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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#感情

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから

エネルギー消費を嫌がるエコ人間

自分の守るべき所は守って、他を尊重する生き方をと鈴木大拙は言う。 今の私たちは、自分の守るべき所だけを守って、他は尊重しない生き方、これをしている様に思う。 いつの時代もそうなのだが、私たち人間の考え方というものは、本当にバランスが悪い。私たちは中庸、そのものの真ん中で考えるという事がなかなか出来ない。いつも、右か左、どちらかに傾きすぎる所がある。 相手を尊重してと言えば、私たちは、その相手を尊重しすぎてしまい、逆に自分を主張しろ!と言えば、それを私たちは他に押し付けて

操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。 私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。 この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。 私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているそ

ナルシシズムによる自己確立

私たちは、今自分の目の前にある世界が全てだと思って生きているところがある。木を見て森を見ない生き方だ。もっと言えば、私たちは木すら見ていないのかもしれない。私たちが見ているのは、木に茂っている多くの葉っぱの一枚。その一枚しかもしかしたら見ていないのかもしれない。 私たちが全てだと思ってみている世界は、木に茂った葉の一枚。そんな小さな世界を私たちは意外に全てだと思って生きていたりする。だから、苦しくなって、辛くなって、何処にも人生の逃げ道がない気がして辛くなる。 人間という

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の

人格変容を伴う癒しという強烈な体験

私たち人間は日々、癒されたいと思っている。自分の中にある苦しみや、悲しみを和らげたいと思っている。だから、色々な所へ出かけて行ったり、色々な人と出会ったりして、そこで私たちは自分の心を癒そうとしている。 私たち人間というのは、自分の中にある苦しみや、悲しみ、これを完全に断とうとはしない。ほんの少しでも、癒されれば、自分の中にあるものが緩和されればそれでいいくらいにしか思っていない。 だから、一時的な癒しを求めてあちこちをさまよう。そして、一時的な満足で自分が癒されたとそう

表現という名の自己解放

自分の中から出てこようとするものを、この社会は出すなっていう。 余計なものを出すな。余計なものを書くな。表現するなって。 人に受けのいいものを、人に評価されるものを。そんな風に教育されて生きてきたけど、それじゃあ自分の中にあるものが私の中から出てこれない。 私の中にあるものは外に出たがってる。この私の中にあるものは、私が表現する事で、その表現に乗って私の外に出る。 彼らは私なしでは、この世界に出てこれない。 私は表現する事で、私の中に閉じ込められているものを外の世界

表現とは自分の中から出た叫び

あれも駄目。これも駄目って押さえつけるから、私たちは表現したくなる。 表現しなければいられなくなる。表現して、そこで抑え込まれている自分を表現しなければいられなくなる。 これは違う。あれは違うと何でもかんでも否定してくるから、私たちは表現したくなる。 何でもいいだろう!って思うから、それを表現したくなる。どこにも、そして何にも正しい事なんてないってことを表現したくなる。 何が正解で、何が不正解かなんて誰にもわからない。だからこそ、その何が正なのかわからないその混沌を私

何故?どうして?その問いが自分を救う

何でなんだろう?といちいち、自分の取る行動、言動について問う。 こうする事で、何故、自分が今そう言う事をしようとしているのか?を明確にする。自分の中に一体どういった思いや考えがあり、それがどの様に自分の中で動いているのか?を知る。 私たちは意外に、自分自身の行動について、何故自分はこうした事をしているのだろう?と問うことがない。 自分の中にある感情に引きずられて、特に自分で何かを意識する事無く、色々な事をしていたりする。 何故、自分が今此処にいて、こうした事をしている

感情的反応型人間の回避人生

なんかむかつく。なんか気に入らない。そう何かに自分が反応した時というのは、ある意味自分を知る大きなチャンスだったりする。 何かよくわからないけれど好かないなあと思う時、その時、私たちはその対象となるものから何らかの影響を受けているという事になる。 何の興味も関心もなければ、私たちは何にも反応しない。でも、あるものに反応し、そこに何らかの否定的感情を抱くとき、そこに自分でも知らない何らかの感情というものが隠されているという事に気づく事が出来る。 自分の中にある何かが、刺激

単調でフラットな日々

もっと必死になって自分の中にあるものをあるがままにぶつけたらいい。 そう言われても、私たちには、その自分の中にあるぶつければいいというものがない。つまり、それは生きるという事に対する情熱ってやつだ。 情熱ってのは、自分の中にある激しく高まった気持ちの事。この激しく高ぶった気持ちってのが今の私たちにはない。 何もかもがフラットで、特にこうといった変化はない。ずっと同じテンションのままずーっと続いていく。そこに感情的な変動はない。私たちはいつもフラット。 爆発的に自分の感

コロナだけが”特別”なんじゃない

どうにかなるんじゃね?どうにもならないのならそれはそれで別にいいし。 とりあえず、私たちは今を生きたいから、ほっといてくれる? 私たちはこの世界で何が起こっていたとしても、関係ない。この世界で今回の様にコロナが蔓延しなくても、私たちはいつだって、危機の中にいる。今だけが危機な訳じゃない。今だけが緊迫している訳じゃない。私たちの人生は今回に限らずいつだって緊迫して切羽詰まっってる。 だから、コロナだけが特別なんじゃない。もうすでに私たちは危機の中にいる。でも、これまで、そ

石化した大人になる前に(私たちが欲しいのは生きているという強い実感)

何でもかんでも楽しきゃいい!!ってのはある意味とっても危険。 ただ楽しきゃいいでよく考える事もなく、その場のノリだけで物事に突っ込んでいく事ほど危険な事はない。でも、実際問題、今はこのノリというか、その時のテンションだけで危険な事の中に落ちていく人が少なくない。 楽しい事だけしていたい。自分のテンションが上がる事だけをしていたい。苦労はしたくない。楽して生きて行きたい。そう言う事を言う人が最近富に増えた気がする。 とにかく楽しくしていたい。楽しく、そしてキラキラと充実し