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The Monkeesを再評価する - Part 14:ファスト・エディ

4枚目のアルバムについて書く前にもうひとつ、エディ・ホーというドラマーについて書いておきたい。
エディ・ホーは4枚目のアルバムで全面的にドラムを担当することになる重要なドラマーである。


エディ・ホーに関する情報は非常に少ない。
従ってかなり断片的な情報にはなるが、なるべく拾えるだけ拾って描き並べてみようと思う。



エディ・ホー(Eddie Hoh)は1944年イリノイ州生まれ。
1964年からロサンゼルスのクラブでドラマーとして演奏を始める。


1965年、エディはモダン・フォーク・カルテット(MFQ)に加入。
(エディが加入して5人になったことで名前をモダン・フォーク・クインテットに変えた。略称は変わらずMFQ。)
MFQは前述した通り、モンキーズの3枚目『Headquarters』からプロデューサーとなるチップ・ダグラスがベースとして在籍していたバンドだ。

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真ん中のマッシュルームカットの人物がエディ・ホー。
一番右端はチップ・ダグラス。



エディが加入したMFQは、フィル・スペクターのプロデュースで、当時新鋭のハリー・ニルソンが書いた 「This Could Be The Night」をレコーディングした。
この曲は、1966年のコンサートフィルム『The Big T.N.T Show』のオープニング曲に採用された。


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1965年、ロサンゼルスのゴールド・スター・スタジオにて。
左から、サイラス・ファーヤー、ジェリー・イエスター、チップ・ダグラス、フィル・スペクター、ヘンリー・ディルツ、エディ・ホー。

脱線するが、ヘンリー・ディルツは60年代後期から70年代にかけてジム・モリソン、CSNY、イーグルス、ジャクソン・ブラウンなどの有名な写真を幾つも撮った超著名なカメラマンだが、元々はMFQのメンバーで、チップ・ダグラスを介してモンキーズのテレビ番組収録の舞台裏の素顔などの写真を撮り始めたことがミュージシャン御用達プロフォトグラファーのキャリアのスタートとなった。


1966年、エディはドノヴァンの3枚目のアルバム『Sunshine Superman』のレコーディングに参加。


1967年3月、エディは元バーズのジーン・クラークのバンドでウィスキー・ア・ゴーゴーなどのクラブに出演するようになる。
このバンドには、後にバーズに加入するクラレンス・ホワイトとジョン・ヨークもいた。
このバンドではレコーディングは無かったが、エディはこの頃からスタジオドラマーとして多くのレコーディングに参加するようになる。


やがてママス&パパスに、ツアーバンドのドラマーとして雇われる。
そして1967年6月16〜18日に行われたモンタレー・ポップ・フェスティバルにて、最終日18日のママス&パパスのステージでドラマーとしてプレイした。


前述した通りモンタレーにはピーター・トークとミッキー・ドレンツが見に来ていたが、おそらくモンキーズはモンタレーの前からママス&パパス(普段からつるんでいたパーティー仲間)またはチップ・ダグラス(モンキーズのプロデューサー)を介してエディを知っていたのではないかと思われる。

というのも、モンタレーでのエディの出番は6月18日だが、エディはそれより4日早い6月14日には既にモンキーズの4枚目のアルバムのレコーディングに参加していた記録があるため。



エディは自分のことをファスト・エディ・ホー(“Fast” Eddie Hoh)と呼んでいた。
4枚目に収録され大ヒットシングルにもなった「Pleasant Valley Sunday」などで聞けるように、フィルインにスネアやタムを速く軽快なスピード感で回し叩くスタイルが、このニックネームを良く言い表している。


3枚目のアルバム『Headquarters』でメンバー全員が演奏してアルバムを作り遂げたことで音楽の制作権をもぎ取ったことに達成感を得ていたモンキーズであったが、同時にビートルズの『Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band』の芸術的に昇華したスタジオレコーディングに圧倒されていた。

マイク・ネスミスは実際に A Day In The Lifeのレコーディングを見学しているので、『Sgt, Pepper’ s〜』の仕上がりを聴いて相当ショックだったことが想像できる。
2:33、3:30 参照。↓


テレビ番組の収録にコンサートツアーと超多忙である中で更に高度に成長し且つ効率的なレコーディングを目指すことが必然的となった状況で、チップ・ダグラスとモンキーズとミッキー自身がミッキーの不安定なドラムにテコ入れをすることは、これまた必然であっただろう。

そもそもドラムを叩くことに興味が無いというか、自身としては熱狂的なR&Bやソウルのシンガーのファンであるミッキーとしては、ドラムをプロに任せることにはほぼ抵抗が無かったと言えるだろう。


結果的に、4枚目はチップの友人であるエディをドラマーとして迎えることで、引き続き完全にモンキーズの主導権の元で制作されることになる。
エディが全面的に参加することで、マイク(ギター)、ピーター(キーボード)、チップ(ベース)、エディ(ドラム)の布陣はこれまでにない鉄壁のロック的なバンドサウンドを生み出していく。


また、この4枚目のセッションから漏れたエディが参加した他のレコーディング曲はシングルや5枚目や6枚目にも収められることになる。
その代表例が、モンキーズの代名詞的なあの曲、「Daydream Believer」である。



エディはモンキーズの4枚目のアルバム以降もセッションドラマーとしてのキャリアを積んだ。


1968年にはアル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルスによるスーパーバンドのアルバム『Super Session』のレコーディングに参加。
また、バッファロー・スプリングフィールドのラストアルバムのデモにも参加。(アルバムのレコーディングパーソネルとしてはクレジットされていない。)


1969年には、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスなど様々なミュージシャンのレコーディングに参加。

そして、バーズを辞めたグラム・パーソンズに、新バンドであるフライング・ブリトー・ブラザーズのドラマーとして誘われ、セッションに参加する。


しかしこの頃からエディは薬物乱用の問題が起きる。
クリス・ヒルマンの証言によると、ブリトーズのセッション中にドラムセットの中でハイになって落ちてしまうこともあったらしい。
結局ブリトーズのデビューアルバムでは2曲だけエディのドラムが残ることとなった。



そして、1970年を最後にエディのレコーディングやライブの形跡は一切残さず、忽然と消えてしまう。


久しぶりに現れたのは、1976年のモンキーズのクリスマス企画のシングル『Christmas Is My Time of Year』でのドラムだった。
しかし、これ以外は音楽ビジネスから完全に姿を消した。



そして2015年11月7日にファスト・エディ・ホーが亡くなったというニュースがひっそりと伝わり、後にミッキーが追悼のツイートを上げた。
死因は公表されていない。71歳だった。



非常に短期間の活動期間であったせいかモンキーズへの偏見のせいか完全にロック史から忘れ去られたドラマーであるが、モンキーズの音楽的なピークを支え且つ60年代のアメリカのロックシーンでかなりハイレベルな技術と躍動感あふれるサウンドを提供出来た希少な名ドラマーであった。



さて、2回連続で事前情報を投げたところで、次はいよいよ4枚目のアルバム『Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd.』(日本タイトル『スター・コレクター』について書きます。


続く。


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