文字を持たなかった昭和 四十四(初めての子供)

 昭和30年代初め、4月の声を聞く頃。〈57〉 

 のちにわたしの母となるミヨ子は第一子の出産を目前にして破水し、難産の末男の子を産んだ。生まれた赤ん坊は泣き声を上げない。産婆さんは赤ん坊を逆さにして小さな小さな背中を叩いた。

 しかし、赤ん坊が声を上げることはなかった。破水の結果何時間もかかったお産を、小さな命は耐えきれなかったのだ、と皆は理解した。

 待望の第一子、それも跡取りになったであろう男の子が死産であったことに、家じゅうが悲しんだ。悲しみは落胆を呼び、負の感情は嫁のミヨ子に向かった。
「大事な男の子を死なせて」
姑のハルの一言が、困憊したミヨ子に突き刺さった。

 この世の空気を吸うことなく旅立った小さな命のために、お坊さんを呼んでささやかなお葬式を出した。当時はまだ土葬が主流で、小さな体を布団にくるみ直接墓地に埋めた。仏壇には小さな位牌も置いた。後にミヨ子が折に触れ「色が白くて、きれいな赤ちゃんだった」と振り返った男の子は「誠(まこと)」と名づけられた。

 わが家は毎日朝夕仏壇にお参りしていたから、亡くなったお兄ちゃんがいることをわたしもいつの間にか知っていた。仏壇の隅に遠慮がちに置かれた小さな位牌をたまに手に取り、お兄ちゃんの名前を眺めたりもした。

 ただ、生まれたときすでに亡くなっていたため、出生届は出されなかった。ミヨ子はそれをのちのちまで悔やんでいた。子供の存在がなかったことになったような気がしていたのかもしれない。

 このできごとについて書くのはわたしも悲しい。だが、母の思いと、たしかに宿されていた小さな命を記しておきたいと思った。

〈57〉第一子が生まれ亡くなった日は3月27日、生年は確認中。

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