文字を持たなかった昭和 四(誕生)

 そろそろ母本人の話に移ろう。ここからは記録っぽく書いていく。もちろん伝聞が含まれるが、「らしい」「~ようだ」などが頻出すると読みづらいので、確定的に書く点はお許しください。

 わたしの母――ミヨ子は昭和5年(※2)に、鹿児島は薩摩半島の農村で農家の長女として生まれた(※3)。父直次は地の農家の出、母ハツノは熊本の出身で、働きに来た先で直次と知り合った(※4)。当時のご多分に漏れず直次のきょうだいは多く、自身も長男ではなかったため、土地をあまり持たず、生活は楽ではなかった。もっともこの時代を含め戦後の経済成長を迎えるまで、多くの庶民の生活は楽でなかったはずだ。

 貧しい農家が最初に授かった赤ん坊をどんな気持ちで迎え入れたのか、確かめる術はもうないが、いずれ働き手となり跡継ぎになる男の子ではなくがっかりしたのか、男の子よりは丈夫に育つであろう女の子が生まれてひとまず安心したのか。

 赤ん坊のミヨ子を撮った写真が残っていた。髪を短いおかっぱに切り、絵本に出てくる金太郎のような腹掛けをし、お座りの姿勢で前を向いているものだった。赤ん坊が大きく写っているため――といっても写真自体いわゆるスナップ写真の半分ほどの大きさだったと思う――自分で座っているように見えたが、母親が後ろで支えていたらしい、と本人から聞いたことがある。「ばあちゃんは写真に撮られるのが好きじゃなかったから、母ちゃんだけを写したらしいよ」とも(もちろん鹿児島弁で)。

 この写真を含め、わたしの実家に残っていた古いアルバムや写真は、のちに誰も住まなくなった建屋を解体するときにほとんどなくなった。あの一枚を思い出すとき、よほどの機会でなければ写真を撮ることなどなかったであろう当時の農村にあって、農家の若夫婦にとって初めての子供の写真が、どんな経緯で誰の手で撮られたのだろう、どんな暮らしとともにそれを大切に保存し続けたのだろう、と考える。

※2 昭和5年(1930年)について(自分の参考用のまとめ)。
世界恐慌が日本にも波及し不況が深刻化する時期。ロンドンで軍縮会議が開催、日本は軍縮に妥協したが、これにより政府は野党や国民から批判を受け、ときの首相浜口雄幸は反対派から東京駅で狙撃されている。国内では政党政治が活発になる一方、共産主義者への締め付けが厳しさを増した。世界恐慌の影響で疲弊する農村のために、政府はこの年7000万円もの融資を行っている。また、日本の統治下にあった台湾では、山地原住民が公学校(小学校に相当)の運動会に乗じる形で内地人(日本人)を襲撃、集まった内地人のうち130人を殺害する霧社事件が10月に起こっている。世界も日本も不穏な時代に進みつつあった。
《参考》1分で分かる!激動の昭和史 昭和5年(1930年)
※3 生年についてはエピソードがある。
※4 母方や父方の祖父母についてもいずれ書きたい。

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