文字を持たなかった明治―吉太郎15 大家族①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しつう、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成を記した(苗字住所父・源右衞門母・スヱきょうだいなど)。吉太郎は農家の五男であり、学校には行けず読み書きができなかったが、そんなケースは当時珍しくはなかったことも。

 それでは、当時数多いた「子だくさんな家庭の跡継ぎではない男児」の一人であり、ろくに文字の読み書きもできない子供として、吉太郎はその後どんな人生を歩んでいったのか。辿っていく手立ての一つとして、再び除籍謄本を見てみたい。

 手元には、最も古いものから吉太郎と妻・ハル(祖母)の除籍まで、5通の謄本がある。謄本の記載から一家の変遷を垣間見るだけでも十分興味深い。

 いちばん古い謄本(便宜上【戸籍一】とする)には、戸主・源右衞門一家の家族構成が極めてシンプルに記載されていてまるで現在の戸籍のようだ、と述べた(9 家族構成⑥きょうだい)。謄本も1枚きりだ。

 ところが次に古い謄本(【戸籍二】とする)になると4枚綴りで、記載されている人も23人と一気に増える(死亡した前戸主を除く)。ここでは、吉太郎の父・源右衞門は「前戸主」欄に記載され、新たな戸主は「亡父源右衞門長男 仲太郎」になっている。

 戸主の変更については「明治三十年三月二日相續」(註:1897年)との記載があるだけで、源右衞門の死亡自体については何の記載もない。もしかすると、戸籍編製のための参考としてひと世代前の【戸籍一】を後付けで編成したのかもしれない、と思えてくる。

 【戸籍二】の人々には、戸主・仲太郎との続柄が記載されている。吉太郎きょうだいの母・スヱは「母」、きょうだいは「弟」「妹」という具合。また、ここまでは「亡父源右衞門」との続柄もそれぞれ付記されている。なお、スヱが戸主の母として記載されているのは、当時の民法では女性は戸主になれなかったからだ。

 ちなみに住所(本籍地と呼ぶべきか)は「鹿児島縣日置郡西市來村大里〇〇〇番戸」。【戸籍一】では「市來郷大里村」だったので、【戸籍一】から【戸籍二】までの間に、行政区分(名称)が変更されているのがわかる(番戸の数字は同じだ)。

 この【戸籍二】からは、23人という大家族の様々な側面が垣間見える。それらを次項以降で徐々に展開していきたい。

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