに会えるという企画である。(記録ではcontestと称しているので、以降コンテストと記す。)
デルマーの駅はその時だけクラークスビルという駅名に変えられた。
4人がリスナーにハガキの郵送を呼びかける当時のラジオ広告の音源が残っている。
https://youtu.be/Q3mwij9JLeg

イベント当日である9月11日、モンキーズは2機のヘリコプターでビーチに着陸し、特製のダブルブレストシャツを着て、コンテストの勝者約400人の勝者に会った。
そして、この列車の1車両(空の貨物車両)の中で、モンキーズは最初のライブ公演を行った。セットリストには以下の楽曲が含まれていた。(曲順や他の楽曲の有無は不明。ミッキーの後日のインタビュー発言より。)

・Last Train To Clarksville
・Papa Gene’s Blues(マイク作。この後デビューアルバムに収録される。)
・She’s So Far Out, She’s In(後にレコーディングされるがボツになる。)

また、テレビ番組のエピソードも上映された。

ちなみにKHJはロサンゼルスのローカルAMラジオ局で、ビルボードとは別に独自のトップ40(Boss Radio)を1965年から持っていた。また、ロサンゼルスでローカルテレビ局も持っており、1966年からBoss Cityという音楽番組を開始。 FM局が台頭してくる1970年台後半までロサンゼルスのレコードセールスに大きな影響力を持っていた。

尚、この日のイベントは前述のBoss CityのためにKHJによってカラーで撮影され、1966年9月17日(NBCの第一回放送の5日後)に放映された。
この映像はYouTubeで現在確認できる。音が残っていないサイレントの映像なので、これまた本当に演奏したのか口パクだったのかは未確認(どなたか音源ご存知であれば教えてください)だが、当時の様子が分かる貴重な映像である。
https://youtu.be/aNUQ-gzkRTU

ここまでの営業努力で「Last Train To Clarksville」は全米ビルボートHOT 100に何とか入ったが、未だNo.1には程遠い。(9月10日付けで67位。)
スクリーンジェムスのお膝元のロサンゼルスでは盛り上がりを見せるものの、まだ全国区には至れていない。

そして、このKHJのデルマーでのイベントの翌日である9月12日アメリカ東部標準時間19:30、NBCは遂に第一回のテレビ番組の放送を開始した。
全国放送に乗ることで、ここから(所謂イノベーター理論でいうキャズムを超えて)一気に人気に火が付き爆発するのであった。


続く。

次は、この翌月の9月にリリースされるファーストアルバムとデビュー曲「Last Train To Clarksville」のビルボードNo.1になるあたりを掘ってみたいと思います。

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