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The Monkeesを再評価する - Part 11:ピーター・トークとスティーヴン・スティルス(1)

サードアルバム『Headquarters』でようやく自分達で音楽制作が出来るようになったモンキーズにおいて、解散後の70年代の活躍からもソングライターとしてマイク・ネスミスの音楽的評価というものは日本でも一部に見られるが、ピーター・トークについてはほとんど日本で音楽的評価が見られない。

ここで少し別の客観的な情報をあげてみようと思う。


以下は丁度『Headquarters』が発売された1967年6月のティーン向け音楽雑誌『TeenSet』での記事で、ピーター・トークの親友であるスティーヴン・スティルスのインタビュー記事である。

スティーヴン・スティルスはモンキーズとほぼ同時期にデビューしたバッファロー・スプリングフィールドの創設メンバーで、後にCSN、CSN&Yでも名を残し、1960年代末のウェストコーストロックの起点とも評される人物のひとりだが、この1967年6月はバッファローのデビューからまだ1年ほどで、そこまで有名でもなかったであろう。

この6月号は全編モンキーズの記事で、その中でデビュー前のピーターについての情報を掲載するためにスティルスにインタビューしたと思われる。

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以下、その記事の全文を和訳した。
所々アメリカンジョークというか、どこが面白いのか分からないエピソードもあるが、とにかく貴重な資料なのでそのまま訳してみた。


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『ピーター・トーク - あの頃を振り返って』
TeenSet誌 1967年6月 P40-41

古くからの友人スティーヴィー・スティルスが古き良き(?)昔を回想します。

スティーヴィー・スティルスがジンニ・ガナールに語りました。

ピーター・トークはモンキーズの一員だ。彼が生きている限り、彼がどのような分野に進もうとも関係なく、どのような才能があろうと、彼は常にモンキーズの一員であり続ける。しかし、ピーター・トークは必ずしもモンキーズの一員ではなかった。彼には、彼がモンキーズの一員になろうと思い立った前に彼を知っていた友人がいる。彼がモンキーズの一員になることに責任の一旦を担った友人だ。バッファロー・スプリングフィールドの作曲家、シンガー、リーダーであるスティーヴン・スティルスは、グリニッチビレッジのピーター・トーク、ロックンロールアーティストになりたくなかったピーター・トーク、一晩中フォークミュージックを演奏して8時に再びショータイムを迎えるまでスタテンアイランドフェリーに5セントで乗っていたピーター・トークについて全て語ってくれた。


「僕は最初、グリニッチビレッジのフォーウィンズというコーヒーハウスでピータートークに出会ったんだ。このコーヒーハウスはウエストサードストリートにあって、地下鉄の入り口から約25ヤード、今では有名なラヴィン・スプーンフルが生まれた場所である今では有名なナイトアウルから約25ヤードのところにあった。彼と僕らとルームメイトのジョン・ホプキンスはみんなバスケットハウス(注:バスケットにお金を入れて演奏を聴くカフェ)で演奏していた。ピーターはギターとバンジョーを演奏し、社会問題の歌とか、でかくて重たいバラードとか、フィル・オクスの曲とか、たまに映画の曲なんかも歌っていたな。」

「僕達は皆、クラブで僕達を紹介してくれたピーターのガールフレンドを通して出会ったんだよ。その後すぐに、僕達…ピーター、ジョン、僕でトリオを結成することに決めたんだ。名前があったかな、あったとしても何だったかな、覚えてないけど、沢山名前を挙げたな。どうしてトリオにしたかって? まあそれが、8時から朝の4時まで演奏して、それでもまだ演奏したくなるような時にすることだったわけだ。ピーターはよく僕達の家にやって来て練習してたりしていて、僕も1、2回ブラッドフォード[原文のまま]ストリートにある彼の住処にも行ったことがあるよ。」

「しばらくして僕はそこを出て、ニューオーリンズとサンフランシスコに行ったんだ。そこでぶらぶらして、一緒に演奏するグループを探してた。僕は別に個人的な理由でジョンとピーターから離れたわけではないんだけど、ただ、僕はロックンロールをやりたいと思っていて、彼らはフォークに固執したいと思っていたことはあった。今ピーターはロックンロールに移ったけどね。ミュージシャンであると同時に良いコメディアンでもあることに気づいたからだと思うよ。彼は昔もそうだった。彼には驚くべき例が幾つかあるよ。最高だったのは彼のバスケットピッチ(注:投げ銭)だな。客が一杯のコーヒーに1ドル半を使った後、バスケットに何か投げ入れてパフォーマーにお金を払わないといけないということをどうやって伝えるか、誰もが考えなければならなかった。あのね、ニューヨーク市では多額の費用がかかるキャバレーの免許を持っていなかったもんだから、コーヒーハウスがパフォーマーにお金を払うのは違法だったんだよ。ニューヨーク市には常に法律があるんだよ! まあとにかく、バスケットを差し出すという行為は人々を容易にがっかりさせるし、でも自分のことを物乞いには見えないようにもしないといけないわけさ… とても社交的にやらないといけないんだよ。」

