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The Monkeesを再評価する - Part 8:ドン・カーシュナー vs マイク・ネスミス

モンキーズのテレビとレコードの両方の音楽監督(スーパーバイザー)であるドン・カーシュナーは、自身の実績豊富なニューヨークのブリルビルディングの作家達を使ったポップス量産システムを駆使して、モンキーズのファーストアルバム、セカンドアルバム、そしてシングル曲をコントロールして歴史的ヒットを連発してきた。

モンキーズはカーシュナーに協力するも、反面カーシュナーはモンキーズの考えの多くに非協力的であった。特にマイク・ネスミスは、よりクリエイティブなコントロールと、レコードで自分が演奏する機会を欲し、少なくともシングルのB面としてだけでも自分の曲を取り上げたいと考えていた。


マイク・ネスミスは、遂に自分達で音楽制作をすべく独自に動き始める。
手始めに、どこにもしがらみの無い信頼できるプロデューサーとしてチップ・ダグラスというベースプレイヤーを選んだ。

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チップ・ダグラスはモンキーズの歴史において最重要人物の一人なので、少し経歴と経緯を書きたい。


チップ・ダグラスは、元々はモダン・フォーク・カルテット→モダン・フォーク・クインテッド(共に略称はMFQ)のベースプレイヤーだった。

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MFQにはチップ・ダグラスの他に、エディ・ホーというドラマーとヘンリー・ディルツというバンジョープレイヤーがいた。
エディ・ホーは後にモンキーズの多くのレコーディングでドラムを担当することになる重要人物なので、後々にしっかり取り上げたいと思う。
ヘンリー・ディルツは後にモンキーズとの交流をきっかけに写真家に転身、60年代にはドアーズのジム・モリソン、ウッドストック、モンタレー・ポップ・フェスティバル、70年代にはリンダ・ロンシュタッド、イーグルス、ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラーなど、ミュージシャンの写真家として著名となる。
ちなみにチップ・ダグラスは後にリンダ・ロンシュタッドの彼氏となり、リンダのファーストアルバムをプロデュースすることになる。


そのダグラスのプロデューサーとしてのキャリアの始まりは次のように突然起きる。


ダグラスは、MFQの後にタートルズというバンド(メンバー全員がタートルネックのセーターを着ている)のベーシスト兼アレンジャーとなっていた。

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タートルズのベースプレイヤーとなって3ヶ月程経過した1967年1月、ダグラスのタートルズでのスタジオアレンジメントに感銘を受けたマイク・ネスミスは、ハリウッドのウィスキー・ア・ゴーゴーでのタートルズのショーの後にダグラスに会いに行き、カーシュナー達に「製造された」レコーディングにうんざりしているのでモンキーズの新しいプロデューサーにならないかと申し入れた。

ダグラスは大スターのマイクからの突然の申し入れに耳を疑いつつもとにかく、「人生でレコードを作ったことがない」と答えた。
マイクは、「心配しなくていい、タートルズを辞めても構わないと思っているなら、必要なことは全て教えるから」と説得した。
ダグラスはこれを受け入れ、タートルズを去った。


このマイク・ネスミスの行動は、音楽監督ドン・カーシュナーには何ら事前の交渉も無く勝手に取ったものだった。
一方でマイクは、テレビショーを含むこのプロジェクトのプロデューサーであるボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーに自分達による音楽制作をさせるようロビー活動を行い続けていた。


1967年1月16日、モンキーズはダグラスをスタジオに迎えてレコーディングセッションを開始。次のシングルの候補曲を3曲レコーディングした。
一番の課題はミッキー・ドレンツのドラムだった。コンサートツアーを行っていたとはいえ、当時PAシステムも無い状態で何千という若い女子が絶叫して全く演奏が聞こえない状態でライブの仕事をこなしていたので、レコーディングには到底耐えられる腕前では未だなかった。それでもテイクを重ねていきながらようやく(それでもたった1日で!)3曲レコーディングしたのであった。

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一方でカーシュナーは、ニール・ダイアモンド作の「I'm A Believer」が大ヒットしたことを受けて、ニール・ダイアモンドに次のヒット曲を書くよう発注する。モンキーズはチップ・ダグラスを迎えて制作を始めカーシュナーの話に耳をかさなくなっていた。そこでカーシュナーは、演奏面での貢献度が低く且つ歌が上手いデイビー・ジョーンズを口説いて、デイビーをハリウッドからニューヨークに飛ばせ、1967年1月21日にジェフ・バリーのプロデュースで2曲、ニール・ダイヤモンド作の「A Little Bit Me, A Little Bit You」とジェフ・バリー&エリー・グリーンウィッチ作の「She Hangs Out」へのボーカルレコーディングを急遽行った。


