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私たちは至福そのものになる

絵を描くても、物を作るでも書くでも何でもいい。そう言った行為の中で人間の自我は解けていく。私たちは、行為する事の中で今ある私を溶かしていく。

何もかも忘れ、その行為の中に没頭し、そしてその行為の中に落ちていくとき、私たちは、今あるこの私を超える。この私というものがいかに醜く脆いものであったのかを知る。

私とは、生活の中で作られてきた私であり、その私とは、行為の中で溶けていく。何もかも忘れ、何かの行為に没頭する時、その時、私たちはこの私を超越する。そこにこそ、本当の、いや真実の喜び、至福というものがある。

でも、今現代に生きる私たちは、この行為の中で私を超越するという体験が出来ない。本当の意味での人間性に触れる事が出来ない。

私たちはいつも時間に縛られている。この社会に縛られている。だから、自分の好きな事に時間を忘れて没頭するという事が出来ない。何にもとらわれずにただ自分の好きな事に没頭する。そう言った時間を持てない。

この世界にはたくさんの誘惑物もある。そういったものに私たちは捕らわれているので、この人間としての行為が出来ない。自分を追求する事が出来ない。どこまでも自分を追求する事が出来ない。

行為する事で、その中で私たちはこの着ぐるみである私を燃やす事が出来るが、この行為自体を持つ時間がない。だから、私たちはいつまでたっても、この偽りの私のまま生きる他ない。

私を超越したいとそう思っても、この社会も、そして私たちを取り巻く時間も、それを許してはくれない。この世界は、こう考えていくと、本当の私というものを追求する事が出来ない様に全て作られている気もしてくる。

沢山のもので溢れかえり、私たちは次々に色々なものに興味を示す。外にある事物に私たちは常に誘惑され、自分自身に没頭する事など出来ない。外の世界に魅力あふれるものがたくさんあって、そのものが自分を一時的に満足させてくれる。だから、その一時的な満足を追って、私たちはこの作られた外の世界に依存する。そして毎日人を変え、そして品を変え、自分のその心を一日も休むことなく満たし続ける。

私たち人間というのは、本来そんなにたくさんのものをもつ必要はない。私が私を超え、そして自己との一体化を果たす時、自己の中に自我が吸収される時、もうその時、私たちは何も必要とはしない。

自我が、自己の中に溶ける時、自己との一体化を果たし、その自己によって、その自我の全てが吸い上げられるとき、その時、そこには、永遠の至福しかない。この境地に辿り着く事が出来れば、私たちは過剰に何かを必要とする事はない。私たちの自我が自己に吸い上げられるとき、自己と一体化を果たす時、その時、私たちは人間であるという枠を超え、そこにただある至福そのものになる。私たちは人間をこえ、喜びそのものとなる。


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