文字を持たなかった明治―吉太郎11 農家の五男であること

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しつう、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成を書いた。苗字住所吉太郎の両親、主に父の源右衞門母のスヱ、そしてきょうだいその関係についてである。

 少し話を戻すと、孫娘の二三四(わたし)は吉太郎の来し方を漠然としか知らない。両親をはじめとする周囲の大人が吉太郎について語ったことと、吉太郎が亡くなるまでの子供の目で見た吉太郎の姿が手掛かりだ。それらに加えて古い戸籍を辿れば、また新たな発見があり、あるいは根拠づけができるかもしれないが、限界もあるだろう。したがって、インターネットnado
で探せる当時の資料や当時についての解説も参考にしつつ、推察を交えながら吉太郎やその周囲の人々の姿を追っていくことになる。

 前項までに6人のきょうだいについて述べたのだが、吉太郎が五男として生まれたのが明治13(1880)年、家の手伝いができるようになるのが10歳頃として明治の半ば。当時、鹿児島の小さな農村の農家の五男とはどんな位置づけだったのか。

 容易に想像できるのは、子供たちの中でもとくに大切にされていたわけではないだろう、ということだ。

 農家の子供は働き手として期待された。いや、当然そう見られていた。当時の女性は若くして嫁ぎ、多産で(多死でもあった)、次々と子供を産んだ。子供6人はけして多くないが、5人の男の子はある意味で重宝されただろう。それぞれが年齢相応の仕事をあてがわれ、年の離れた長男の指図の下で働いたことだろう。

 五男としては二つ下の末弟・末吉の面倒も見ただろうが、末吉が生まれたとき当時の数え方なら六つになっていた姉・タケが子守をしたのではなかろうか。いまなら幼稚園生くらいの女児が子守をするのは、当時では当たり前だったから。となると、吉太郎の役割は兄たちを助けながら家の仕事の手伝いをするという点にあったはずだ。

 この時代の農家の画像をインターネットで検索すると、ひとつの家(一族かもしれない)にじつにたくさんの「人」がいる。子供も多い。子供どうしの年齢が離れているのも見て取れる。こんなにたくさんの「人」がひとつ屋根の下に暮らしていたら、一人ひとりの子供への親(大人)の関心はそう高くなかっただろう。それに、子供たちの面倒を見るよりも、まず家全体が食べていくことのほうが優先されたことだろう。

 昭和の頃までは「子供は勝手に育つ」と言われていた。たしかに、こんなに数が多ければ一種の生存競争として、子供自身なんとか手段を考えて育たざるを得なかったのではないか、と思わされる。吉太郎も「勝手に育った」子供のひとりだったのかもしれない。

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