ニューヨークのカーシュナーと、次第にラフェルソン&シュナイダーを説得しつつ自主制作を進めるハリウッドのマイク達と、ニューヨーク対ハリウッドのパワー対峙の状態となった。


カーシュナーは自身のコントロールを誇示すべく、1967年1月未明、モンキーズの4人をロサンゼルスのビバリーヒルズホテルに呼んだ。
ドン・カーシュナーとコルジェムス・レコードの弁護士ハーブ・モーリス、そしてモンキーズの4人とチップ・ダグラスが同席した。

カーシュナーは自分の言う通りにしていればもっと稼げると訴えるため、モンキーズの4人にファーストアルバムのセールスロイヤルティの小切手25万ドル(現在の価値では190万ドル≒約2億円)とゴールドレコードを手渡した。

ここでマイクが遂にカーシュナーに対してキレてしまう。
「これまでのレコードは嫌いだ、自分達に演奏させ音楽を作らせろ、俺たちはここに居るチップ・ダグラスとレコーディングしている、次のシングルは俺たちの曲を使え、でなければグループを辞める!」と詰め寄った。

カーシュナーはダグラスに対して
「誰だお前は?」
と詰め寄るが、ダグラスとしては
「俺はマイクに呼ばれてプロデュースの仕事を引き受けてここにいるだけだ」
と答えるしかなかった。

コルジェムス・レコードの弁護士ハーブ・モーリスはマイクに対して、
「お前らは楽器を演奏できない契約になっているんだ! 契約書を読め!」
と反論。
するとマイクは堅牢なビバリーヒルズ・ホテルの壁に拳でパンチし壁に穴を開ける。
「これがお前の顔だったかもだぞ!」
マイクはそう吐き捨てて出て行ってしまう。


マイクの脱退を賭けた行動は当然ラフェルソンとシュナイダーへのロビー活動への決定打となり、カーシュナーはいよいよ追い詰められた。


1967年2月、焦ったカーシュナーは、1月にデイビーを説得してニューヨークでボーカルレコーディングさせた「A Little Bit Me, A Little Bit You」と「She Hangs Out」を正規の社内承認プロセスを経ることなく自身の承認でモンキーズの3枚目のシングルとしてそれぞれA面B面曲としてカナダでリリースしてしまう。
カーシュナーとしては、3枚目も自分のやり方で連続ヒットとなればモンキーズの音楽監督としての地位を確固たるものにするだろうという目論見だった。

そして、ご丁寧にも、「My Favorite Monkee - Davy Jones Sings」(私のお気に入りのモンキー - デイビー・ジョーンズが歌う)というラベルを付けて、プロモーション用のレコードをラジオ局に配り始めた。

カーシュナーのシングル盤はカナダで販売開始され、プロモーション用のレコードがカナダとアメリカ両方のラジオで放送され始めた。


この行動がかえってカーシュナー自身の首を絞めてしまう。
ラフェルソンとシュナイダーは遂に、無許可のレコードを発行したという理由でドン・カーシュナーを解雇した。

カーシュナーの無許可シングルはカナダで撤回され、アメリカのラジオでは以後放送をキャンセルされた。
仕方なくラジオで流れてしまった「A Little Bit Me, A Little Bit You」は次のA面として保持されたが、ラフェルソンとシュナイダーは2月にマイク達が再レコーディングしブラッシュアップした「The Girl I Knew Somewhere」を支持し、B面とした。カーシュナー盤シングルのB面だった「She Hangs Out」はお蔵入りとなった。

1967年3月、改めて正式な3枚目のシングルとして、「A Little Bit Me, A Little Bit You」「The Girl I Knew Somewhere」が発売された。A面の「A Little Bit Me, A Little Bit You」はキャッシュボックス1位、ビルボード2位を記録、B面の「The Girl I Knew Somewhere」はビルボード39位まで上がった。



こうして、ニューヨークのブリルビルディングの作家を武器に消費財としてのポップソングの量産で「正に音楽界のドン」とも言える地位を確立していたドン・カーシュナー帝国は遂に陥落する。
モンキーズはレッキングクルーを使うことなく、いよいよ自分達自身の手で音楽を制作していく。


ちなみにこの後ドン・カーシュナーは、モンキーズに歌わせたかった「Suger Suger」というバブルガムポップスをアーチーズというアニメのバンドに歌わせて大ヒットする。アニメなら文句を言わないといったところだろう。
そして、皮肉にも1972年からIn Concertという深夜テレビ番組とその後Don Kirshner’s Rock Concertというテレビ番組でバンドのコンサート映像を流す仕事をするようになる。


続く。

次は、「The Girl I Knew Somewhere」から始まりサードアルバムへと続くチップ・ダグラスとメンバー自身による音楽制作について書きます。
そろそろピーター・トークのアレンジャー兼プレイヤーとしての素晴らしさにも触れ始めようと思います。


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