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3.硬い吊り革、柔らかい砂浜:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集

高校卒業から24年。ジェームズ・ディーンの人生一回分の時間を、黒木みちるは東京で暮らしてきた。

ラッシュアワーに人の心は存在しない。横でも前でも後ろでも、どこを見るでもなくただ眼を閉じ、目的地まで耐え抜く無心の境地が必要とされる。そうして無心で満員電車に揺られていると、彼は生まれてから18まで育った宮崎のことを無意識のままに思い出す。愛すべき故郷というのでもない、帰りたい場所というのでもない。ひたすらにだだっ広い海が広がりどこがその街の中心かもわからない、ただの寂れた地方都市という印象でしかない宮崎のことを。

それでもなお、黒木は宮崎の景色にどこか懐かしい彩りを感じる。なんやかやと理由をつけてもう5年は帰っていないというのに、いつだって脳裡のうりの景色は鮮やかである。地下へと潜る田園都市線の車窓から視覚的に入ってくる人工的な暗闇とは裏腹に、彼の奥底にある感覚では青空と健やかな果実の香りがせめぎあう。実際に鼻に感じているのは、隣のオヤジの古臭いブルガリの香水なのだけれど。

香水なだけ今日はまだマシか、と思いながら黒木は硬い吊り革を握りなおす。

本格的な秋になり、通勤電車内の臭いも夏に比べると幾分かマシになってきた。溝の口から青山一丁目まで田園都市線(途中渋谷駅で半蔵門線に切り替わる)で通勤するというのは、毎日が修行みたいなものだ。心頭滅却の境地に達しなければこの難局は乗り越えられない。眼を開けて、何かを考えてしまえば即座に敗北だ。隣がオヤジであろうが美女であろうが、ただ鞄と吊り革を握り目を閉じ続ける。周りでちょっと騒ぎが起きようが悲鳴が聞こえようが、全てを宇宙の外の物事として頭から排除しなければならない。致命的にまで近距離の、遠い遠い無感覚。それこそがトーキョーラッシュアワーなのだ。

黒木が2年前に独立してからこそ彼の出勤時間は多少自由になったけれど、それでもラッシュアワー時に通勤しなければならない日は多い。自社メンバーと打ち合わせたりクライアント先に出向いたり、そういうあれやこれやの予定をこなすには、やはりこの無感覚地獄に身を浸さなければならない。

去年の冬は、コロナ禍というのにノーマスクのオヤジから思いっきりくしゃみの飛沫しぶきを顔に浴びせられた。しかも、池尻大橋から渋谷の間の車両内が極限に密な状態でだ。周囲の冷たい視線もさることながら、そのオヤジの素知らぬ無反省な顔が黒木の気に食わなかった。

「おい、次で降りろよ」なんて言いたいのはやまやまだったけれど、その時の彼にはドスの効いた声を出す気力はなかった。黒木も、もう若くないのだ。

蒸し返す怒りを沈めながら、隣のブルガリオヤジと俺のニオイは若者からしたらあまり変わらんかもしれないなと黒木は思う。服装だってちょっと似ているように思えてくる。黒木がこの秋の入口の日に着ていたのは独立したときに仕立てたオーダーメイドのネイビースーツだったが、購入から2年も経つと体型のせいかしっくりきていない気がする。この2年のうちに随分と老け込んだのかもしれない。ただ、それをじっくりと顧みる時間もとることができていない。

「これでよかったのか」

独立してからだけとは言わないが、特にここ2年の間黒木はよくこう思った。特段いつというわけではないが、彼の人生には「これでよかったのか」が多い。独立の決意、会社員時代の立ち振る舞い、結婚、子育て、大学進学、高校生活……。かつては「若者」だった自分のことを回顧しても、いつだって「これでよかったのか」の繰り返しだったような気がしてくる。そんな自分を、周回軌道からはぐれ永遠の彼方に放り出された宇宙ゴミみたいだなと俯瞰ふかんして、わらう。

渋谷を越え、表参道駅に到着した。電車が停止した拍子に、黒木が左耳に着けていたエアーポッズがぽつりと落ちていく。渋谷で人がだいぶ減っていたことを幸いに、彼は「よいしょ」と声を出さないように気をつけながらかがみ込んでイヤフォンを拾う。世界のどこかでひとつの希望が失われたみたいな音が膝から抜け出る。

