温故知新(29)スフィンクス 縄文のビーナス(棚機津女) アテナ パルテノン神殿 カッパドキア カマン・カレホユック チャタル・ヒュユク キクラデス文明
ヤンガードリアスは、最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から急激に寒冷化に戻った現象で、現在から12,900年前から11,500年前にかけて北半球の高緯度で起こりました。これは、12,800年前に氷河におおわれた北米大陸を中心に、彗星が衝突したことが原因とみられています1)。
エジプトのスフィンクスの本体には、長期間雨で浸食された跡が残っているという説があり、地球規模の大洪水との関連も推定されています。ロバート・ヴォーバルとグラハム・ハンコックは、スフィンクスは元はライオンだったとし、紀元前10,500年ごろに春分の日の朝、スフィンクスの正面からしし座が昇ったことから、スフィンクスの建造をこの時代としています。スフィンクスは、元は2体あったのではないかともいわれています。スフィンクスの頭がライオンで、対になっていたとすると、日本の狛犬との共通性が増します。
エジプトには洪水伝説が伝わっておらず、古代エジプトの時計は、最も長い昼と、最も短い昼の時間比を14対12にしていて、この比率になるのは、現在のエジプトから1000km南に下った赤道付近とされています2)。南米の古代遺跡は北極の方向から約10度ずれていることから、天体衝突によりポールシフトが起こったとする説もあります。ハプグッドの理論によれば、17,000~12,000年前に北極はハドソン湾から現在の位置に移動し、ハドソン湾の北極の時代はエジプトの大ピラミッドは今よりも15度(1667m)南にあったとされます3)。
エラトステネスは、紀元前240年ごろに、夏至の正午の太陽高度の知識を元に地球の全周を計算していますが、基準となった経線はロドス島のロドス(ロード)から南に、エラトステネスのいたアレクサンドリア、そしてナイル川上流のシエネ(現在のアスワン付近)を抜けるとされています(図1)。このラインを北に延長すると北極点はハドソン湾の北部にあったと推定されます(図2)。12,800年前にヤンガードリアス彗星の破片は、ハドソン湾の南にあるミシガン州サギノー湾に北東から衝突したと推定されているので1)、地球の自転の力と組み合わさって地軸が南にずれたのかもしれません。天王星の自転軸が大きく傾いているのは、過去に惑星サイズの天体が衝突したためともいわれています。彗星の衝突は長期的な火山活動も誘発したのではないかと思われます。彗星の衝突以前は、南米の対岸の南極大陸の沿岸は氷に覆われていなかったのかもしれません。かつては、北極点はハドソン湾にあったようですが、現在も北極点は移動しているようです。
アナトリアの標高1000メートルの高原にあるカッパドキア地域には地下都市が広がっています。地下都市についてのもっとも古い文献は、古代ギリシアの軍人・著述家であるクセノフォンの「アナバシス」で、アナトリアの人々は地下に掘った家に住んでいて、そこはいくつもの家族、食料、家畜なども収容できるほど広かったと記されているようです。骨を丈夫にするには、カルシウムを取る必要があり、牛を飼い、牛乳を飲んでいたのかもしれません。8,000年前のヨーロッパ人は、乳糖を分解する酵素をもっていなかったようで、地下生活で選抜された乳糖分解酵素の変異が広がった可能性があるかもしれません。カッパドキアは、旧約聖書『創世記』の「ノアの方舟」が漂着したとされるアララト山と、アトランティスの場所ともされるサントリーニ島の古代ティラ遺跡を結ぶラインの近くにあるので、これらと関係があると推定されます(図3)。
アナトリア地方のカマン・カレホユック遺跡では、2017年に日本の調査団が、ヒッタイト帝国時代より約1000年古い4400年前から4000年前の前期青銅器時代後半の地層から最古級の遺物を発見しています。出土した鉄の塊は、鉄鉱石から中間段階まで加工したもので、遠方から持ち込んだものとみられています。アララト山とアテネを結ぶラインは、カマン・カレホユックの近くを通ります(図4)。
