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自分とのパートナーシップ。蕁麻疹が教えてくれること。パンチャカルマ続編
今思えば今回のインドエジプト旅は、私の長年の色々が解放された旅だった。
旅の始まりパンチャカルマ初日、ドクターのコンサルテーションは初っ端から蕁麻疹を生み出す私の内面についての心理学的なカウンセリングとなった。
☝全体のパンチャカルマ体験記はコチラです。
蕁麻疹と不寛容
ドクターによると
「蕁麻疹やその他いつくかの不調の原因のひとつは、考えすぎによって体の免疫が下がっていることによる」と。
そういえば以前に精神科医の方に質問をしたときに、「蕁麻疹やアトピーなどの多くはスキンシップ不足です」と即答された。
「考えすぎ」と「スキンシップ不足」って、よく考えるとイコールになる。
感じることに集中しているときって思考は働かないものだ。
考えすぎていて、感じていない。
それは要するに、「今」にいない。。
そしてカウンセリングは核心へと迫り
私が「パートナーシップをブロック」していることへ...!
intolerance/不寛容
「何かに対する不寛容さ(ブロック)が、アレルギーや不調を起こし、それが進行すると病気になっていくんだよ」と。
一人が最高!だったあのときから心の奥では求めていたことを。
最終的には一人でどうにかします!というスタンスのこれまでの私と人生を手放していいことを。
もっと自分に寛容になって今の自分を認めてあげてと。
蕁麻疹はずっと教えてくれていた。
そうだった。
「痒み」を通して、「不快」を感じてはじめて
やっと体に意識を向けることができた。
痒いから、パソコンを触る手を止めて
自分の肌に触れることができた。
中の私が、蕁麻疹を通して伝えていた。
自分と自分が分離していた。
「I'm lonely…」と声を出して泣いた。
奥底にあった本音は、母国語ではないからこそ素直に言えたのかもしれない。
初対面の異国のドクターに早々に心をさらけ出すことになった。
「僕らはソーシャルアニマルだから。一人では生きていけないんだよ。でも、気づいたから君は変われるよ。」
溶けた心に、ジテーシュのシンプルな言葉が真っ直ぐに届いた。
すべては私と私の関係性
パートナーがいないから寂しいのではなく。
内面の寂しさが寂しい現実を創る。
パートナーがいても寂しいと感じる人だっているし
いなくても満ちている人はいる。
だから物理的に、いる・いないということよりも
結局は内なるパートナーシップ。
どこまでいっても自分と自分の関係性が全てなんだな、と思う。
私が私の中の寂しさという存在を邪魔者にしていたから、
都合が悪いから無いものにしようとしていたその存在が、
ずっと「私はここにいるよ=寂しさを感じてよ!」と訴えていた。
だけどずっと見ないフリをしていた。
自分という内側の世界で(本当は認めたいのに)無いものにしていた存在が大きかったから
現実という外側の世界に(本当は欲しいのに)長年パートナーが居無いこととして映し出していた。
それをインナーカップルとして例えるなら
フリーランスになる頃から、私のインナー彼氏はインナー彼女そっちのけで頑張ってきた。
それまで力の向ける先がなかった彼氏は占星術に出会い、「俺の居場所はここダァァ!」といわんばかりに鼻息荒めでやってきた。
だからこそ彼氏の男性性が育ったと思うから、そこはありがとうだ。
力がついてきた彼氏はいつからか、彼女をダサいと思って引っ込めた。
彼女はずっと寂しかった。拗ねながらも、ずっと彼氏の帰りを待っていた。
あるとき彼氏は限界を感じて立ち止まざるを得なくなった。
そのときにようやく彼女の大切さに気付いてきた。
きっとそんな状態だったのだと思う。
孤独は誰の中にもあって。
だから持ってて良くて、というか必要なもので。
だけど私は、孤独=安心する居場所だった。
なぜ孤独に安心しきっていたのか?
人との関わることが怖いから。
なぜ人と関わるのが怖いのか?
蓋を開けられてしまったら弱い自分を晒すことになるから。
その「恐れ」から、孤独でいることを選択していた。
そこに気づきたくないから孤独最高!という旗を掲げていた。
ボイスメンテナンスという声のレッスンに通う中で
鎧が削ぎ落とされてきた1年半前、私は盛大に落ち込んだ。
そのときに蓋を開けて中身を見に行った。
弱くて怖がりで幼い私がいた。
落ち込みから復活しつつあったある朝、
彼氏が洞窟の中の彼女の手を取り、
優しく手を結びゆっくりと外へ連れ出す映像が不思議と浮かんだ。
そこから私は前よりも自分の弱さを認められるようになった。
ダサくてカッコ悪いと思っていることも表現し始めた。
その方が心を開いて安心して人と関われるから。
私自身のために。
まだまだカッコ付けちゃうけどね!
でも、もうそこに気づけるようになってきた。
「いいねェ、やってるねェ!まだそれやりたいんだねェ!」と。
だって全てが私なんだもの。
全方位の私があるからマルになるんだもの。
京都に移住してからのこの2年間、
私にとっては孤独という「安心」=「月」の領域に敢えて留まりに来たように思う。
それが初めての人の前でも素直に弱さを露呈するという、パンチャカルマでの出来事にも繋がったのだと思う。
そして、もう留まることは充分にやったから
これからは本当の意味で心を開いて人と関わっていきたい。
「一人が安心な自分」はもうしっかりいるから
「二人でいることが安心な自分」にもなれる。
そう思えたのでした。
人の数だけ性の個性があると思うし
人の数だけ人との関わり方とタイミングがあると思う。
だからパートナーがいることが善、と言いたいわけではなく。
ただ私は、寂しさに蓋をして一人がいいと思い込んでいたけど
奥底ではパートナーを求めていた。
それくらい自分の中で分離していたけれど
本当はどんな自分も受け容れたかった。
そんな私という一人の、一つの体験のシェアでございました!
何かの気づきやきっかけになっていたら嬉しいです。
自分を愛するという旅はこれからも続く。
内面の旅も、本当に面白い。
ユリコスペイシー
占星術家
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