立ち上がる拍子に「オッ」と声が出てしまう。ちょっと勢いづいて立ち上がったせいもあるけれど、黒木から見て右斜め前に座っていた女子高生が手に持っている文庫本のタイトルが彼の記憶を刺激したのだ。そこには『変身記へんしんき』とあった。

半蔵門線の表参道駅から出発する地下鉄に乗りながら、黒木は24年前のあの夕暮れの教室を思い返す。

夏の終わりの面倒な一日で、忘れ去ったとしてもなんの支障もない時間のことだ。なのにその高校時代の一コマは、静かで律儀なさざ波が砂浜に押し寄せるみたいに、何度も何度も成人した彼の胸の内に去来するのだった。

***

「ごめんごめん、遅くなって」と、テニス部の活動を終えてくたくたの俺は教室へ入っていった。

河野風美こうのふみは奇妙なうすら笑いをうかべて教室の一番後ろの窓際の机に座っていた。相変わらず、読めない。

「黒木先輩!忙しいのに来てもらってありがとうございます。無理じゃなかったですか?」

次の冬に受験を控えた最後の部活の日々が続く夏。もはや無理じゃない日程なんて一日もない。とにかく俺は、あの日ボンベルタで預かった物を一刻も早く返し終わって自分の毎日に集中したかった。自分だけの日々に集中してろくでもない大学受験を終わらせて、宮崎から遠くの街へ行きたかった。それだけだ。

「河野、ありがとう。ぜんぜん大丈夫だよ。もう、ぜんぜん。それで早速なんだけどさ、この前借りた……」

「あの、本、どうでしたか?」

河野はがたりと机に乗り出しながら、クリスマス当日の朝の子どもみたいな声で訊いてきた。こんな風に自分の言葉を遮られるのが俺は好きじゃない。

「うん、良かった。ありがとう」と俺はできるだけシンプルに言った。そこに「これで終わり、以上」という響きを込めたつもりだったが、彼女にはどうもよく伝わらなかった。

「あの、どこか好きなところとかありましたか?ほらわたし『変身記』が大好きで何度も何度も読んでいるんですよね。だからどんな場面でもなんとなぁく話してもらえばすぐに思い出せちゃうんです。それに教室にはしばらく見回りの先生も来ないし、ちょっとどんな感じだったか話を聞けたらななんて思って」

下を向きながら一息に話す彼女を見ていると、自分のことしか見えてないんだろうなと苛立った。それでも「こっちを向いて話せよ」なんて言わない。なんで俺がそんな惨めなセリフを使わなくちゃいけないんだ。そう思うだけだ。ただそう思うだけで、俺は徹夜2回分くらいは気力を使ってしまう。

早く解放されたい。

教室の窓から見える空は藍色に澄み渡っていた。夏から秋へと変わるあわいの空は、時として異様なまでの透明感をまとうことがある。そこには何も見えないし、地上の俺たちにしたって空に何かを見出そうとなんてしない。お互い様の無関心が世界を支配しているだけだ。

「読んでないんだよ、ごめんな」と俺は言っていた。

なにか他に言いようがある気もしたが、もうしかたがない。早く帰宅して母が用意してくれた夕飯を食べて、15分サイクルで延々と繰り返される受験勉強に入りたかった。

英単語を15分、世界史の図説復習を15分、漢文を15分、現代文の精読を15分、休憩。そしてもう1周、2周、3周。塾や予備校になんて通う必要は感じなかった。あれは自分で自分の勉強を考えられない奴らが行く場所だ。

河野はへらへらと笑ったまま「そっか」とか「そうですよね」とかもぞもぞと口ごもっていた。

怒ればいいのに、異論を口に出せばいいのに。悔しくないのかよ、こいつ。

そう思い始めると俺としてももうだめだった。河野の感情が瀬戸際いっぱいなのは十分すぎるほどに伝わっていた。俺だってバカではない。だからこそただ薄ら笑いを浮かべているだけの彼女を見ているのは苛立たしくて、そんなのは俺の居ないところでやってくれと背を向けた。

ラケットバッグを抱え、河野から一歩二歩と離れ、教室を出る。何も聞こえなかった。河野の方では何かを言っていたのかもしれないけれど、すくなくとも俺が認識したい世界では何も聞こえなかった。そもそも始まってすらいない彼女との間柄に、特段の言葉など必要ないのだから。

