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いじめによってもたらされる強烈なエクスタシー体験

私たちは、いつも何かを壊したいし、破壊したいという強い衝動をその胸に抱えている。何かを徹底的に破壊したい。そして壊したいという強い欲求の様なものを私たちは、この胸に抱えている。

形在るものを、バラバラに壊してしまいたい。そう言った思いは誰の中にもある感情なのではないかと私は思う。

私たち人間というのは、生まれた時から、皆サディストなのではないかと考える。人を殺さないまでも、誰かを批判したり、非難したりして、そこから何らかの快感を得ている。そこに何らかの心地よさみたいなものを日々感じている。

誰かを貶めれば、自分の心の中に少なからず何らかの快感を私たちは覚える。

人を身体的に傷付けないとしても、私たちは日々、誰かの心を、精神を自分でも知らず知らずの内に傷付けている。そしてそこから、何とも言えない興奮を得ている。

誰かをいじめたり、その誰かを貶めると、自分の心の中は何とも言えない興奮で一杯になる。人をいじめる事で、何かとてもさわやかで晴れやかな気持ちになる。誰かをいじめたり、貶めようと画策している時、その時私たちは、そうした事を自分がされたら一体どう思い、感じるだろうか?という事まで想像する事が出来ない。ただ、自分の快楽の為に、その一瞬の興奮の為に、私たちはいじめをする。

いじめをするものというのは、いつも何処か心が満たされていないものなのではないだろうか?自分の心が十分に満たされていないで、いつも何処か虚しくて、つまらない。だから、そんなつまらない生活に何らかの刺激が欲しくて、より過激な行為に走ってしまう。

何か強い刺激が欲しくてたまらない。でも、そんな強い刺激は何処にもない。だから、人をいじめたり、苦しめたりすることでそこから強い刺激を得ようとする。

人の悶絶するその顔をみて人は喜ぶ。そこに強い刺激と性的興奮を覚える。

こうした人間というのは、脳そのものがある意味ラリってると言えるのかもしれない。

人の苦悶の表情に強い快感と、性的興奮を覚える。これはもはや、精神異常者の域に入るような状態。でも、こうした感情はそうした精神的異常者だけのものではなく、今やこうした感情は普通と言われる健常者の方が多く持つものになりつつあるのではないだろうか?誰しも皆、誰かをいじめて、貶める事により、その心の中に何とも言えない高揚感を覚えるはずだ。その刺激が、自分に強い興奮を起こさせる。その刺激によって、私たちは、自分を強烈に感じる。自分を強烈に感じ、その自分に性的興奮を覚える。

これはとても気持ちが悪い話だが、人をいじめたり、貶めたりして、それで気分がいい人というのは、そういった行為を通して、自分に性的な快感を与えているのではないだろうか?

人をいじめる人間というのは、基本的には、自己愛者。という事はつまり、自分の事が誰よりも好きということになる。その大好きな自分を感じたい。その自分にこういったタイプの人間というのは、無意識的に性的興奮を覚えたいのだ考える。自分に自分で興奮したい。その為には、自分を興奮させてくれるものがなければならない。では、その自分を興奮させてくれるものは何か?と言えば、それは自分でいじめた人間の苦悶するその表情を見た時という事になるかと考える。

苦しみを与えて、それで、悲しませる。そこに私たち人間というのは、少なからず興奮を覚える生き物なのかもしれない。誰しも皆少なからず自己愛者だからだ。

人を苦しめれば苦しめるほどに、自分の中の快感度が上がっていく。そうする事が、自分にこれ以上ないほどの強烈な興奮を与える。そうなると、もうその時得た感覚が忘れられなくて、それを脳が完全に記憶してしまって、それをせずにはいられなくなる。

人を苦しめれば苦しめるほどに、自分の中にある興奮度が高まっていく。その興奮からもたらされるエクスタシー体験。それが、誰の心の中にもあるのではないだろうか?



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