「ピーターはこうやるんだよ。ステージの端にバスケットがあるとするだろ。ピーターはそこに目をやってこう言うんだ。”バスケットを見てください。バスケットの中に何が入ってますか? 赤ちゃん? いや残念ながら違いますね。バスケットには何にも入ってません。バスケットに入るものは(観客の顔を指しながら)あなた方に提供頂く必要があります。なぜならそれがニューヨーク市の法律だからです…”」

「他にもあるよ。”紳士淑女の皆さん、ニューヨーク市には僕のような歌手や僕の仲間達があなたのために美しい歌を歌うことに対して報酬を支払うことができないという法律があるので、僕がこれからバンジョーを持ってそちらを周ります。このバンジョーは空っぽで(叩いて空であることを強調するんだ)、あなたの親切な供物を受け入れます。1ドルあげたいなという人には「スウィッシュ」(注:鞭を打つ擬音)と叫ぶので、みんなにあなたがホームレスではないことを知ってもらえますよ!”」

「ピーターはとても活発な心の持ち主でね。子供時代に彼と彼の母親と弟で
ブロードウェイタイプのミュージカルをフルで書いたんだってさ。2曲ちょっとした素晴らしい曲も作って、ひとつは”Alvin The Alligator”(地元で最近、たまに再結成するデュオが演奏した)というやつで、もうひとつはこんなやつだ。

“全体がその部分の合計よりも大きい場合、
そしてその部分とは君と僕
小さなものはどこにある?余分な小さなものさ
僕達は合計しないの?”」

「ニック・ソーケルソン(注:ピーターの弟)はピーターより若く僕の歳で、ウィスコンシンの学校に通っている。ニックはグルーヴィーな男だよ。ピーターのように暖かい奴で、同じく頭の回転が速いんだよ。」

「フォーウィンズ以外のクラブでプレーするにはこのトリオは十分ではなかった。夜は長時間働かなければならなかったので、実際に練習する時間がなかったんだ。ただ曲を覚えて、起きて、それをステージに一緒に落とそうとする方が簡単だった。バッファロー・スプリングフィールドもそうやって出来た。全て即席でさ。そうならざるを得なかったわけで… 僕らはみんなとっても貧しかったからさ! 仕事の後、僕達は42番街の映画に行って朝まで居座って、それからスタテンアイランドフェリーに乗るってのをよくやってた。」

「ピーターはとてもグルーヴィーなやつだった。彼はよく喋ってさ、エネルギーいっぱいなんだよ。スウェットシャツとジーンズ、そして靴下を履かずに穴の開いたテニスシューズを履いててね。 [彼はまだそうしています…46ページを参照してください。](注:原文まま。) ロックンロールのベースを演奏したいと決心して、彼はついにニューヨークを去ったんだよ。今彼はロックンロールのベースを演奏してる。まあ知っての通りで、とにかく、誰もが「カリフォルニアには金(ゴールド)がある!」と言っていたわけでさ。」

「僕がロン・ロングという男とバッファロー・フィッシュというデュオをやっていた頃、ピーター・トークに再び出くわしたんだ。僕達はハンティントンビーチのゴールデンベアで演奏していてたんだけど、なんとそこにピーター・トークがいたんだよ! 彼は伴奏が必要な人の後ろでギターとバンジョーを演奏してた。まあふらついていたんだな。僕は彼にスクリーンジェムズが作ってるテレビ番組について話して、役のオーディションを受けに行ってみるべきだと彼に言ったんだよ。彼はそうするよと言ったんだけど。でもそうしなかったんで、もう一度彼に電話したんだ。番組が1シーズンしかなかったとしても彼がコメディアンとしての地位を確立できると僕には分かっていたからね。まあそれがどこに導いてくれるかなんて誰も分かんないしさ」

「それでピーター・トークは仕事を引き受けて、モンキーズの一員になったというわけさ。」そして彼らはこう言うのです。「カリフォルニアには金(ゴールド)がある。」そして、それがどこに導いてくれるのかは誰にも分からないのです。


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まずは、ピーター・トークがスティーヴン・スティルスと同じバックグラウンドにいたこと、そして同じミュージシャンであったことがここから分かると思う。
この他、Tiger Beatという雑誌でもスティルスが語っている記事があるので、これを次に和訳してみようと思う。


そして、この頃からピーターの家にスティルスが転がり込むようになり、次第にアドバイスを聞きに(またはパーティー目的で)ピーター宅に西海岸の若きミュージシャン達が集まるようになり、訪問客にキャパ不足になり大きい家に引っ越し、そこでCSN&Yやローリングストーンズなども… というその話は次回少し触れますがまた後日。

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続く。



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