「これでよかったのか」と、一応考えてはみた。考えているうちに下駄箱を過ぎ校門に差し掛かろうというところまで歩いてきてしまったので、考えるのをやめた。河野が泣いているかもしれない教室の方を振り返るのも、あまり賢くない気がして控えた。俺には、正解がわからない。

あわいの瞬間は過ぎ去っていた。曖昧な色合いと決別した黒くて誠実な夜が、ひややかで心地よかった。

***

人工的な暗闇を突き進む半蔵門線の車内で『変身記』を読み進める女子高生は、24年前のあの日の河野を思い出させた。

それは単純に彼女たちが「女子高生」と『変身記』いう共通項を担っているがためで、別に何かが似ているとかいうわけではない。そもそも文庫本に夢中になっている目の前の女子高生の顔はよく見えない。河野は、凛と通った眉の下に光る大きな眼が魅力的な子だった。あの時俺が『変身記』をきちんと読んでいたら、大人になった俺はこうして満員電車に揺られていることもなかったのかもしれないな。そんな風に黒木は考えた。

彼は、右斜め前に座った女子高生の制服が自宅近くにある川崎市内有数の名門女子校のものであると気づく。平日の朝、もうとっくに高校に着いていなければならない時間だろう。それなのにこの子は溝の口とは逆方向に向かう電車に乗っている。もしかして彼女はずっと乗り過ごしているのだろうか。それくらい『変身記』にのめりこんでいるのかもしれない。ずっと前に映画化もされたと聞いたような気がするけれど、さすがにすごいロングセラーだ。

本にしがみつくような女子高生の姿は、黒木に彼自身の息子の姿を思い起こさせた。

広告会社勤務時代に恵比寿の酒場で出会いなだれ込むように結婚した8つ下の妻、麻希とのあいだに生まれたたてるは今年で4歳になった。幼稚園ではどうなのかわからないが、家にいるときは目の前の女子高生みたいな前傾姿勢で派手な色合いの絵本や生き物図鑑を食い入るように見つめていることが多い。麻希がいるときは「一緒に読もうよ」と甘えるものだが、彼女が料理をしているときなどに父親の充と二人きりになった場合はだいたい無言で絵本や図鑑を見つめている。

これがエディプス・コンプレックスというやつか、と世間一般の理論に原因をすげ替えてみるものの、それだけでは説明しきれない何かが自分の責に負うところにあるとわかっている。父親としての在り方に失敗したのだと、黒木はずっしりとした逃れがたい自己認識を心の底に抱えていた。

毎日毎日「これでよかったのか」ばかりだ。そしてその全てが取り返しのつかない状態になってしまうところまで、黒木はやってきていた。彼は今年で42歳になった。

目の前の女子高生は、地下鉄の中だというのに地中海の太陽みたいに眩しかった。地中海のあのからりとした青空なんて、新婚旅行でイタリアに行って以来思い出しもしなかったけれど。あの夫婦喧嘩まみれの新婚旅行なんて、思い出したくもない。

電車はいつの間にか九段下駅に着いていた。まばらな降車客があり、まばらな乗車客があった。

とくに重要な用事が入っていたわけではないが、もう会社の始業時間には間に合わないなと黒木は思う。CEOの彼が始業の9時に来ないことはよくあることなのでメンバーは誰も気にはしないだろう。彼は次の神保町駅で降りて折り返すことにする。青山まで歩いてもいいだろう。目の前の名門女子高生が『変身記』に夢中になっている様子は、黒木の心を多少持ち上げてくれた。こんな日にはすこしばかり遠くまで歩いたっていいじゃないか、という気がした。

神保町駅に着く。学生の頃はけっこうな頻度で立ち寄った街だ。小宮山書店でさんざん三島由紀夫のコレクションを眺め、その真下にある喫茶店で何か有意義な時間を過ごしている気になる。黒木は三島にもアートにも特段傾倒していなかったが、そうする時間は彼を何者かにさせてくれた。薄く広くではあれ彼がそんな時間のなかで得ることができたある種の知見が、彼のブランディングディレクターとしての今の立場を支えてくれていることもひとつの事実ではある。

