文字を持たなかった明治―吉太郎16 大家族②

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 吉太郎の生年月日などのあと家族構成を記した(苗字住所父・源右衞門母・スヱきょうだいなど)。農家の五男だった吉太郎は学校に行けず、当時数多いた「子だくさん家庭の跡継ぎではない男児」の一人である。ろくに文字の読み書きもできない人間としてどんな人生を歩んだのかを探るため、前項からは郷里の役所で交付してもらった除籍謄本を参照に、まず家族の状況を見ている。

 最も古い謄本(便宜上【戸籍一】とする)の次に古いもの(【戸籍二】とする)では、家族は23人になっている。父母に6人の子供がいた吉太郎の家族がどんなふうに「膨らんだ」のかを見ていこう。ちなみに前項で述べたように、【戸籍二】の戸主は長男の仲太郎だ。

 最初に戸籍に加わる(入籍)のは、弟(四男)源太郎の妻・チヨだ。「明治参拾七年五月拾日」(註:1904年。「拾」は十)に同じ西市來村大里の生家から「婚姻届出 同日受附入籍」している(源太郎30歳、チヨ25歳)。吉太郎にとって、すぐ上の兄が妻を迎えたということでもある。

 次に入籍するのは、源太郎・チヨ夫婦の長女・キサだ。戸籍上の続柄は「姪」で、「弟源太郎長女」と付記されている。出生日は「明治参拾七年五月拾八日」で婚姻届出日とあまり変わらないが、こういったケースは珍しくなかっただろう。

 このキサは5月30日に亡くなっており、とても短い命だった。乳児が短命なのも当時よくあることだが、出生届をきちんと出してあったことは、吉太郎の孫娘・二三四(わたし)にとっては少々驚きでもある。なぜなら、以前noteで述べたとおり、ミヨ子が産んだ最初の子供は戸籍に記載されていないからだ〈237〉。嬰児のキサがこの世に存在した証が公の文書に残っていて、羨ましいとさえ思う。一家の最初のお嫁さんが産んだ最初の子供として、大切に扱ったのかもしれない。

 三番目に戸籍に加わるのは、やはり源太郎夫婦の子供・ハルだ。「明治参拾八年拾一月五日生」(註:1905年)、続柄は「姪」、「弟源太郎二女」と付記されている。

 その後も源太郎夫婦に子供が生まれ戸籍に追加されていった。順に書くと次のとおりだ。
「富吉 甥 弟源太郎長男 明治四拾年拾弐月弐日生」(註:1907年)
「廣二 甥 弟源太郎二男 明治四拾四年壱月弐拾八日生」(註:1911年)
「アキ 姪 弟源太郎三女 大正参年壱月弐拾五日生」(註:1914年)
「淸  甥 弟源太郎三男 大正五年拾弐月拾弐日生」(註:1916年)

 つまり、吉太郎のすぐ上の兄・源太郎とチヨ夫婦は、当時としては早くない結婚ながら、亡くなった長女のキサを含め13年ほどの間に6人の子供を授かっている(少なくとも戸籍上は)。「23人にも増えた」戸籍記載者中実質増は16人、うち7人が源太郎婚姻に伴い増えた計算だ。

 源太郎一家は父・源右衞門亡きあと、兄で長男の仲太郎が戸主を務める家でいっしょに住んでいたと思われる。いや「源太郎一家」という言い方はおかしい。仲太郎は一家の主だから、そのきょうだいの妻や子も同じ「一家」という認識が、ふつうだったのかもしれない。

〈237〉母・ミヨ子の最初のお産は難産の末死産だった。当時一家あげて取り組んでいたミカン山の開墾作業が母体に影響したと思われる。詳しくは「文字を持たなかった昭和 四十四(初めての子供)」。

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