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単調でフラットな日々

もっと必死になって自分の中にあるものをあるがままにぶつけたらいい。

そう言われても、私たちには、その自分の中にあるぶつければいいというものがない。つまり、それは生きるという事に対する情熱ってやつだ。

情熱ってのは、自分の中にある激しく高まった気持ちの事。この激しく高ぶった気持ちってのが今の私たちにはない。

何もかもがフラットで、特にこうといった変化はない。ずっと同じテンションのままずーっと続いていく。そこに感情的な変動はない。私たちはいつもフラット。

爆発的に自分の感情が高ぶる事もなければ、だからといって、急激に自分の中で温度が下がっていく事もない。私たちの感情とはいつも特にこれといった変化を持たずに一定だ。

色々なものが世の中に溢れすぎて、私たちは何をしていても同じ反応しかとる事が出来なくなった。何を見ても、何をしても、それほどこの心は動かなくなった。

何に対しても新鮮味というものがなくなり、その味わいも良いものではなくなった。何を見ても、何を食べてもそこにそれほどの差はない。

だから、もちろんの事、そこには何の感情の起伏も生まれない。

ただずーっと永遠に同じ事が同じテンションで続いていく。そこにはいつもながら、爆発的な感情の変化はない。上がる事もなければ下がる事もない。フラットのままで現状維持。これはある意味地獄だ。

何の変化もない。何の刺激もない。こんな世界にいるから、私たちは強い刺激を求めて街に出る。でも、結局街に出たとしても、私たちが望んだものなど何も手には入らない。

一時的にその心を満たすものがあったとしても、その心はすぐに苦しみを覚える。ほんの一瞬自分の感情に変化が現れたかと思うと、又あのフラットな状態が私たちを飲み込んでしまう。

毎日毎日同じことの繰り返し。単調な世界。それに特に何の変化も見せる事のない自分の心。こんな世界にいたら、正直、私たちの心は潰れる。

もっとアップダウンの激しい人生をとそう思いながらも、私たちは心の何処かでそうしたアップダウンの激しい人生を嫌っている。

平坦なのは嫌、といいながら、その逆は嫌だという。私たちは本当に都合のいい事ばかり言っている。これは嫌だけど、でも、あれは欲しい。みたいな。そんなに都合よくこの世界が回っているとも思ってはいない。でも、出来るなら、自分に都合よくこの世界が回ってくれたならとそう思う事も少なくない。

何の刺激もないのは嫌。適度な刺激ある人生が欲しい。過激すぎるのはちょっと。そう言いながら、私たちは自分に向かってやってくる人生の多くを拒否し、そして何も受け入れようとしない。その結果、私たちがこの手にするのは、何の変化もない単調でフラットな日々だけだ。

そんな単調でフラットな世界の中で私たちは一体何に、情熱をぶつける事が出来るだろうか?何の情熱もない私たちが、いったいどこにあるキャンバスにこの自分を打ち付ける事が出来ると言えるのだろうか?

今の私たちは、自分のその情熱を打ち付けるそのキャンバスさえ、自分で見つける事が出来ないのだ。


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