今日はやけに過去の思い出が多いな、と思いながら黒木は吊り革から手を離す。と、右斜め前の女子高生も同時に席を立った。なんだ、神保町に用事があったのか。彼女が先に電車を降り、その後を追うようなかたちで黒木も降車した。

彼は改札を出て、神保町駅の中で最も青山側に位置するA1出口を目指した。歩いて出社しようと心は決まっていた。月の半ばはどうせあまり忙しくないのだ。

『変身記』の女子高生も、彼と同じ方向へ歩いていた。競歩でもしているみたいに足早な彼女を見ているとさすがに若いなと思う。快活な気持ちになっていた黒木も、負けじと歩調を上げて女子高生を追いかけるようなかたちになる。

すこしだけ、彼女がどこに行くのか気にはなった。しかし高校に行かず平日の昼に神保町のどこかへ行くとして、それが黒木にとってなんの損失になるだろう。古書店にでも寄って有意義な時間を過ごすのだとしたら、それはそれで立派なことじゃないか。

「あの、おじさんさ」

黒木は目の前の女子高生が立ち止まり振り返っているのを見る。そしてやおらに「おじさん」が自分のことであると気づく。彼はいかにもおじさんらしく「はぁ」と返事をした。

「電車の中からずっっっと私のこと見てたよね。そういうの、わかっちゃうよ。私じゃなくたって誰でも気づくよ」

「いや、ただ見てたわけじゃないんだよ」

黒木は「ただ見てたわけじゃないんだよ」と言うときに、自分が顔を歪めてニヤけてしまったことに気づく。朝から何も飲んでいなかったせいで、粘りつく口内からは炊飯器の中身をかき混ぜるときみたいな音がした。マスクがあってよかったと、こういうときばかりは思う。まったく弁解のしようのないおじさんらしさだな、と呑気に自嘲していた黒木に彼女が畳み掛けた。

「駅員さんのところ行く?いまここで叫んだっていいけど」

地下通路の往来は二人のすぐ側を通り過ぎていく。女子高生が冷静なおかげで剣呑なムードにはなっていないが、会話を聞かれたら人だかりができかねない。一体どうしてこんなことになってしまったんだろうか、と黒木はぬるくなった頭を巡らせる。

冷や汗がみぞおちにまで流れてきた。顔からはまだ薄ら笑いが抜けずにいて、きっぱりとした無罪の主張もできないままに「いや」とか「その」みたいな言葉だけが黒いマスクを抜け出ていく。

名門女子校の彼女は鋭くため息をつき、手提げ鞄を大きく振りかぶるように右肩へ担ぎ上げた。そして威嚇の目つきで黒木を睨みつける。

「家庭がうまくいかないのか仕事がうまくいかないのか知らないけどさ、そもそも家庭も仕事もないのかもしれないけど、私たちは私たちで大変なの。おじさんのよくわからないストレスか何かのはけ口に私たちを使うのはやめてよね。おじさんが怖いとか、迷惑だとかじゃなくて、そんなものにとりあってる場合じゃないのこっちは。じゃあね」

家庭も仕事もあるものの「うまくいっている」とは言い難い状況にある黒木は、弁解もできずに立ち尽くした。A1出口のほうへ歩き去る彼女を自忘しながら見送っているうちに「君が持っていた文庫本が懐かしかったんだ」と返したらどうなっただろうと考えてみた。もちろん、追いかけてそのことを伝える気力も体力も勇気もない。そんなことをしたら今度こそ本当に警察署へ直行することになるだろう。彼はあくまで怪しいおじさんなのだ。

彼はA1出口に向かうのをやめて、A2出口に向かった。女子高生にまた出くわさないよう怯えながら歩く自分は、周りが大手代理店ばかりのプロポーザルに臨むときのように惨めだった。

女子高生にとって自分は「そんなもの」を抱えたおじさんにすぎないのだ。そう思うと黒木は、今までに自分がとってきた選択肢は全て過ちだったような気がしてくる。全ては「これでよかったのか」ではなく「それでは駄目だった」のではないだろうか。

A2出口を出た黒木は、もうとても歩いて青山まで行ける気持ちではなくなっていた。靖国通りをふらふらと歩き、流しのタクシーに向かって手を上げる。3台が迎車対応中で黒木に取り合わずに走り去っていった。平日の朝の雑踏は無表情のままマスゲームのように動いていく。

