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The Monkeesを再評価する - Part 4:デビュー前夜

3ヶ月時を戻して1966年4月。
秋シーズンのテレビ番組の制作とそのサントラ兼シングル・アルバム用の音楽制作が始まった。


パイロット版の制作時に配役のために担当楽器を割り当てる必要があったが、4人のうち誰がドラマーになるかという問題があった。
おさらいしておくと、ミッキー、マイク、ピーターはギタリストで、3人のうちマイクとピーターはドラムセットを試してみるのを拒否。デイビーは楽器の経験がほぼ無かったがドラムの演奏方法は一応知っておりカメラテストをしたのだが、ドラムキットの後ろではデイビーの身長では視界に入らないことから却下。消去法的にミッキーがドラマーの役となった。その他、原則的に役としてはギターはマイク、ベースはピーター、ドラムはミッキー、フロントマン・シンガー・パーカッショニストとしてデイビーという形とした。

ボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーのレイバート・プロダクション側としてはモンキーズにこの配役通りの担当楽器で自演して欲しかったらしいが、リハを通じてプロダクションがイメージしていたアップビートで若さ弾けるサウンドにはならなかった。
マイクはカントリー、ピーターはフォークとヒッピー、デイビーはブロードウェイミュージカルの俳優で、ミッキーはジェイムス・ブラウンが好きな俳優でドラムは出来ない。
今やNBCが絡み、RCAレコードが絡み、スクリーンジェムズが絡んだ巨額のドルが動いているハリウッドの一大プロジェクトである。現実的にハリウッドの慣例に沿りドン・カーシュナーの指揮でスタジオミュージシャンによって9月の番組放映に間にあわせるべく早急に番組のサントラ用のバッキングトラックを量産する必要があった。

こうしてバンドとしての体裁が整うこと無く準備は9月に向かって走り続ける。
ミッキーはマルチプレイヤーのピーターからとりあえずのドラムのビートの刻み方を教わり、俳優的アプローチでテレビ的にドラムを叩くフリを演じることとした。


演奏はさせてもらえないとはいえ、さすがにオーディションを勝ち抜いただけあってボーカルにおいては初めから素晴らしい成果を上げる。
ブロードウェイミュージカル俳優であるデイビー・ジョーンズの低めの甘いリードボーカルはティーン向けにピッタリであることは想定内だったが、ミッキー・ドレンツのロック的なボーカルはブリルビルディングとレッキングクルーによる産業バブルガムポップをロックに聴かせる唯一無二のセンスと技術で、ミッキーのボーカルを得たことはこのグループの偶然の奇跡と言って良いだろう。ミッキーのボーカルがこのグループをリアルなロックバンドとして現実味を帯びる大きな役割を果たしている。

ファーストアルバムに結果的に採用された曲ではほとんどコーラスはボイス&ハートやスタジオミュージシャンによるものになったが、4人のハーモニーもボーカルグループとしては既に当時の他のアメリカのグループに引けを取らないクオリティであった。
この記事の冒頭の写真は1966年6月の最初のボーカルレコーディングの一風景である。当時はこのようにひとつのマイクをハーモニーボーカル数名が囲み一発でハーモニーを録る手法で、当然ながら生でハモれないと仕事にならない時代である。

ボーカルに大きな問題がないどころか奇跡的に素晴らしいクオリティだったことが幸いし、レッキングクルーで録音したバッキングトラックに4人が声を当てるという流れ作業は淡々と進めることができた。



8月にはシングルをリリースし9月には番組をスタートさせる。
8月からは人前に出る機会が多発することは間違いない。
プロダクション側としてはそれまでに4人が20代前半の仲の良い親友であるというパブリックイメージを作っておく必要があった。そのために4人に少しずつ公衆の前に出る場数を踏ませる。1日12時間の撮影が連日続く合間を縫って。

1966年7月、モンキーズの4人は、NBCのエグゼクティブ他関係者へのお披露目のためにハリウッドのシェイセントというビジネスVIP御用達の高級レストラン呼ばれた。これが公衆の前に4人が現れた最初のイベントとされている。
その後はコロンビアピクチャーズのカフェテリアなどにも呼ばれ、次第に公衆の前に出る場数を踏まされるようになった。

この時代、ロングヘアとロックンロールはまだまだ市民権を得ていない。
完全なるオルタナティブカルチャーであり、不良の象徴であり、社会へのカウンタカルチャーであった。(ミッキー・ドレンツが実際にインタビューでこう述べている。)
この時代、モンキーズというカウンターカルチャーの若者がNBCという全米ネットワークのゴールデンタイムで放映されるということはハリウッドの大きなチャレンジであり、またこれがヒットすればカウンターカルチャーが市民権を得てもはやカウンターカルチャーではなくなる、時代が大きく変わる可能性があった。(そしそれは後に現実になるのであった。)


このように、プロジェクトはテレビ番組というファンタジーと現実のバンドとしての境目が曖昧なまま突っ走ってしまう。
或いはあえて曖昧にすることで4人のキャラクターにリアリティを持たせようとしていたとも言えるが、いずれにせよ、デビュー後に早くもこの点をマスコミから突かれるようになり、1968年まで、いや今に至るまで、「演奏出来ないバンド」としての誤解とレッテルが残ってしまうのであった。


レコーディングは7月から本格化し、ドン・カーシュナー配下でのニューヨークのブリルビルディングの作家達の曲、ハリウッドのレッキングクルーの演奏、ボイス&ハート、ジャック・ケラー、マイク・ネスミス、その他作家達の自己プロデュース、という制作体勢で11月まで継続された。

そしてその中から、ボイス&ハート作のいかにもビートルズ的なリフにアメリカ的な背景を織り交ぜた「Last Train To Clarksville」がデビューシングルに選ばれ、1966年8月16日、9月のテレビ番組放映開始の1ヶ月前のこの日、遂にリリースされ正式にデビューを果たす。
Last Train To Clarksvilleは1ヶ月後のテレビ番組プロモーションとして大いに利用される。後にビルボード第1位になるのはリリースから2ヶ月半後の11月5日だが、プロモーションの努力で9月に番組が始まる前にはビルボートHOT 100内(9月10日付67位)に入る。



続く。

次回はデビュー直後のプロモーションの様子やデビュー曲について書こうと思います。

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