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午前中で終わる学校16

~型破りを型破る~

世界中の皆さんへ

僕のつくりたい学校は
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
をすべての授業で大人が意識している学校です。

0の章(あきら)「絆は排他を生む」⑮~足並みを揃えられなかった「みやしー」の生き方より~

【石先生へ】※初任として、3,4年生で僕らのクラスの担任だった先生です。

「みやしたかあ、卒業式だったんだろ、ごくろうさんでした。からだ、だいじにしてな。」
いつも電話すると、こんな言葉をくれましたね。
自分のクラスの卒業式、送り出しが終わった後、僕は毎回式服のまま、誰もいなくなった教室に戻り、涙を拭いてから、石先生に電話してました。
僕ももう、先生が引退した歳にあと1年にというところまで近づいてきました。
「みやしたさあ、せんせい~って子どもたちがきた時に、抱きとめてやれなくなったらおしまいだよ。」
腰痛が悪化して、この言葉とともに引退した先生。最後まで、いち担任として子どもたちと過ごしていた先生。僕もそんな辞め方がいいなって思ってました。

教員になってからアドバイスを求めると
「みやしたさあ、教師の勝負は土日だよ。」
授業の準備のことかな、と思ったら
「土日にどれだけ、子どもたちと付き合うか、遊ぶかだぜ。」
ひぇー!?そっち?
僕は授業を作るのが好きなので、授業について聞いたら、
「授業なんてさ、『この先生が言うんじゃな、まあついていこう』って思われるようになればいいんだよ。」
どんな指導主事も言わないアドバイスだ(笑)

僕が埼玉県新座市の池田小学校で担任石先生と過ごした2年間とちょっと。

授業中に
「おっ、今日は校庭が空いているな。外で遊ぼう!」
「今日は裏山に出かけて、ターザン遊びするぞ!」
悪さをする子がいると、授業そっちのけで、校舎内を走り回って、追いかけていましたね。すごく、怒っているんだけど、なぜか、逃げている子も僕らも、そして最後には先生も笑顔でした。

大雨の日
「よし、今日の体育はずぶぬれになって、校庭を走ろう!」

大雪で休校中に家に電話がかかってきて
「今、校庭に雪がたくさん積もってるぞ。遊びに来いよ!」

『15少年漂流記』を読み聞かせしてくれた後
「よし、漂流ごっこしよう!明日、校舎裏で自炊するぞ。食べたいものを持ってこい!」

休みの日もたくさんの企画があって
「明日は、河原でバーベキューするから、お家の人も誘っておいで!」
「今年の夏休みは、4~5人ずつ、先生の家に泊まりに来い!予定表作るぞ!」

学芸会では僕を劇の監督に指名しましたよね。すごく楽しかったけど、本番当日に主役の女の子が欠席してしまい・・・僕が女装して代役をすればよかったのに、それができなくて、無関係の子に舞台上にいてもらって、僕がマイクで台詞だけ言って・・・劇が終わった後、他のクラスの先生から「なにあれ?ひどい劇だったね。」と言われて、悔しくて。あの時、先生が無理やりにでも僕を代役にしたらよかったのに、あそこは、僕に任せたから、いろんな経験が自分のものになった・・・でも、先生、その後も、僕はずっと、逃げ続けてますよ。「いつまでたっても、相変わらず、だめな自分のままだ」って思ってますよ。そういうことがあるんだなって、学びましたよ。

担任ではなくなってからも
「スカートめくりしたやつら、全員前に出てこい!パンツいっちょうで尻振りダンスだ!」
と僕らをめっちゃ叱り、
放課後のサッカー大会で、僕らが下の学年チーム相手に、大量リードした後、ボールを外に蹴り出して時間かせぎをしていると、審判でもないのに試合を止めて、僕らを集合させて
「おまえら、きたない試合してんじゃねえぞ!最後まで全力でやってこい!」
その後、さらに点差は広がったけど、試合終了後、僕らも相手も笑顔だった。

