文字を持たなかった明治―吉太郎4 家族構成①除籍謄本

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たなタイトル「文字を持たなかった明治―吉太郎」で、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について書き始めた

 吉太郎シリーズ(?)の前々項前項では、吉太郎の生年月日――明治13(1880)年2月13日年―-をテーマに書いた。

 人はひとりで生まれてくるが(たまに双子などの多胎はある)、両親、さらにその両親と、生命の連鎖があってはじめてこの世に生を受ける。吉太郎の両親は誰で、家族はどんな構成だったのか。

 じつはこの問いに対して、孫娘の二三四(わたし)はあまり深く考えたことはなかった。家での会話の中で「〇〇爺さん」「△△おじ」などの名前は時々、というより頻繁に出てきて、それぞれの名前の多くは、子供にとっても既知の実在の人物――集落、あるいは近隣に住む親族―-のこともあったが、子供ながらに「すでに亡くなった親戚の人」と認識できる人のこともあった。

 ただそれぞれの関係性(続柄)についてはっきりは知らなったし、自分のじいちゃんの両親やきょうだいについて、たとえば父親に詳しく聞いてみる気にはなれなかった。興味がなかったというより、子供心には「人数が多すぎて手に負えなかった」のである。いやそんな予感がしたのかもしれない。

 そんな面倒な(?)ことを聞いて回るより、年相応にやりたいこと、知りたいことはたくさんあったし、小さな集落とは言え顔見知りの大人だけでも十分すぎるほどたくさんいた。しかもそのかなりの数は親族でもあった。

 もっとも二三四は、ひいばあさん、つまり吉太郎の母親のことだけはかなり意識して育った。というのも、この人は当時では珍しく100歳以上生きたそうで、家族や親戚、近所の人の話題にもしばしば上ったし、何より100歳のお祝いのときの写真があったからだ〈233〉。

 それ以外の親族との関係については、二三四にとって日常生活に支障のない範囲でしか認識してこなかったのであるが、ミヨ子の半生記を書き始めてから出生や没年、親族間での関係などを確認したくなり、やはり古い戸籍を手に入れようと考えた。そうして、昨(2023)年2月の帰省の際に、母(ミヨ子)方と父(二夫。つぎお)方の除籍謄本数通を郷里の役所で申請し、交付を受けたのだった。

 これから書こうとする「家族構成」はそれに基づくものである。

〈233〉近隣で「百ばば」と親しまれたこの長命なおばあさんについては、ミヨ子が二三四を出産したあたりのエピソードとして「八十六(百ばば)」で述べている。

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