マガジンのカバー画像

生きる

90
ー破壊そして再生へー
運営しているクリエイター

#日記

もうやめたんだ。

何にも面白くないし、楽しくない。むしろ苦痛。でも、私たちはその苦痛の中から抜け出ない。一生懸命作り笑いして、一生懸命何の興味もない話を永遠に聞いている。 何の為に、そこに行くのか?何の為にその人の話を聞くのか?一生懸命その人の話を聞いた所で、その人は自分のことなど何も聞いてはくれない。でも、その人がいつか自分の話を聞いてくれるんじゃないかといった幻想をその胸に抱えて、私たちはというか、私はいつまでも相手の話を聞いていた。 聞いていただけだった。私は気付いた。私のしている事

表現という名の自己解放

自分の中から出てこようとするものを、この社会は出すなっていう。 余計なものを出すな。余計なものを書くな。表現するなって。 人に受けのいいものを、人に評価されるものを。そんな風に教育されて生きてきたけど、それじゃあ自分の中にあるものが私の中から出てこれない。 私の中にあるものは外に出たがってる。この私の中にあるものは、私が表現する事で、その表現に乗って私の外に出る。 彼らは私なしでは、この世界に出てこれない。 私は表現する事で、私の中に閉じ込められているものを外の世界

共感を拒み、理解を求める私の芸術

人受けのいいもの、人に評価されるもの。そう言ったものを書いていたら、自分ってものが消えていった。 人に見られる事、評価される事。そればかりを思って、物を書いたり、形あるものを作っていたら、そこから自分ってものが消えていった。 表現とは、自分あってのものだけれど、その自分がいつしか自分から消えていった。 みんなに見られるために、皆に理解してもらう為に、こうした事に必死になって、私は私を失っていった。自分を失っていった。 人受けのいいもの、人に評価されるもの、人に求められ

私っていう人間

とても不思議な事を書いてみようと思う。 私たちはもともと皆同じ。今こうして私が人間であるのは、たまたま私が人間って形で生まれてきたからに過ぎないと思う。 私ってのは、そもそもこれといった形などないと私は思っている。たまたまその時、人間であったり、動物であったり、植物であったというだけの話。 今、私はとりあえず人間って形として生きてはいるけれど、それは自分が自分の事を人間だとそう認識しているから、私は人間な訳で、もし、この私が自分の事を人間ではないとそう認識した場合、自分

私たちが求めて止まない自己存在証明

私たちは、働くという行為を通して、ここに自分があるという事を証明する。だから、この働くという行為を奪われてしまうと、私たちは、この自己アイデンティティ―というものを、一体どうやって維持したらいいのかがわからなくなる。 私がここに在るという事の自己存在証明みたいなものが何もなくなる。これまでは働くという行為が自分がここに在るという存在証明になった。でも、仕事を失えばそれが無くなる。 人間っていうのは、自分がここに在る。存在しているという自己存在証明みたいなものをいつも必要と

愛とは相対的なもの

愛とは相対的なものであって、絶対的なものじゃない。 その時の感情によって、愛の価値などコロコロ変わる。絶対的な愛だと思っているのは幻。 私たちは相手が自分にとって都合がいいと感じる時、それを愛と呼んで、その相手を慈しむ。 でも、自分に都合が悪い時は、その相手を自分の元から振り落とす。そこに絶対的な愛などない。 絶対的な愛なんてない。あるようでそんなものはない。どこを向いても、そこにあるのは、自分勝手な相対的な愛。 その相対的な愛を、私たちは皆知りながら、それを認めた

苦しみへの憧憬

私たちは知らず知らずの内に自分を苦しめて、そこから快感を得ている。 自分を苦しめる事で、自分の中から一種の快楽を得ている。 自分の事を苦しめたくない。追い込みたくないとそう言いながら、日常ではそんな自分を苦しめ、追い込んでいる。そうやって、自分の中に快楽を作り出している。 自分を苦しめる事。自分を極限まで追い込む事、そうする事で、自分の中に一種の快楽が生まれる。どこまでも、自分をいじめ尽くす事で、私たちはそこに一種の心地よさを覚える。 人間というのは不思議なもので、不

ぞうきんみたいにその身を固く絞った事があるか?

