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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#毎日note

人間として生きるという最も純粋な行為とは、あらゆる拘束から解き放たれた先にあるもの。

この身をかみ砕くほどに強烈な体験。それを、私たちは求めているのかも知れない。そう言った強烈な体験がなければ、本当の意味での生など感じられない。 ぼんやりとしたこの世界では、私たちは何も捉えられない。可もなく不可もないこの世界で、いったいどうやって私たちは生きるという人間として最も激しい体験を得る事が出来るのだろうか? 人間である為には、もっともっと激しい体験が必要なのかもしれない。何もかもが緩くなり、平板化してしまったこの世界では、人間として生きるという醍醐味みたいなもの

綺麗に整っていないからこそ、人間は美しいんじゃないだろうか?

皆、同じものを見て、同じように反応する。何もかも皆、右に倣えで一緒。 誰かと少しでも違った反応を起こすと、この社会は、何故か、その皆と違った反応を起こす人を排除する。 こうした事に、私たちは何も疑問を抱かない。何でもかんでも皆一緒にしようとしている。私たちはおかしな生き物。でも、その事に気づかない。 学校教育は、何でもかんでも、皆同じにしようとする。他人と違う子は、学校では歓迎されない。いかに全体に馴染みよく生きられるか?これが学校教育での一つの指針となる。 何でもか

何かを必要としている時点で私たちは、本来の自分から遠ざかっているのかも知れない。

物も、事も、人間も、自然も何でもそうだが、何もしなければ、そこに在るエントロピーは増大していく。何も手を付けなければ、そこに在るものごとは皆全て、乱雑な状態になっていく。 力をかけ続ける。常に意識をし続ける事でしか、このエントロピーの増大を防ぐことは出来ない。 何事にも、力をかけずに、意識をかけずにいれば、私たちは皆、どんどんと複雑化していき、その姿は乱雑なものになり、自分でも、その自分がわからなくなる。それほどに、私たちは複雑化する。 自分というものに、常に意識を向け

エネルギー消費を嫌がるエコ人間

自分の守るべき所は守って、他を尊重する生き方をと鈴木大拙は言う。 今の私たちは、自分の守るべき所だけを守って、他は尊重しない生き方、これをしている様に思う。 いつの時代もそうなのだが、私たち人間の考え方というものは、本当にバランスが悪い。私たちは中庸、そのものの真ん中で考えるという事がなかなか出来ない。いつも、右か左、どちらかに傾きすぎる所がある。 相手を尊重してと言えば、私たちは、その相手を尊重しすぎてしまい、逆に自分を主張しろ!と言えば、それを私たちは他に押し付けて

他の有限なる時間を食らうエナジーバンパイヤ

時間というものは、有限であって無限ではない。 この世界には、この有限である時間を無意識的に奪い続ける人たちがいる。 彼らには、自分が相手の有限な時間を奪い取っているという自覚がない。 彼らは、私にしっかりとくっつき、そして思いっきり、私が有している時間というものを吸い取っていく。彼らは、ある意味吸血鬼。 彼らは、私から貴重な時間を奪う。そして、それを自分を生かす為のエネルギーにしているそんな気がする。 人にくっついては、その人の時間を奪う。奪った方は、それで、エネル

操作された自由意思

私たちは、この世界で何もかも自分の意思で行動していると、そう思っている。でも、これは意外に間違いだったりする。 私たち人間は、自分の意思でなど行動していない。昨日も書いたけれど、私たち人間は皆、操作されている。 この世界には、たくさんの情報が溢れているけれど、その情報を私たちは自分たちの意思で選択し、そして見ているとそう思っているかも知れないけれど、これも意外に違ったりする。 私たちは、自分で~しているのではなくて、他者に~させられている存在にすぎない。自分で見ているそ

私たちは至福そのものになる

絵を描くても、物を作るでも書くでも何でもいい。そう言った行為の中で人間の自我は解けていく。私たちは、行為する事の中で今ある私を溶かしていく。 何もかも忘れ、その行為の中に没頭し、そしてその行為の中に落ちていくとき、私たちは、今あるこの私を超える。この私というものがいかに醜く脆いものであったのかを知る。 私とは、生活の中で作られてきた私であり、その私とは、行為の中で溶けていく。何もかも忘れ、何かの行為に没頭する時、その時、私たちはこの私を超越する。そこにこそ、本当の、いや真