ギョベクリ・テペの西、約540kmの所に、9500年前の新石器時代から金石併用時代の世界最古の都市遺跡とされるアナトリア地方のチャタル・ヒュユクがあります(図5)。チャタル・ヒュユクの室内の壁には、2mもの巨大な赤い雄牛が描かれ、その周りに体を赤く塗った男性が踊っている姿を描いていますが、塗料の原料は、辰砂(しんしゃ)、藍銅鉱、孔雀石、方鉛鉱、マンガンなどアナトリアで入手できる鉱物から作られていました。ラインをさらに西に延長するとアルテミス神殿やパルテノン神殿があります(図5)。アルテミス神殿は、孝元天皇(大国主命と推定)の陵墓と推定される備前車塚古墳とつながっています。
チャタル・ヒュユクから発掘された人骨には骨の障害が多く認められることから、長期間、日光不足(ビタミンDの欠乏)だったのかもしれません。8000年前にはヨーロッパに白人は住んでいなかったことがわかっていますが、アナトリアの農耕民は、皮膚を暗褐色にする2つの遺伝子のうちの1か所の皮膚を明るくする変異を持っていたことが明らかになっています4)。この変異は日光不足に適応して生じたのかもしれません。ヨーロッパ系の人々に多く見られる青色の虹彩は、約6000年前から1万年前の新石器時代に黒海周辺に住んでいた人々から発展した可能性があるという報告がありました。
ギョベクリ・テペがあるカラジャ山の近くは、小麦が最初に栽培化された地域として知られています5)。イネ科の食物は、土中の珪酸を吸収して葉の細胞に蓄積し、そうした珪酸体が地中から掘り出されたものを、プラントオパールといいます。中国に麦が入ってきたのは紀元前1世紀の前漢の頃とするのが一般的ですが、縄文時代前期とされる岡山県朝寝鼻貝塚や彦崎貝塚から約6000年前の地層から稲のプラントオパールが出土し、彦崎貝塚からは、小麦などのプラントオパールも見つかっています。安田喜憲氏によれば、稲作の起源は少なくとも8600年前まで遡れ、もし、土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば、少なくとも11000年位前まで遡れるそうです。北海道函館市の垣ノ島B遺跡では、縄文時代早期の土坑墓から、約9000年前の漆塗りの装身具が発見されていますが、これらは中国の河姆渡遺跡で出土した約6200年前の漆椀より古く世界最古のものです。
キクラデス文明は、エーゲ文明に含められ、紀元前3000年頃から2000年頃にわたり、新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明です。ミロス島では縄文人も利用した黒曜石が 古くから採掘されていました。クレタ島で宮廷文化が発展すると、キクラデス諸島は重要性を失い、アポロンとアルテミスが生まれたとされるデロス島だけは聖地としてギリシア古典期を通じて名声を保ったようです。キクラデス文明の目や口の無い大理石の彫像は、口の無いギョベクリ・テペの石像に似ているように思われます。アテネ国立考古学博物館には「キクラデスのフライパン」といわれる土器が展示されていますが、「キクラデスのフライパン」の模様(写真1)は、クノッソス宮殿やマリ王宮の壁画や、キンメリア人の骨角器装身具の模様に似ています。裏側に水を満たして鏡として使われたともいわれ、墓から見つかっているので古代日本の鏡と用途が似ています。金属が貴重だったため土器で代用したのかもしれません。
諏訪大社上社本宮と霊峰「妙法ケ岳」山頂にある三峯神社奥宮は八ヶ岳の最高峰の「赤岳」を介して結ばれています(図6)。八ヶ岳山麓には伏流水が湧き、縄文時代の遺跡が多く分布しています。諏訪大社上社本宮(諏訪市)の近くには、縄文時代中期(約4,000年から5,000年前)の土偶「縄文のビーナス」が見つかった棚畑遺跡があります(図6)。国宝となっている「縄文のビーナス」の頭には円形の渦巻文様が見られます。「棚畑」は「棚機津女(たなはたつめ)」に由来し、「縄文のビーナス」は水神と推定される「棚機津女」かもしれません。竹倉史人氏は、縄文のビーナスの原型は縄文人の主食だったトチノミとしていますが6)、オオゲツヒメ、ウカノミタマ、トヨウケビメにつながる食物神でもあったためと思われます。素盞鳴尊と稲田姫命を祀る鹿島神宮の末社の熱田社は、古くは「七夕社」あるいは「田畑社」といわれ、農業守護の社です。
