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何を信じる?

「正しさ」を安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことなのです。
〜養老孟司〜
バカの壁

私たちホモサピエンスは、高度に発展した脳があり、記号を用いて虚像を生み出し、それを信じ、現実にすることすら可能である。
今では、それを価値観とか信仰とかいったりする。
多くの人は、無信仰というが、実はそんなことはない。
信仰というのは、キリスト教やイスラム教や仏教だけではない。
言語はもちろん、お金や国家や法律なども人間の世界以外には存在しない。
だが、これらの記号体系、虚像を明らかに信じている。
お金に価値がない、法律を無視していいという人はあまり多くないと思う。
もちろん、これらの記号体系を信じることで、私たちは今こんなに豊かな生活ができるようになった。
これこそが人間の特筆すべき能力であるが、最近この能力に関して、気になることがある。
現代は脳に依存しているが、人間は脳だけではないということである。
脳をソフトとすると、体はハード、外の世界とのインターフェースと考えられる。
世界の情報を、感覚器から知覚系を通して入力し、脳の神経細胞が計算処理し、処理結果を運動系を通して筋肉へ出力する。
つまり、頭で考えるというのは、本当は入口も出口も脳ではなく、身体である。
身体ということは、感覚である。
感覚=身体から物を考えその結果が感覚=身体から出力されるのだ。
何が言いたいか。
現代の理性=脳信仰は本当は感覚依存のもので、感覚=体が同じ人はもちろんいないのだから、もう少し脳が信仰している価値観を疑ってもいいのではないだろうか。
養老先生はこれをバカの壁と言ったが、非常に的確な言葉である。
あるいは、五条悟の無量空所もピッタリかもしれない。
違いから始まって、違いで終わる虚像を根拠無しに信じているのだ。
現代は壁が透明になり、壁にぶつかりやすいのかもしれない。
ただ、脳は何かを信じなければ生きられない生き物なので、昔からキリストや仏教があり、それが理性主義、科学主義に変わったのである。
いくらグローバル化し、情報が時空間を一つにし、巨大な共同幻想を作ろうとしても、脳は違いに挟まれたものであるがゆえに、その共同幻想は絶対的なものにはなり得ず、個人の幸福や価値を侵略するものではないはずなのだ。
マイケル・サンデルの能力主義批判も、簡単に言えば、能力主義信仰が過信された社会では、個人の価値を学歴や資産で決めることになりかねないということを批判している。
もう少し広げると、信仰の根底にはどういった正義があるのか自分でしっかり考えていますか、ということである。

十分な根拠のある信念の根底には、根拠のない信念が横たわっている。
~ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン~
初めてのヴィトゲンシュタイン 古田徹也

人間は記号体系に引っ張られてしまいがちだ。
特にSNSやインターネットで世界が一つにつながったから余計にだ。
だが実はそれは、脳が世の中を合理的、便利にするため便宜上生み出したものだ。
本来、それらの記号や共同幻想を信じる根拠はなく、個人の幸福や価値を決めるものではもちろんない。
今の社会は、なかなか生き苦しいと言われるが、価値観や信仰について少し考えてみると楽になるかもしれないし、ならないかもしれない。
それを決めるのは人それぞれであるから。


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