文字を持たなかった明治―吉太郎10 家族構成⑦6人のきょうだい

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しつう、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成を書いた。苗字住所吉太郎の両親、主に父の源右衞門母のスヱ、そしてきょうだいについてである。
 
 この5男1女はどんなきょうだいだったのだろう。

 長男の仲太郎は萬延元(1860)年生れで、明治13(1980)年生れの吉太郎より20歳も年上、当時なら父親といってもおかしくないぐらい離れている。じっさい父の源右衞門が結婚したのは20歳のときだ。

 そして「家族構成⑥きょうだい」《URL786》で述べたとおり、戸籍に記載のない二男は早逝したと思われ、仲太郎と三男以降の年齢にはかなり開きがある。逆に、三男から末子の末吉までの5人は11年の間に生まれていて、それぞれ2~3歳ずつしか離れていない。子供の2歳差はかなり大きいから、上のきょうだいの言うことは「絶対」だっただろうが、5人の子供どうしの関係はいまの感覚でいう「ふつうのきょうだい」に近い部分もあったと思われる。

 つまりこういう感じだろう。戸主である父の源右衞門がどんと一家の中心におり、長男の仲太郎がそれを補佐する。母親のスヱは源右衞門と仲太郎を支えながら、あとの5人の子供たちの世話を焼く。5人の子供たちは長男と母親の言いつけを守りながら、上の子が下の子の面倒を見、子供どうしである種の秩序を保って過ごしていた――。

 もっとも、子供だから遊んでいていいという状況ではなかっただろう。そのあたりは、いまの感覚では理解というか想像できないはずだ。当時の農作業はほぼすべての作業を人力に頼っていた。源右衞門一家に限らず当時の農家においては、家族は誰でも「貴重な労働力」だった。たとえ小さな子供でも、できることをするのは当たり前だ。

 だから、男の子たちは物心つく頃から、持てるものを運んだり、簡単な農作業を手伝ったりしたはずだ。長女のタケは唯一の女の子として可愛がられた面もあっただろうが、それ以上に、母親のスヱの片腕として期待されたはずだ。

 そんな中でも、子供らしく遊んだり、時にきょうだい喧嘩をしたりしながら関係を保ち深めていったのだとしたら、子孫としてはうれしい。が、実際はどうだったのか、そのあたりについての伝聞がほとんどないのは寂しくもある。


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