ぞうきんを絞る様に、自分のその身も絞る。そうすると、ぎゅうぎゅうに絞ったその自分の身から出た汚れで、バケツの中の水が真っ黒になる。 その真っ黒なものが自分のその心を形成してる。 バケツの中に出たその汚れは、バケツの中で1つの形成物になって、1つの人格を備えて私の前に立ち現れる。その姿は私がずっと否定してきた私の醜い姿。 その姿が自分の前に立ち現れて、この今ある私を殺そうとする。その汚れきった私に殺される事無く、自分を変えるなんて出来ない。彼らの苦しみをこの身に受けずに自

考える事、学ぶ事をやめないで

もっと考えよう!自分の事ではなくてこの世界の事。自分の事ばかり見ていないでもっと広くこの世界を見よう!!そしてこの世界について考えよう。 私というものを超えて、私たちはもっと人間というものについて考えなければいけない。私たちは自分ってものに固執しすぎてる。だから、その自分ってものから離れて、その自分を自分たらしめてくれているもっと根本的な部分について考えを深めていく必要がある。 自分、自分っていう前に私たちは、もっとこの世界の事を、地球の事を考えるべき。この地球がなければ

私たちは決して美しくなんかない

人間なんてそもそも混沌としたものでしょう?それを美しく見せようとしたってそれは無理。元々、人間は混沌としていて何だかわからないもの。 これといった形を持たずに、混沌としているもの。だから美しかった。でも、今はその混沌さに秩序がもたらされてしまって、しかもその秩序が過剰になってしまって、私たちは全然美しくない。 混沌としていて、何もかもがめちゃくちゃでごちゃ混ぜになっていた。それが人間の持つ美しさの極みだったりするけれど、それが今はない。 今の人間はあまりにも自分を綺麗に

人間になれないバケモンの世界

人間ってのは、自分に理解する事が出来ない事はなるべく自分の人生から排除しようとする。それか、そんな事はないといってそのありのままの現象をなかった事にする。はなっからそんな事は存在などしないとそういう。そういって、理解出来ないその自分を正当化しようとするというか、正当化する。 人間っていうのは、皆自分が一番正しいとそう思って生きている。だから、その自分の理解を超える事や、わからない事に出くわすと、その自分の知っている範囲内にそれらを収めようとする。その時、そこに収まり切れない

大人と言われる人間たち 子供と言われる人間たち

だめ!と言われると、私たちはそのだめと言われる事を何だかむしょうにしたくなる。これはしてはいけません!と言われると、それを何だかむしょうにしたくなる。 だめ!と言われると、妙にその心が躍ってしまう。人間とはこう考えていくととても不思議なものだとつくづく思う。 私たちは自分の行動を日々制限されている。これは駄目、あれは駄目とそう言って毎日何かしら自分の行動や言動、その在り方全てに何らかの制限をかけられている。でも、その制限をかけられればかけられるほどに、私たちはそれを破りた

私という名の時限爆弾

私に触れると、時限爆弾が作動する。みんなそう思って、私というものに触れたがらない。皆、私から一定の距離を取って接しようとする。 私が楽しくなって、その口を開こうとすると、皆必死になってその口を押える。余計な事は言うなって。皆自分のそのバケの皮がはがれる事を怖れてる。嘘で塗り固められたその自分が露わになるのを怖れてる。 私は皆からしたら時限爆弾。触れた途端に作動する時限爆弾。 触れなければ何も作動はしない。だから、皆あえて何も触れない。自分のかぶったそのバケの皮が剥がれる

私たち人間なんてもうとっくにバグってる

世の中を見回してみると、みんな嘘ばかりついている事に気づく。 自分をいい様に見せる為に自己正当化ばかり。一体何処に本音で語っている人がいるのかと疑問になる。 皆誰も本音を言わない。心の中では全く別の事を考えたり、思っていながら、口ではそれとはまるで違う事を話す。 心の中はつまらなくて、何も面白くないのに、その顔は必死に笑ってる。そういう人間を見るいると、私たちはもう完全にイカれてるとそう思う。 自分に嘘をついて、周りにいい様に振舞う。受けのいい自分を作って、その自分を