その後、異動したけど、僕らの卒業式の後の謝恩会には駆けつけてくれましたね。そこで僕らに先生は『かたつむり』の逆さ歌を歌ってくれましたね。後日、クラス会や佐渡島旅行や先生の北軽井沢の別荘宿泊や仲間の葬式など、会うたびに、『かたつむり』の逆さ歌の意味をたずねましたよね。先生はいつでも「意味なんかないよ。」と言ってましたけど、僕は勝手に『先は長い、のんびりやれ!そして、いち方向だけではなくて、いろいろな生き方があるんだぞ。』って、伝えたかったんじゃないかな、ととらえてました。僕は、自分の離任式では、必ず『かたつむり』の逆さ歌を歌うようにしているんですよ。

僕は、あの頃、先生にとっては扱いづらい存在だったろうけど、僕にとって、石級は唯一、戻れる場所なんです。「あの頃があってよかった。」僕には、自分自身に誇れるものはほとんど、何もないけど、先生のクラスだったことは、誇れますよ。人にとって『戻れる場所』『戻れる時間』があるって、強味なんじゃないかなって、ずっと思ってきました。だから、今、僕が教え子たちとやりとりできたり、教え子たちどうしがや、その保護者どうしが繋がっていたりすると、「よかった」って思うんです。それを『ふるさと』と呼ぶんじゃないかと思うんです。僕も少しは『戻れる場所』『戻れる時間』を提供できたかな。

そうそう、教室の中で扱いづらい子がいると、「あっ。僕と一緒だ。」って思うんです。(笑)

『われら青春』『3年B組金八先生』『熱中時代』『夕日丘の総理大臣』『教師びんびん物語』・・・
間もなく、2年後?段階的に、小学校も『学級担任』はなくなって『教科専任』になる方向らしいです。それが、時代なんだろうし、未来に繋がっていくんでしょう。それらのドラマや映画のような、自他とのぶつかり合い、生身の心を震わせるような感動は求めちゃいけないのかな。石先生、なんだか、寂しいですよ。僕、今、間違ってますかね。

最近、昔のビデオテープをDVDにして、家族で思い出を振り返って観ています。映像に出てくる、僕やかみさんや娘たち、そして仲間たちの姿を見ていて、気づいたことは、みんな「ひと」や「もの」や「こと」を見ていて前向きだということ。笑ったり、泣いたり、走ったり、叫んだり、関わり合ったり・・・今と何が違うかって、そう、手元を見ている人がいないんですよ。手元のスマホを見て俯いている人がいない。手元のスマホで世界とつながるんじゃなくて、目の前にいる、そこにいる命と繋がっている。

石先生、まだまだ、元気でいてください。今は、こんな状況で会いに行けませんが、先生とはオンラインなんて感じじゃないので(笑)また、北軽井沢の別荘で飲み明かしましょうよ。クラス会もやりますよ。みんな、先生と会いたがってますよ。みんなで先生に学んだことの総括をしたいです。僕は先生から『熱さ』を学びました。そして『ふるさと』をもらいました。ありがとうございます。     
あなたの先生としての最初の教え子の一人 みやした あきら より

