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The Monkeesを再評価する - Part 9:主導権

1967年2月にドン・カーシュナーを解雇という形で追い出したモンキーズは、既にアルバムを2枚も出してしまった後ではあったが漸く音楽制作の主導権を握ることが出来た。

前回のPart 8ではドン・カーシュナー追放の顛末を中心に書いたが、今回はこの騒動と並行して進んでいたモンキーズ自身の主導権のもと初めて行った音楽制作について書いてみようと思う。



時を2ヶ月戻し1967年1月16日、マイク・ネスミスの勧誘によりチップ・ダグラスをプロデューサーに迎えたモンキーズは、ハリウッドのゴールドスター・スタジオで初めて自分達だけで制作を始める。


既にテレビ番組で4人の担当楽器が決められて世間に定着していることから、少なくともミッキー・ドレンツはドラム、マイク・ネスミスはギター、ピーター・トークはベース、デイビー・ジョーンズはマラカスとタンバリン、という基本編成は意識された。

しかしながら、自分達でこの曲を制作する上でピーター・トークのマルチプレイヤー及びアレンジャーとしての能力が大いに発揮されることとなり、主にキーボードやピアノでの演奏とアレンジに貢献することとなった。
当時は4トラックしか録音出来なかったので、今のような多重録音ではなくバンドで一斉に演奏して録る方法だったので、ピーターがキーボードを演奏することで空いたベースはマイク・ネスミスの旧友であるジョン・ロンドンに担当してもらった。


これまでのようなスタジオ側が用意したレッキング・クルーのスタジオミュージシャンを使うのではなく、自身の演奏と自身が選んだサポートミュージシャンで自分たちの主導権において制作する。これまでとは全く違う、自分たちの音楽がここから始まった。



最大の問題はミッキー・ドレンツのドラムだった。

このnoteで書いてきた通りミッキーはそもそもドラマーではない。モンキーズに入るまでドラムを叩いたことはなかった。

とはいえ、モンキーズはこのレコーディング開始の約1ヶ月前からハワイを皮切りに女の子の絶叫で演奏が聞こえない状況でのコンサートツアーを始めており、このためミッキーはある程度ドラムを叩けるようになってはいた。但し、ドラムキットの前に初めて座ってからせいぜい半年という状態では、レコードとして繰り返し聴くに耐えうる安定したドラミングを提供するにはかなり厳しかった。

そのため、レコーディングは何テイクも行わなければならなかった。
「The Girl I Knew Somewhere」では初期バージョンでは22テイク、最終バージョンでは15テイク行われた記録がある。全てがミッキーのせいによる積み重ねではないと思われるが、特に初期バージョンでのミッキーのドラミングはかなり危うかったことが2003年発売のボックスセットCD『Headquarters Sessions』から聴き取れる。



それでもモンキーズはミッキーのドラムで曲を制作してドン・カーシュナーに歯向かうことを決めた。



最初に取り掛かった曲は(後にシングルのB面となる)「The Girl I Knew Somewhere」。作詞作曲はマイク・ネスミス。
とにかく4人はそれぞれ全く違うフィールドからやってきている。
主導権を取ったは良いが、自分たちの個性はバラバラで、一体どういうバンドになるのかは全くの白紙状態であり実験的でもあった。


当時を振り返りマイク・ネスミスはこう言っている。

「(例えるなら)とても良いテニス選手と、とても良いフットボール選手と、とても良いバスケ選手と、とても良いゴルフ選手が一緒に野球をやるようなものだ。まあとにかくやってみようと。ちょっとしたガレージバンドの音楽でも作ってみようとね。」



「The Girl I Knew Somewhere」はこの1月16日のレコーディングではマイクのリードボーカルでレコーディングが行われたが、よりコマーシャルな仕上がりを目指して2月23日のレコーディングでリードボーカルをミッキー・ドレンツに変更した。シングルリリースされたのはこの2月23日のバージョンである。
ちなみに、シングルとなる2月23日版の「The Girl I Knew Somwhere」にはデイビー・ジョーンズは休暇でイングランドに帰国中であり不参加だった。


そしてこの曲には、バッハを敬愛するピーター・トークがその自分の個性を発揮するハープシコードの印象的なソロが加えられた。1965年あたりから現れたバロック・ロック、バロック・ポップのテイストが存分に楽しめるソロだ。
以下はその当時を振り返るピーターの発言である。

「自分はクラッシック好きでもあってバッハが大好きだったので、ハープシコードのソロはやってみたいと思っていた。ハープシコードのソロについてはある時期ザックリしたアイデアを持っていたと思う。マイクが楽屋にいた時、僕はハープシコードで即興で遊んでいた。そこでソロの最後にダウンビートで不協和音を鳴らした。そうするつもりはなかったので “何だこれ?” と言ったらマイクが “聞いたぞ!” と言ってきた。あれは楽しかった。僕らはこのおかしな音をレコードに残すことに死ぬほど面白がっていたんだ。」


モンキーズはその音楽の自主性に着目される際に作詞作曲をするマイク・ネスミスにのみフォーカスされることがほとんどだが、曲のアレンジに関してこの曲を皮切りにピーター・トークの能力は多くの曲で貢献していく。
一番有名なのは「Daydream Believer」のシグネチャーとも言えるイントロのピアノフレーズ。「Shades of Gray」のピアノイントロと全編を支えるピアノ伴奏もそうだ。マイク・ネスミスは基本的にリードギタリストというよりはコード弾き主体のシンガーソングライターであり、ピーター・トークはこのセッション以降マルチプレイヤーとして様々な引き出しを持つアレンジャーとして機能していく。



この1月16日はあと2曲、チップ・ダグラスの友人であるビル・マーティンの作詞作曲である「All Of Your Toys」とコンサートツアーでレパートリーにしていた「She’s So Far Out, She’s In」という曲もレコーディングされた。
「All Of Your Toys」は1987年にライノレコードによるモンキーズの未発表曲集アルバム『Missing Links』のシリーズで日の目を見ることが出来た。コーラスワークとピーターのハープシコードが生かされた素晴らしいトラックに仕上がっているが、2曲ともモンキーズの60年代の活動期間中には正式リリースされることはなくお蔵入りとなった。



こうして主導権をもぎ取り自身による音楽制作を始めたモンキーズは、チップ・ダグラスのプロデュース+4人による演奏という体制で、3枚目のアルバム『Headquarters』の制作に入っていく。



続く。

次回はいよいよ彼らが自身の演奏とアレンジで作り上げたサードアルバム『Headquarters』について書きます。名盤です。

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