文字を持たなかった明治―吉太郎8 家族構成⑤母・スヱ

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」として、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 孫娘の二三四(わたし)が郷里の役所で交付を受けた除籍謄本を参照しながら、吉太郎の生年月日などのあと吉太郎の家族構成について書いており、苗字住所に続き、吉太郎の両親、主に父の源右衞門について記したところだ。本項では母・スヱについて述べる。

 前項で触れたとおり、戸籍記載上スヱは「天保十年十一月廿一日生」。死亡については、いままで見てきた一番古い除籍謄本には記載されておらず、その後編製された戸籍をふたつほど下っていって初めてわかった。それによれば、「昭和拾四年拾一月拾九日午前拾一時参拾分本籍二於テ死亡」とあるた。

 前項の源右衞門同様西暦に直してみると、スヱは1839年生れ、1856年、17歳のとき3歳上の源右衞門と結婚し(5男1女をもうけ)、1939年に死亡した、ということになる。

 亡くなったのは誕生日の直前、いまでいえば満100歳を目前にしてという形だが、数えで年齢を数えた習慣からすると101歳と数えていたことだろう。なるほど、親族や近隣の人が「百ばば」と呼んでいたはずだ。

 前項で述べたとおり、スヱと夫・源右衞門の結婚は「安政三年八月二日」(1856年)と記載されていた。スヱは満17歳だが、当時なら18歳と数えたはずだ。

 もうひとつ厳密に言えば、謄本には「婚姻」という文字はひとつもなく「入籍」と書かれている。どこの戸籍に入るかというと、夫とは限らず戸主の籍に入るのだ。スヱの場合、戸主が源右衞門で「妻」として入籍するので、この二人は夫婦(婚姻関係)というわけである。

 その入籍の際の記述が興味深い。前項では「……」と略した部分を正確に写すと、「安政三年八月二日鹿児島縣日置郡湊村 平三右衞門妹亡新左衞門二女入籍ス」とある。

 源右衞門の謄本の住所には書かれている「市来郷」がないが、湊は地名としていまも残っているので、市来郷を書き漏らしたのだろう。スヱの実家の姓「平」は「ひら」と読むはずだ。(「ひら」姓はいまも当地にあり、二三四も親戚筋の苗字として記憶している。)

 問題(?)は「平三右衞門妹亡新左衞門二女」の部分だ。「平三右衞門の妹であり、亡くなった新左衞門の二女であるスヱが入籍した」と解釈してみたが、どうだろう。つまりスヱにとって平三右衞門は兄、(平)新左衞門は父ですでに死亡しており、上に姉がいる、と。ここで三右衞門の名前がまず出てくるのは、現在の戸主が三右衞門だからだろう。

 不思議なのは、ひとつあとの謄本も同じ記載なのに、昭和に入ってから編製しなおされたと思われる謄本には「安政三年八月二日鹿児島縣日置郡湊村平三右衞門妹入籍ス」と変わっていることだ。

 書き写す際に見落としたのか、前の戸主やそれとの関係までは不要とみて写さなかったのか。元の記載の解釈も含めて、機会を作って役所で聞いてみたいものだ。

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