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皆がしているから自分も!の危うさ(私たちは全体に飲み込まれている)

何の為に、~するのか?どうして自分は~をしようと思うのか?それを私たちは、意外に何も考えずに、その場の空気というものに流されて、ただ何となく周りがしていいるからといった理由でする。

皆がしているからとか、世間一般の考えがそうだからとか、そう言った流れだから、ただそれに従うまでで、私たちは、特に何も考える必要がないと思ったらそれは大きな間違いだ。

自分で何も考えずに、ただ自分の周りにある環境に流されて生きて行ってしまえば、その中で自分が光るという事はまずない。

ただ何となく皆がそうしているし、それが正解の様に思えるし、それが一般的だからそうするというのは、あまりにも危うい。

皆がそうだから、私も!という考え程恐ろしいものはない。皆がそうだから、私も!となってしまえば、そこで私という個性は完全に消え去る事になる。

日本人というのは、特にだが、皆がそうなら、自分も!!とすぐに、皆の真似をしようとする。

これが一般的だとか、皆がそうしているからとか、どうしてそんな言葉にいちいち影響を及ぼされなければいけないんだろう?こうした言葉には、何か強い強制力でもあるのだろうか?

私たちは、一体何に怯えているんだろう?皆がそうなら私も!とそう多くの人は言うけれど、それで自分の個性を失う方が、私はよっぽど恐ろしい事の様に思ったりする。

皆、この社会全体の中に溶けてしまいたいのだろうか?私は、この社会というものに、自分を飲み込まれたくはない。この社会の在り方に支配などされたくはない。むしろ私というはっきりとした自我を持って、この社会を自分のコントロール下に置きたい。社会やこの世界というものに、惑わされたくはない。

皆がしているから、私も!とそういう時、私たちは、完全に自分を失っている。その事に皆気づいているのだろうか?

個性、個性、自己アイデンティティ―の獲得が重要だ!と謳われるこの世界において、私たちがしている事は、こうした事と全く真逆。個性も何もない。あったとしても、それはいつも全体の中に飲み込まれて行く。そして、その全体の中で、私たちは完全に溶けて、自分というものを失う。

私たちは、この世界の意思、社会の意思と結びついているにすぎず、この全体から、未だ自我を切り離し、獲得する事は出来ていない。

私たちが私としているものは、全体の意思、この社会の意思、皆の意思に過ぎない。それは、あなた個人の意思ではない。私たちは、この全体に完全に同一化している。そしてその全体を自分であるとそう誤認していて、この世界から分離する事が出来ずにいる。

私たちが、今個性だの、自己アイデンティティ―だのと呼んでいるものは、単なる全体の意思に過ぎない。

ただ何となく、生きるという事は、自分の意思を持たずに、そこに在る全体の意思に、自分の全てを委ねているという事になる。私たちは、この全体の一部である存在から、自分を切り離し、私という独自のものを確立しないといけないのかも知れない。

何故、皆と違う生き方が出来ないのか?どうして皆同じような人生になってしまうのか?それは、何かを考えている様で、何も考えていないから、結局自分の全てを全体の意思に委ねているから、皆同じような形に収まる事になる。私たちは、この全体、社会の意思を生きる道具ではなく、自分自身を生きる存在でなくてはならないのではないだろうか?

社会全体を構成する一部の器官として、この自らの人生を終わりにしてしまう事程寂しい事はない。私たちは、この全体を構成する器官に過ぎない存在なのではない。私たちは、いち一人の人間として生きる存在でなくてはならない。それには、この全体という中から抜け出なくてはいけない。

この世界、社会の意思によって突き動かされる存在から、自分の意思で動く存在にならなくてはいけない。何でもかんでも、全体に依存するのではなく、自分で何もかも責任を持って生きる事。それを覚えないといけない。

もうそろそろ、私たちは、この全体への依存から抜け出さないといけないのかも知れない。

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