ひと休み(戦前の出生届)

「文字を持たなかった昭和 四」で、ミヨ子の「生年についてはエピソードがある」と書いた。

 ミヨ子の出生届は昭和5年3月に出され、小学校入学などその後の人生はもちろんその届出に基づく年齢にしたがっている。しかし実際には昭和4年に生まれている。本人もそれは認識しており、機会があるごとに、干支は(昭和5年の)午(うま)ではなく、ひとつ前の巳(へび)だと言っていた。いま風に言えば、ひとつサバを読んでいたことになる――だろうか?

 ただ、多子多産で、幼くして死んでしまう子供が少なからずいた時代は、赤ん坊が生まれてもすぐには出生届を出さず、ちゃんと育ちそうか見極めてから(ということだろう)届け出ることもままあったようだ。

 もう一人わたしの身近にその例があって、誰あろう父である。のちにミヨ子の夫となる男児も、生後1年ほど経ってから出生届が出されており、そのことを周囲の大人はみな知っているふうだった。それでも「年をごまかしている」といった類の指摘は一切聞かなかったから、おそらく、当時の農村――少なくともこの地域――では、ふつうにあったのだと思われる。

 時代はやや遡るが、明治生まれの父方の祖母は、数歳上の実姉の戸籍を「引き継いだ」と聞いている。例えて言えば、育たなかった子のほうに接ぎ木する感覚だろうか。接ぎ木されたほうは生まれたときに名前をもらっていたはずだが、ある時期から別の名前で呼ばれたということだろうし、入学などの際は、周囲とは明らかに体格なども違ったのではないだろうか。もっとも、近代になって義務教育制度が確立されても、子供を学校に行かせるだけの経済的余裕がない家庭がままあっただろうから、地域の同い年の子どもが一斉に入学し、順々に進級して卒業する、というわけでもなかっかもしれない。そのあたりの状況も調べられたらおもしろそうだ。

 書きながら思ったのだが、届出が疎かにされた背景には、識字率の問題があったのではないか(※6)。文字の読み書きができなければ届出はままならない。誰かに頼むにしても、働くだけで精一杯の人ばかりの農村では、字が書ける人も少なく、代わりに役所に行ってくれるような(暇な)人もそうそういなかっただろう。子供も、いつ死んでしまうかわからない。様子を見ているうちに、数年経ってしまう――。

 現在の法制度や常識からはおよそ想像できないが、これもまた、数十年からせいぜい百年程度前の日本の庶民の現実だったはずだ。

※6 父のエピソードとしていずれ書くと思う。

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