文字を持たなかった明治―吉太郎7 家族構成④両親

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べ始めた

 吉太郎の生年月日などのあと、吉太郎の家族構成について書きつつある。苗字住所に続き、吉太郎の両親について見てみよう。参照しているのは、孫娘の二三四(わたし)が家族の記録の参考にと郷里の役所で交付を受けた除籍謄本の、いちばん古いものである。

 この謄本の住所の下には、まず「前戸主」が記載されている。そこには「亡父松島儀助」とある。おそらくこの人が、文書で追跡し得るもっとも古い一族の家長(戸主)で、明治に入って戸籍が編製されたときの戸主だと思われる。

 その次の行に「戸主 松島源右衞門」、その次に「妻 スヱ」とある。二人が吉太郎の両親ということになる。

 源右衞門は「亡父儀助長男」で「天保七年三月五日生」。戸籍の追記欄には以下のような記載もある。
・明治二年四月廿五日相續
・明治廿九年三月六日死亡

 スヱの欄には「天保十年十一月廿一日生」、追記欄には「安政三年八月二日……入籍ス」とある。言うまでもなく「廿」は「二十」の意味。「……」部分については不明点もあるので、別項で考察することにして先へ進む。

 吉太郎の父(二三四のひいおじいさん)源右衞門と母のスヱについて西暦に換えて読み解く(?)とこうなる(はずだ)。

 源右衞門は1836年生れ、1856年、20歳のとき3歳下のスヱと結婚し、1869年に家督を相続(以後戸主となる)、1896年に死亡した。

 20歳と17歳の新郎新婦は当時ではごくふつうだっただろう。誰が取り持ったどういうご縁なのかが見えてこないのは残念ではある。手元の除籍謄本には5男1女の子供たちも記載されている。いちばん下の子の生年は明治15(1882)年、結婚して25年ほどの間に6人の子供をもうけ、60歳で亡くなったことになる(もちろん孫も生まれているがここでは省略)。

 60歳といえばいまなら定年を迎える年齢。現代の感覚では「そんな若さで!」だろうが、明治期の平均寿命は40歳前後という統計がある。還暦の60歳まで生きられれば、十分天寿を全うしたというところかもしれない。

 もっとも第二次世界大戦期までの日本は主に衛生と栄養の面から幼くして亡くなる子供が多かったから平均寿命は短かったという側面もある。それを考慮しても60歳はまずまず長生きの部類だったのではないだろうか。

 ちなみに源右衞門のことを親族や集落の人は「げんにょん」と呼んでいた。

 二三四は、このひいおじいさんを直接は知らないのだが、「本家のおじいさん」として話題に上ることがあり、源右衞門の子供や孫の世代の人たちがそう呼んでいたのだ。なんでも短縮するのが好きな鹿児島弁の法則にしたがって、「げんうえもん→げんぇもん→げんにょん」と変化したものだろう。

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