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人格変容を伴う癒しという強烈な体験

私たち人間は日々、癒されたいと思っている。自分の中にある苦しみや、悲しみを和らげたいと思っている。だから、色々な所へ出かけて行ったり、色々な人と出会ったりして、そこで私たちは自分の心を癒そうとしている。

私たち人間というのは、自分の中にある苦しみや、悲しみ、これを完全に断とうとはしない。ほんの少しでも、癒されれば、自分の中にあるものが緩和されればそれでいいくらいにしか思っていない。

だから、一時的な癒しを求めてあちこちをさまよう。そして、一時的な満足で自分が癒されたとそう思っている。でも、その心にあるものは、一時的な癒しでは足りずに、何度も何度も癒しを欲しがる。

自分の中にある苦しみや、悲しみというのは、一時的な癒しを求めている訳ではない。彼らは昇華する事を求めている。

彼らは一時的な事では何も満足しない。だから、何度も何度も、私たちの目の前に現れる。彼らが私たちに望んでいるのは、一時的な癒しではなく、永遠なる癒しなのではないだろうか?彼らは今、ここが満たされる事を要求している訳ではなく、今此処だけではなく、今此処を含むその全てに癒しが与えられる事を求めている。

私たち人間というのは、新しい土地に出かけ、そして新しい人と会い、新しい体験をし、それによって、自分が癒された様な気持ちになっているだけ。新しい事にチャレンジして、そこに新しい風が入れば、それにより、一時的にリフレッシュした気になっているだけ。そこには、本当の癒しなんてものは存在しない。

本当の癒しというものは、人間そのものを全く違ったものに生まれ変わらせるほどに強烈な体験。そしてその癒しとは、自分の心の奥深くに沈潜していく事でしか得られない。

自分の心の奥深くに沈んでいくという事は、自分の我を究極に縮めていくという事。自分の我を何処までも削っていくという事。自分が持っている力を手放していくという事。自分が自分だと思っているものを脱ぎ捨てていく。そして、その極限まで行くと、ある時向こうから、自己という大きな光が自らの意志を持って立ち現れてくる。

極限まで削った自我が、その圧倒的な光を放つ自己と対面する。この時、その大きな光と私たちは対峙しないといけない。この大きな自己という光と対峙し、そして、その光に飲み込まれる事無く、その自己という光と上手に折衝する事が出来れば、その先に本当の癒しというものが与えられる。

私たちが癒し、癒しと言っているその多くは、一時的な癒しであり、その癒しとは、癒した気になっているというだけのものであり、つまり自己満足の延長線上にある作られた偽りの癒しであり、その様なものは真なる癒しとは呼ばない。

真なる癒しというものは、自分の心の奥深くに潜って行って、その心の奥深くに住む大きな魔物と対峙し、何とかしてその魔物を自らに手なずけたときに、その魔物によって与えられる力の様なものだ。

今この世界に生きる私たちは、本当の意味での癒しなど知らない。私たちは癒しに限らず、本当の体験というものを何も知らない。

本当の癒し、そして本当の体験というものは、私たちと横並びにあるものじゃない。本当の癒し、そして体験というものは、私たちの心のずっと奥深く縦の並びの一番底在るものだという事を知ってもらいたい。

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