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映画「海街diary」を観た話。

小さい頃、わけもわからず親戚の法事に連れて行かれることがあった。物心つかぬ私は、今自分の周りでなにが起こっているのかよくわからず、長い読経の間も退屈で退屈でしょうがなかった。

そのうち、よく世話になっていた親戚のじいちゃんばあちゃんが、足腰が悪くなって老人ホームに入った。墓の掃除をするために、祖父と2人で盆と正月に遠出をするようになった。やがて、その遠出は母が付いてくるようになり、祖父は自ら車のハンドルを握ることがなくなった。

大阪に移り住んでから、年一回帰省をするたびに、祖父や祖母だけでなく、家族みんなが年々確実に老けていく姿を目の当たりにするようになる。私は、自分自身の成長を感じる一方、愛する家族が年老いてくことへの恐怖で少し表情が曇ることも多くなってきた。


映画「海街diary」

この映画も、死の匂いが色濃く漂う映画だった。


2015年公開の是枝裕和監督作品。その年のカンヌ国際映画祭国際コンペディション部門に出品され、国内映画祭の各賞を破竹の勢いで総なめにした映画である。私も、公開当時非常に関心があったのだが、機会に恵まれず鑑賞することがなかった作品だった。

物語は、鎌倉・極楽寺を舞台に幕が上がる。主人公は、幸田家の長女・幸(綾瀬はるか)、次女・佳乃(長澤まさみ)、三女・千佳(夏帆)。ある夏、幸田家を15年前に出た実の父親が、山形で亡くなったことを知らされた幸田家の三姉妹は告別式に向かう。そこで出会ったのが、腹違いの妹、浅野すず(広瀬すず)だった。すずもまた、その複雑な家庭環境からどこかで疎外感を感じていた。そんなすずに幸が、「鎌倉で一緒に暮らさないか」と唐突に持ち掛けた。そして、姉妹は鎌倉の変化に富んだ四季に囲まれながら、ゆるやかな同居生活を始めることとなる。


日本の映画・ドラマ界を背負う代表とも言える女優が4人も集まったというだけで、この映画は既に大きな評価に値する。だが、この映画への評価をそのレベルで留めることがなかった最大の要因が、広瀬すずの存在だと思う。今でこそ芸能界の最前線で活躍する広瀬すずだが、その足掛かりを作ったとも言える作品が、この「海街~」だった。

あくまで私個人の意見ではあるが、この作品は「まだ何物にも染まっていない、混じりけなし・純度100パーセントの広瀬すず」がいなければ成立しなかった作品だと思う。

幸田家・浅野家を含め、3姉妹とすずを取り囲む血縁関係は非常にややこしい。イチから説明するととってもとっても長ったらしくなるため割愛させていただく。とにかく要するに幸田家と浅野家の父親は共通の人物で、幸田家からしても浅野家からしても、「父親」の存在は腫れ物に近いものがあった。そのため、3姉妹とすずはなかなか父親の話を切り出すことはなかった。この共通の父親の存在があるゆえ、家族関係は思うようにはスムーズに深まらなかった。

家族関係の分断は、そういった点以外でも多くの点で描写されている。例えば、何度も登場する法事・葬式のシーン。山形では公民館のようなところに集まり、皆が弔問・焼香を挙げるような式であることに対して、鎌倉では寺院に集まり、焼香は弔問者の間を回しながら手元で挙げるような仕組みになっている。細かな違いだが、生活環境や文化の違いから、幸田家と浅野家の生きる環境が確実に違うところが如実に表れているシーンであると思う。

そのような非常に難しい環境をリアルに表現するためには、演技派である綾瀬・長澤・夏帆だけではなく、「家庭や社会の都合に巻き込まれたことが無い無垢な子供」が必要不可欠になる。それでこそ、難しい大人の世界と、無邪気さがふんだんに残った子供の世界という隔たりが、より鮮明に描けるからだ。そういった背景から、この作品と広瀬すずはもはや相思相愛とも言えるだろう、と私は感じた。



そういった家庭の分断が描かれている一方で、根から断つことのできない血縁関係(遺伝であるとか)を感じることができるシーンも多く描かれていた。それを暗に示す象徴的な言葉がある。

それが「あれ」である。

幸田家の人間はよく「あれ」という言葉を使う。「あれをあれして」とか「すぐにあれしなくてもいいから」とか。

細かい話だが、筆者自身は「あれ」とか固有名詞を使わず指図をしたり話をする人があまり好きではない。「あれ」だけで物事が1から10まで理解出来たら苦労しないだろ、と思うからである。

しかし、この作品を見て、あれという言葉に違うアプローチを考えることができた。「あれ」とは、他人を信用しているからこそ出てくるフレーズなのだと。あれという言葉の奥に隠れている真意や思いを読み解いていく。この行為を裏返せば、「あれ」という言葉でたとえ包み隠そうとも相手ならきっと自分の真意を読解してくれるはずだ!という相手への全幅の信頼の表れとも考えられるだろう。

幸田家の4姉妹もまた、互いに反発しあいながらも、心の深いところでしっかりと繋がれ、信頼し合っている。だからこそ、「あれ」という言葉であえて濁しているのかもしれない。



どんなに死ぬことが怖くても、大切な存在が死んでほしくないと願っても、平等に時間は流れてゆく。大切なのは、その死を受け止め、次の道筋を自分で創り出していくことなのかもしれない。少なくとも、幸はすずを鎌倉へと呼び寄せ、失われた家庭の暖かさと彼女の青春を取り戻すために姉妹との共同生活をすることを選んだ。それが、父の死を昇華させるための最善の手立てだと考えたからだろう。

四季というゆるやかな時間の繋がりの中で、4姉妹がいくつもの人生の分岐点を通り過ぎてゆく。そしてその度に、自らの身体に流れる血の繋がりを確かめ、寄り添い、生きてゆく。

そのことの美しさと奇跡を味わえる、優しい映画だった。


それと余談だが、この記事のヘッダー画像は、先日私が横浜に出向いた際、その空き時間に鎌倉の海岸線を訪れて撮影した写真である。海街dairyの作中でも、なんとこの場所が登場している。瑞野蒼人がこれっぽっちも意図せず是枝監督と全く同じ場所を映した、奇跡の一枚である。どのシーンなのかは、ぜひ自身の目でお確かめいただきたい。


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というわけで、今回は映画「海街diary」のレビューでした。

引き続き、読者の皆様からの映画レビューのリクエストを受け付けております。下のURLから「募集のお知らせ」に飛んでいただき、コメント欄の方に投稿をお願いいたします。瑞野が責任を持って、レビューさせていただきます。



おしまい。

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