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私たちが求めて止まない自己存在証明

私たちは、働くという行為を通して、ここに自分があるという事を証明する。だから、この働くという行為を奪われてしまうと、私たちは、この自己アイデンティティ―というものを、一体どうやって維持したらいいのかがわからなくなる。

私がここに在るという事の自己存在証明みたいなものが何もなくなる。これまでは働くという行為が自分がここに在るという存在証明になった。でも、仕事を失えばそれが無くなる。

人間っていうのは、自分がここに在る。存在しているという自己存在証明みたいなものをいつも必要としている。この世界に自分という存在があっていいんだ!とそう思いたい。この世界に自分は必要とされているんだとそう思いたい。私たちはいつも、この世界に自分という存在があっていいんだ!といった許可みたいなものを求めているのかも知れない。

だから、いつも何かをしていないといられない。何もしていなければ、私たちは、この世界にこうして生きていていいのかがわからなくなり、強烈な不安の中に落ちて行ってしまう。

何かをしていれば、それで自分の自己存在証明はできるので、この強烈な自分が本当に存在していていいのか?といった不安には捕らわれる事がなくなる。

私たち人間というのは、この漠然とした不安というか、恐怖をいつも抱えている気がする。だから、いつも何かをしていないといられない。何かをする事で、自分がここに在っていいんだと私たちはそう自分に思わせている気がする。そうやって、自分に安心を与えている気がする。

こう考えていくと、私たちの心の奥深くには、自分という存在がこの世界にある事に対する否定みたいなものがある気がする。

あってはならないものが、この世界にある。このあってはならないものというのが、自分であるとそう私たちは心の何処か奥深くで思っているのかもしれない。

自分は、この世界にはあってはならない存在。つまり、私たちは自分で自分の事を否定してしまっているという事。自分でここに自分という存在が在るという事を否定してしまっている。だから、そんな自分を肯定する為に、いつも、何かをしていなければいられない。何かをする事で、少しでもいいから、自分の事を肯定し、それを自分が在るという自己存在証明につなげている。そんな気がする。

私たち人間というのは、究極、自分ってものを何も肯定出来ていないのかもしれない。この世界にありながら、なかなか、その自分を、ありのままの自分を肯定する事が出来ずにいるのかも知れない。いつも心の何処かでこれでは駄目だという思いがある。だから、その思いを払拭する為に、私たちは何かをせずにはいられない。何かをしていなければ、私たちは自分を肯定出来ないんだろう。

何かをするという事が、私を私として成立させてくれる。だとするなら、なにもしなければ、私は私として存在する事が出来ないという事になる。

私たちが何故、毎日毎日同じ電車に揺られて仕事に出かけていくのか?それはもちろん生活の為ではあるけれど、その答えはこれだけではない気がする。

私たちは、何かをしていることでしか、自分を肯定出来ない。何かをする事で、私たちは私というものを確立している。だから、何かをしなければいられないのだろう。

私たちは、自分を崩壊させないために、私なるものを維持させる為に、何かをしなければならない。そう言った状態の中にいると言えるのかも知れない。

何かをしている事で、私は私として成立する。でも、何もしていなければ、私たちは、私という存在を、私として成立させる事が出来ない。この私を私として成立させる事が出来ないという事は、私たち人間にとって一番苦しい事なのかもしれない。

私が、私として成立し、そして、此処に私という存在が在るという事が、人間にとっては一番の安心なのかも知れない。この安心がある事で、始めて人間は生きるという事を可能にすることが出来るのかも知れない。




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