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文字を持たなかった明治―吉太郎9 家族構成⑥きょうだい

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 吉太郎の孫娘の二三四(わたし)は、郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しながら、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成について書いている。苗字住所に続き、吉太郎の両親、主に父の源右衞門、そして母のスヱについて記したところだ。

 次はきょうだいについて。最も古い謄本には、源右衞門一家の家族構成が極めてシンプルに記載されている。まるで現在の戸籍――婚姻によりあらたに戸籍を作成した夫婦とその子供で構成されるもの――のようだ(写真)。

 そこには、戸主・源右衞門、妻・スヱに続き以下の記載がある。
 ※註:( )内の西暦は本項作成時に追加。廿は二十。
・長男 仲太郎 萬延元(1860)年三月廿二日生
・三男 庄太郎 明治四(1871)年四月十二日生
・四男 源太郎 明治七(1874)年三月三日生
・長女 タケ  明治十(1877)年三月廿日生
・五男 吉太郎 明治十三(1880)年二月十三日生
・六男 末吉  明治十五(1882)年十一月廿二日生

 あれ? 二男がいない?

 そうなのだ。この謄本以外でも二男に関する記載は見当たらない。二三四の想像では、二男は戸籍が編製される前のごく小さい頃に亡くなったため戸籍には載せなかったが、家族やきょうだいの間では「〇男」の区別をすでにつけていたので、二男以外の男児は長男から六男までをそのまま戸籍に記載したのではないだろうか。

 長男の生年から考えると、二男もまた明治より前に生まれていた可能性が高く、当時のこととて幼くして、つまり明治より前に亡くなっていたのかもしれない。それも2歳か3歳といったごく幼い頃に亡くなった可能性がある。

 なにぶん田舎のことでもあり、明治になって初めて「戸籍というもの」を作ることになった役場のほうでも、戸籍係が調べる際に
「ありゃ、長男さんの次は三男さんですか?」
「ええ、二男は小さい頃に死んだもんで、ちゃんとした名前もつけてないんですよ」
「それはしかたがないですな。じゃあ二男さんなしで作っておきましょう」
というような、のんびりしたやりとりがあったとしてもおかしくない。

 もしかすると、明治の戸籍法にもとづき最初に作製されたいわゆる壬申戸籍には何らかの記載があるのかもしれないが、辿る術がない。

 二三四の父・二夫(つぎお)の世代なら、亡くなった二男、二夫にとっては伯父の名前や亡くなった経緯などを、伝聞ででも知っていたかもしれないが、知っていそうな人はもう思いつかない。ただし「本家」の誰かは伝え聞いているかもしれず、機会があれば尋ねてみたいとも思う。

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