文字を持たなかった明治―吉太郎2 昔の生年月日

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、ミヨ子の物語に区切りをつけ、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について書き始めた

 前項で述べたとおり、吉太郎は明治13(1880)年2月13日年生れだ。ただしこれは戸籍上の記載であって、ほんとうの生年月日なのかはわからない。現代の常識では「そんなことはあり得ない」だろう。しかし、昭和の初めに生まれたミヨ子ですら戸籍の生年月日と実際は違っていたから〈231〉、多産多死で、かつ文字の読み書きができない庶民が多かった時代、親たちの戸籍への届出がある意味いい加減だったとしても、誰を責めようもない。

 もし50年くらい前、近所でまだ吉太郎と同世代のご老人がかろうじて健在だったり、そのご老人たちから伝えられた話を覚えている大人たちが現役世代だったりした頃に、「吉太郎さんは本当に明治13年生れなのか」と尋ねることができたとしたら、出生届にまつわるエピソードを知っている人がいたかもしれないが、当時のことを語れる人はもういない。

 孫娘の二三四(わたし)が想像するに、吉太郎が生まれたのは戸籍記載の生年より1、2年前で、「この子はどうやら丈夫に育ちそうだ」と親――当時のことだから家長(戸主)かもしれず、生みの親とは限らない――が判断してから、役場に届けたのではないか。2月13日というのも、届けに行った日かもしれないし、なにかおめでたいことがあった日にあやかって選んだ可能性もある。届けを書いたのも、読み書きのできる知人だった可能性が高い。

 もっとも、子供の数は多い、そのうちの何人かは幼くして――多くは赤ん坊のうちに――死んでしまう、役所への届出も自分ではできない人が圧倒的に多いという時代、届出の正確さはそれほど重視されなかったはずだ。

 日本が近代に入り「戸籍法」が施行されるのは明治5(1872)年〈232〉、それまで庶民の出生、死没などはお寺などで管理していたようだ(この辺りの認識は十分ではない)。年齢の数え方も「数え年」で、出生時点ですでに1歳と数えた。それ以降は、お正月が来るとみんなひとつ年を取る。だから、個々人の(正確な)誕生日はほとんど意味を持たなかったし、気にする人もいなかったはずだ。

 仮に誕生日がはっきりわかっている人であったとしても、毎年のその日を祝う習慣はなかっただろう。(誕生日を祝う習慣は、いったいいつ頃からどんな形で始まったのだろう?)

 ともかく吉太郎の年齢ついては、戸籍上の「明治13(1880)年生れ」を前提に書き進めていくことにする。
 
〈231〉ミヨ子の生年月日が戸籍と実際では違うことは「ひと休み(戦前の出生届)」で述べている。
〈232〉「戸籍法」明治4(1871)年4月4日太政官布告第170号、明治5年2月1日施行。


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