ようやく捕まえたタクシーが彼の前に停まり、スライドドアを開いた。黒木は喉まで出かかった「青山まで」を飲み込んだ。今更会社になんか行って何になるだろう。

「お客さん、どこまでですか」と老紳士が尋ねる。今どき珍しいと言える、規律ある警察犬のように実直な感じがするタクシー運転手だった。

口ごもる黒木、前を向いたまま待つ老紳士、いかにも記号的な響きのハザードランプ。圧倒的に無意味だけれど、良い役者があえて創る「間」のような静謐が社内に流れた。

「海でも行きましょうか」と、老紳士はまるで毎朝の挨拶みたいにさらりと言った。

「えっ、なんですか?」

「海です。平日の海は人が少なくていいもんです。昼間に行くのだったら、できるだけ遮蔽物しゃへいぶつがなくてだだっ広いのがいい。夜景を眺めるわけじゃありませんからね」

静かな老紳士の口調を聞きながら、黒木は小学校の頃に「頭が痛い」と理由をつけてズル休みをした、ある秋も深まる季節の出来事を思い出した。

まだ低学年だったから母親が学校へ電話をしてくれたのだけれど、そうして母に嘘をつかせてしまっているのが心細くて、幼い彼は布団にくるまっていた。

電話を終えた母は「充、充」と呼びながら息子が包まれた布団をぱたぱたと叩いた。そしてよく晴れた日曜日の朝に言うみたいに「行こっか、海」と言ったのだ。

母は彼が学校を休みたがった理由を知っていたのか知らなかったのか、それはわからない。母は、まるでずっと前から海に出かけることが予定されていたみたいに彼を誘った。

その日の海は青く青く広々としていた。砂浜は柔らかくひんやりとしていて、学校をズル休みした少年とその母とは歓声を上げながら裸足になり海辺まで走っていった。

直接的にも比喩的にも形而上学的にも、彼らを遮るものは一切なかった。

もちろんいくら宮崎とはいえ秋の風は冷たく、浜辺にいるだけでも寒くなるようなその日は決して海にうってつけというわけではなかった。それでいて、黒木にとってその日は最良の海日和だった。

黒木は砂浜の感触を思い出しながら、老紳士に「お願いします」と言った。今日はやけに思い出の多い日だ。

「ここからだと少し遠いですが、お台場なんかよりも横浜まで出たほうが綺麗な海が見えますよ」

老紳士は当たり前のことのようにそう言い、黒木も当たり前のようにそれを聞く。その春最初の生命いのちのしるしをみつけたときみたいに、新しいときめきが日常を塗り替えていく音がした。

「いえ、もっと。もっと遠くまでやってください。鎌倉なんかがいいな。うん、そうだ。鎌倉にしましょうよ。僕は今日、広い広い太平洋が見たかったんだ。どこまでも青く広がっていく太平洋の海が見たかったんだって、そう思うんです」

老紳士は黒木の意志を確認するように後ろを向いた。あの日の母に向かってそうしたように、黒木は深くうなずいた。顔中から感情がこぼれ落ちる。

「そりゃあもう、高くなりますよ」

旅立ちの日みたいに高らかな声で老紳士はそう告げた。

「まいったな」

まいったな、ははは。そう言ってしまってから黒木は職場に電話をしようとしたが、思い直してスマートフォンの電源を切った。何とかなるだろう。

「これでよかったのか」が久々に「これでよかった」に変わった。

タクシーが靖国通りを走り始めると同時に「宮崎に帰らんとな」と黒木は独りごちた。

「それがいいですよ」と言いながら、老紳士は静かに走行メーターのスイッチを切った。

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「3.硬い吊り革、柔らかい砂浜」おわり。
宮崎本大賞実行委員がお届けするショートストーリー集「好きなページはありますか。」をお読みいただきありがとうございます。下記マガジンに各話記事をまとめていきますので、フォローしていただけると嬉しいです。

≪企画編集≫
宮崎本大賞実行委員会

≪イラストディレクション≫
河野喬(TEMPAR)

≪イラスト制作≫
星野絵美

≪文章制作≫
小宮山剛(椎葉村図書館「ぶん文Bun」)

ショートストーリー「好きなページはありますか。」は宮崎本大賞実行委員有志の制作です

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