もうやめたんだ。

何にも面白くないし、楽しくない。むしろ苦痛。でも、私たちはその苦痛の中から抜け出ない。一生懸命作り笑いして、一生懸命何の興味もない話を永遠に聞いている。 何の為に、そこに行くのか?何の為にその人の話を聞くのか?一生懸命その人の話を聞いた所で、その人は自分のことなど何も聞いてはくれない。でも、その人がいつか自分の話を聞いてくれるんじゃないかといった幻想をその胸に抱えて、私たちはというか、私はいつまでも相手の話を聞いていた。 聞いていただけだった。私は気付いた。私のしている事

私たち人間は感情の奴隷

私たち人間は、自分の取る行動の本当の意味を知らない。ただ何となくそうしたいから、そうしているだけであり、何故、自分がこういった行動を取るのか?その本当の理由は何も知らない。 私たち人間というのは、自分の意思を持って自分のありとあらゆる行動を決めている様に思えるけれど、でも実際は、そこに自分の意思など殆ど反映されてはいない。私たちは、自分で自分の取る行動を意識的に決めているのではなく、自分の中にある感情というものによって、自分の取る行動を決められている。つまり、私たちの行動の

人生に屈するな、戦え。

往生際の悪さ。 私という人間は何処までも欲深い。自分というものを何処までも追求していきたい。今あるこの自分というものに、私はそう簡単に納得する事が出来ない。 周りを見ていると、皆いとも簡単に自分の人生に納得しているかのように見える。納得しているというか、もう自分の人生と闘う事を諦めてしまっているのか? 自分を生きると考えた時、そう簡単に自分の人生に納得する事が出来るだろうか?私は、自分のこの人生に負けたくはない。だから、一生この自分と闘い続けるつもりでいる。 これが自

いついかなる時でも自分を問う

私たち人間というのは、しっかりと色々な事を意識して生きていないと、この心というか、精神はすぐにバラバラに砕けていく。自分を一つの塊として維持していくには、その1つの塊である自分を常に意識し続ける事が必要になる。 何もせずにただこの流れる時間にその身を委ねて生きて行けば、自分というものは維持する事が難しい。エントロピーの法則ではないが、私たち人間というのは、常に自分に意識を向け続けなければ、この私というものは、簡単に複雑化し、乱雑になる。 自分の部屋も、常に自分で綺麗にしよ

創造する力が生むフリーエネルギー

私はいつも何かをしていないといられない。じっとしていられない。 じっとしていると、自分が何かに食われてしまうようなそんな気がして、いつも何かをしていないといられない。 何かをすると言っても、掃除や洗濯、仕事や家事という事では無い。 私はいつも創造的な事をしていたい。何かを書いたり、作ったり、何処までも自分の思考を広げて行ったり。こう言う事をしていたい。 こうした事が出来ない日、私はその日一日生きた気がしない。 創造する時間というものが、一日の中にないといられない。私

表現という名の自己解放

自分の中から出てこようとするものを、この社会は出すなっていう。 余計なものを出すな。余計なものを書くな。表現するなって。 人に受けのいいものを、人に評価されるものを。そんな風に教育されて生きてきたけど、それじゃあ自分の中にあるものが私の中から出てこれない。 私の中にあるものは外に出たがってる。この私の中にあるものは、私が表現する事で、その表現に乗って私の外に出る。 彼らは私なしでは、この世界に出てこれない。 私は表現する事で、私の中に閉じ込められているものを外の世界

共感を拒み、理解を求める私の芸術

人受けのいいもの、人に評価されるもの。そう言ったものを書いていたら、自分ってものが消えていった。 人に見られる事、評価される事。そればかりを思って、物を書いたり、形あるものを作っていたら、そこから自分ってものが消えていった。 表現とは、自分あってのものだけれど、その自分がいつしか自分から消えていった。 みんなに見られるために、皆に理解してもらう為に、こうした事に必死になって、私は私を失っていった。自分を失っていった。 人受けのいいもの、人に評価されるもの、人に求められ