竹倉史人氏は、「縄文のビーナス」の頭の渦巻文様は、トチノミを食べるネズミを捕るマムシを表しているとしています6)。蛇は古くから豊穣神、天候神として信仰の対象とされ、脱皮をする蛇は「復活と再生」を連想し、不老長寿や強い生命力につながる縁起のいい動物と考えられていたようです(出典:巳年(蛇)の意味は?)。ミノア文明の「蛇を持つ女神」にも同様な意味があったのかもしれません。市杵嶋姫命と同一視される弁財天の化身は蛇や龍とされています。縄文のビーナス(棚機津女)は、市杵嶋姫命(織姫)ともつながっていると推定されます。
アテネのパルテノン神殿の建設は、マラトンの戦い(紀元前490年-紀元前488年)勃発の頃に行われましたが、アテネのアクロポリス神域の開闢は非常に古く、新石器時代に遡る築壁やミケーネ時代の城壁跡が発見されています。アルテミス神殿は、紀元前7世紀から紀元3世紀にかけてエフェソスに存在しましたが、エフェソスの聖なる場所は、さらに古く、エフェソスの人々はキュベレーを崇拝し、様々な文化をアルテミス崇拝に融合していったようです。エフェソスのアルテミスは、エジプトや近東に見られるように体と足が柱のようになっていて、足首の周りには魚の尾ひれらしきものがあります。多数の乳房を持った女神は、アルテミスと融合したキュベレーの特徴として見られ、この女神の象徴は蜂だったようです。
チャタル・ヒュユクの住居は、蜂の巣のように密集し、通路や窓のようなものは存在せず、天井板の穴から出入りする仕組みになっていました。遺跡からは、「縄文のビーナス」に似ている女王蜂を連想させる女神の土偶が発掘されています。「縄文のビーナス」は、アッカドのイシュタル(イナンナ)に似ているともいわれています。キュベレーはライオンを従えていますが、チャタル・ヒュユクの女神は両側のひじ掛けにライオンの頭部がついた椅子に座っています。これは、ツタンカーメンの「黄金の王座」に似ています。キュベレーは、チャタル・ヒュユクの女神に由来すると思われます。エジプトのイシス(玉座の神)のように、玉座・椅子はそれ自体が地母神を表すとされています。
アテナは知恵を表す蛇を象徴としています。「縄文のビーナス」の「ヘルメット」は、アクロポリス博物館所蔵の「ギガントマキア」のアテナの被っている「ヘルメット」に似ています(写真2)。「縄文のビーナス」は、アテナを表しているのかもしれません。アテナは、豊受姫命(妙見菩薩)や天女とも関係があると推定され、天之御中主神とも関係があると推定されます。天御中主神の主なご利益は、陸・海交通守護、特に航海安全、縁結び、縁談成立、子授け、安産だそうなので、アルゴー船の建造を指揮した女神アテナと整合します。アテナは、『古事記』の須佐之男命の昇天の段で、武装した天照大神(大日孁)のイメージともつながります。
棚畑遺跡とアテナを祀るパルテノン神殿を結ぶラインの近くには、諏訪大社 下社 春宮、諏訪大明神・宗高大明神・八幡神をまつる和田神社、薬師岳、大己貴命を祀る越中國一宮 氣多神社(富山県高岡市)、奥津島姫命、辺津島姫命、市杵島姫命を祀る意冨志麻神社(おおしま神社)があります(図7)。棚畑遺跡は、諏訪氏と関係があると推定され、縄文のビーナス(棚機津女)は、アテナや市杵嶋姫命(織姫)と関係があると推定されることと整合します。このラインは、伊吹山と越後一宮 彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。
文献
1)グラハム・ハンコック 大地舜・榊原美奈子/訳 2020 「人類前史(下)失われた文明の鍵はアメリカ大陸にあった」 双葉社
2)仁科剛平 1998 「超古代史通になる本」 オーエス出版社
3)コリン・ウィルソン、ランド・フレマス 松田和也(訳) 2002 「アトランティス・ブループリント」 学習研究社
4)篠田謙一 2022 「人類の起源」 中公新書
5)ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之(訳) 2016 「サピエンス全史 上」 河出書房新社
6)竹倉史人 2021 「土偶を読む」 晶文社