文字を持たなかった明治―吉太郎5 家族構成②苗字

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について書き始めた

 「2 昔の生年月日」で吉太郎など当時の誕生日について、「3 明治13(1880)年」で吉太郎が生まれた年の日本のできごとなどを述べたあと、吉太郎の家族構成について書きつつある。孫娘の二三四(わたし)が家族の記録の参考にと郷里の役所で交付を受けた除籍謄本の中で、いちばん古いものを眺めながら。

 戦後の戸籍制度につながる近代的な戸籍は明治4年公布の「戸籍法」のもとで編成された〈233〉。もっと古い時代にも戸籍に相当する制度はあったようだが(江戸時代に寺社が管理した人別帳など)、苗字について言えば、一般庶民がすべて名乗るようになったのは明治以降だ。

 吉太郎の一族も明治より前は苗字を持たず、家名を名乗ったこともなかった、と思われる。勝手な想像だが、せいぜい「〇助さん(戸主、家長)ところの△△さん」という言い方だったのではないか。家長が誰かさえわかっていれば、たとえば年貢の取り立てなども漏れることはなかっただろう。すべてが家単位で、一族の人々については家長が把握していればいいのだ。行政が、保険や教育、福祉、そして納税などのために個々人を管理する必要がある現代とはまったく違う。(とは言っても、現在の戸籍も家の概念を基本に据えてあるが。)

 苗字と言えば、二三四は学校で「庶民が苗字を名乗る(持つ)ようになったのは明治に入ってから」と習ったとき、父親の二夫(つぎお)に
「うちの苗字はなんで松島ってつけたの? 海の近くでもないのに」
と訊いたことがある。この二文字は学校の名簿に並ぶ苗字の中でも優雅でかっこいいと思ったし、それだけにどういう由来なのか、二三四はとても興味があった。それに町内でも、集落や近隣に住む親族以外でこの苗字を名乗る人たちはいなかったのだ。

 が、二夫の答えは
「さあ、なんでだろうね。おおかた、明治の初めにご先祖がどこかからこんな苗字だか地名だかもある、と聞いてきて『かっこいいからこれにしよう』ってつけたんじゃないかな」
とい、きわめていい加減なもので、二三四はかなりがっかりした。

 それでもその「かっこいい」苗字を名乗れるうれしさには変わりなく、二三四は自分の名前を名乗る機会があるごとに誇らしい気持ちになれたのだから、ご先祖様さまだった。

〈234〉いわゆる壬申戸籍。職業、宗教(宗門)、飼っている家畜の数など付随情報が詳しく記載されている地域があったため、差別回避とプライバシー保護から現在では閲覧できないとされる。 noteの記事作成の参考にと除籍謄本を取得したときも「壬申戸籍までは遡れない」と役所で説明された。

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