5の章(あきら)「担任裁量」~学級王国復活、競い合い、支え合い、応え合い、多様性と世界を学ぶBAND授業~②

【少人数クラス、能力別クラスって、本当に必要?~応え合い 学び合い 競い合い 支え合いの授業】

★少人数クラスは・・
①目が行き届く良さはあるけど、行き届かない良さもあるからなあ。大人が全部、把握する必要はない。把握することで、または把握しなければと思うことで、大人にも子どもにもマイナスがあると思いませんか。「余白」とか「隙間」が面白いし、得てしてそこに可能性があったりもする。
②教室キャパ的に考えると、日本の一般的な教室では、25~30名くらいが適切かな。学びの場での「動線」が確保されないと、僕がいいなと思っている『立学』ができない。学び合いたい人や場を選んで、または情報収集のためには、『座学』している場合ではない。ICT機器がそこを補完するかもしれないけど、僕は身体を使った『アナログ・インターネット』すなわち『立学』の経験をたくさんしておく方が子どもたちの変化成長、変容に役立つと考える。『立学』『旅』のひとつのカタチ。『立学』については教室の座席配置との関連性もあるので、またいずれ。
③事務量を考えると、ひとつのクラスに35人以上いると、担任はたいへんかな。事務管理部門に担任が携わらず、今の「評価」システムが簡素化されれば、担任は授業や子どもたちの心の動きに集中できるかもね。
午前中で終わる学校13
https://note.com/miyashii/n/n42060114e17e
午前中で終わる学校14
https://note.com/miyashii/n/n3810f8bf9f76
④少人数にしたら、教員も増員が必要だけど、お金ありますか。また、クオリティも求められるので、ただの人数合わせでは、かえって現場の負荷が増すと思う。教員を目指す人が多くなって、クオリティが上がるためには、教員(担任)の裁量権の拡大が必要で、教員養成は、その視点で行って欲しい。「批判的思考」を持ちながら、常に世の中の改善に挑もうとする教員が、僕個人としては現場にたくさんいて欲しい。
⑤多様性・雑多性を保ち、世界を学ぶためには、少なくすればいいというものではないですね。担任裁量を拡大して「スモールイズビューティフル」「連携」を同時にすることができれば、20人以下もありかな。 

午前中で終わる学校13
https://note.com/miyashii/n/n42060114e17e
午前中で終わる学校15
https://note.com/miyashii/n/na602a1f5a715

★能力別クラスは・・・
こちらは、僕は反対。少なくとも、公立小学校や中学校段階で「能力別クラス」にして、子どもたちの変化成長や変容に効果があったとするデータは、世界でもないはず。インクルーシブ教育の視点だけでなく、「応え合い」「学び合い」「競い合い」「支え合う」場を作るためには、「能力別クラス」は適さない。
【インクルーシブ教育】
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm

子どもたちどうしが「応え合う」範囲は、広い方がいい。「仲良し」「同種」だけではない「応え合い」
子どもたちどうしで「学び合う」時、仲間に伝える方法をそれぞれがいくつか考えるところが醍醐味。「Aという方法では伝わらないなあ、Bでやってみよう」「Bもだめだ。ではCだ」教えることで、どんどん変化成長、変容する子どもたち。「ラーニングピラミッド」はずっとあとで、僕は知りました。
https://career-ed-lab.mynavi.jp/career-column/707/

また「仲間の考えや疑問、迷いに接したら、自分の考えが深まったり、広がったりした」「自分が分からないことを伝えることが、全体の学びを深める価値があるってことが分かった」「間違い、勘違い、全てが学びを深める価値ある材料なんだ」。一見「教える側と教わる側」に分かれているけど、学び合うこの相互作用を「コーチング」と僕は勝手に呼んでいる。
そして「分からないときは、素直にそう伝えても、仲間が必ず助けてくれる」「『全員が』『誰も置き去りにしない』を達成するために迷っている仲間を助けることで、自分の存在価値がより分かる」「自分たちのチカラで、自分たちの考えでみんなが幸せになる」「この空間、この瞬間いいね」これぞ、『世界平和』SDGsに向かう学びでしょう。そこでは、教科はツールでしかない。
「競い合い」と「支え合い」はセット。世界を学ぶ時に「競い合い」をゼロにするのではなく、「競い合い」で全体が向上していくこと、「競い合い」で起きる問題に対処することを学べばいい。そして「競い合っても必ず支え合う」関係性を学べば、世界で使える!そうしたら、ミクロな話で言うと例えば「運動会の徒競走をなくそう問題」は解決できませんか。
以上、すべて、「能力別クラス」を前面に押し出したのでは成り立たないことばかりです。そもそも「能力別」は「多様性」「雑多性」の排除です。「多様性」「雑多性」こそが世界の「豊かさ」の指標。「多様性」「雑多性」の維持こそが種として生き残っていく手段。

午前中で終わる学校10
https://note.com/miyashii/n/na166597799d7
午前中で終わる学校11
https://note.com/miyashii/n/n4799ac54d6cf

次回は
【BAND授業で多様性と世界平和】
【ワールドシステムで「与えてはみ出しを楽しむ」】
【授業自作、テスト自作】


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