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「ナスの肉味噌」

 ホリエアンナはナスが嫌いだった。
 だから給食でナスが出たとき、どうしても食べられずに残そうとした。

 担任のヨコデ先生はまだ若い男の教師で普段は温和で優しいのだが、部分的に異様に厳しいところがあり、前触れもなくヒステリックに怒り出す人だった。
 その日の先生は、ホリエアンナが給食を残すのを決して許さなかった。

 安っぽいプラスチック皿の片隅に、みじん切りのタマネギやニンジンが入った肉味噌から選り分けた、へにゃりとしたナスの断片。

 昼休みが終わり、外で遊んでいた同級生たちが帰ってきて午後の授業が始まる頃になってもホリエアンナの席は給食の時間のままの形で、薄緑色のトレイを前にホリエアンナはただじっと座っていた。ホリエアンナとホリエアンナがいつまでも食べられないナスだけが、いつまでもそこに居残っていた。

「ちゃんと食べ終わるまで、今日は先生ゆるしません」

 ヨコデ先生はじっと下を向いているホリエアンナを見下ろして言った。腕を組んで厳しい顔つきをしていた。まるで鬼かなにかに憑かれているように見えた。

「ほら、あなたが食べ終わらないと、みんな授業ができないでしょう」

 そんなことはない。ヨコデ先生がホリエアンナを責めるのを止めたらいいだけなのだ。きっと他の生徒たちもそう思っていたはずだ。
 でも誰も何も言い出せず、その地獄のような時間はいつまでも長く続いた。

 ホリエアンナはじっと下を向いて、もうとっくに泣き出している。

 普段のホリエアンナはとても活発で、同年代の男子に比べて発育もよかった。背の順に並ぶと大体クラスで二番目か三番目位だった自分からすると、かなり大きく見えた。それに加えて性格も騒がしいホリエアンナを、正直な所すこし苦手に思っていた。
 だからこそ、このときのホリエアンナが一層哀れに見えたのかもしれない。

「あっ」

 ヨコデ先生が何かに気がついて声を上げた。それから慌てたようにホリエアンナの周りをあたふたと動き回る。ホリエアンナは下を向いたまま、さらに身をこわばらせ、じっと動かない。

 ホリエアンナのイスの下、古い木造校舎の床板に、水たまりがジワジワ広がっていた。給食の時間から五時間目の授業に入る時間まで、ホリエアンナはヨコデ先生に怒られていたのだ。ずっと我慢していたのだろう。でもそこで限界だった。
 ホリエアンナは、オシッコを漏らしてしまったのだ。

 ヨコデ先生は子供の目にも分かるくらいに慌てはじめた。
 さっきまでヨコデ先生に取り憑いていた怒りはどこかへ去り、その代わりに保健室から女の先生が呼ばれ、ホリエアンナは教室の外に連れ出された。

 あとのことは、はっきりと覚えていない。
 クラスは一通りザワザワして、この状況をはやし立てるお調子者もいたのだろうが、ほとんどの生徒は驚いて、なにも言えない状態になっていたように思う。すくなくとも自分はそうだった。ヨコデ先生のヒステリーは普段より度を超していたし、その後のことも、まだ幼い自分には衝撃的だった。教室全体が、ちょっと異様な雰囲気だったように思う。

 とりあえず、その日ホリエアンナは嫌いだったナスを食べずに済んだに違いない。残された給食は、あの頃学校で飼っていたニワトリにやることになっていた気がする。

 どんより曇った冬の日で、古い石油ストーブが教室の一角でゴンゴン燃えていた。半ズボンからむき出しの太ももが火照り、体操服の上から着たパーカーの袖口がほつれていた。

 その年の冬は、北国でもないのに全体的にひどく寒々しい印象が残っている。

 やがて春になり、学年が繰り上がる前に、ホリエアンナは遠い所に引っ越していった。新学期になるとヨコデ先生の姿もいつの間にか見なくなった。きっと別の学区に赴任していったのだろう。

🍆

 逆上がりができない小学生として有名なのは、なんといっても『ドラえもん』の主人公である。
 しかし僕が出来ないのは逆上がりではなく、空中逆上がりなのだ。これは普通の逆上がりよりも断然難易度が高い。なかなか出来るようにならなくても仕方がない。だから鉄棒から地面に落ちた自分に浴びせられた言葉は、まったく的外れだと僕は思う。

「やーい、のび太」

 それでも、やっぱり気分はよくない。
 去年の視力検査に引っかかってかけることになったメガネが、落下の衝撃でズレている。それを直す自分の仕草も「のび太」と言われる原因にきっと含まれているのだろう。そうやって自覚している分だけ、余計に腹立たしい。

「派手に落ちたなー」

 みんなのところに戻ると、ホリエアンナが早速声をかけてくる。ムッとしている僕に気がついたのか「なんだよ、怒るなよ」と言って、背中をバンバン叩いてくる。体操服についた土埃を払ってくれているのかもしれないが、叩く力が強くて背中が痛い。

 この数年で僕の身体はもちろん成長していたが、ホリエアンナの方がさらに大きくなっていた。ガサツな性格も変わっていない。

「やめろよ、暴力女」
「あ、のび太のくせに生意気だ!」

 ホリエアンナは「家庭の都合」で小二の冬に四国に転校して、小四になって同じ都合で戻ってきた。また同じクラスになった。いつの間にかホリエアンナはクラスの女子グループの中心にいて、男子にもズケズケと物を言ってくる。もし僕がのび太だとしたらホリエアンナはジャイアンだろう。

「まあでも、お前根性あるよ。何度も落ちて」
「うるせえな」

 なんとなく映画版の気のいいジャイアンみたいになったホリエアンナに、僕はつっけんどんに返事をした。女子のくせに、ホリエアンナは妙になれなれしい。

「なんだよ、のび太にしては頑張ってるから、ほめてやったのに」
「だから、うるさいんだよ! ジャイアン女! あっち行け!」

 ブスッとした顔でホリエアンナが僕をにらんでくるから、僕もにらみ返して威嚇する。
 僕とホリエアンナは、この頃は大体、いつもこんな風だった。

「なんでこんなところにいるんだよ」
「……お前だって」
「逃げてる途中だから」
「なんだ、またドロケイか。ガキっぽいなー」

 グラウンドと古い校舎の間には竹林に囲まれた小さな池があって、そこは昼間でも薄暗く、不気味な雰囲気があった。普段あまり生徒は近づかない。だから格好の隠れ場所だと僕は思ったのだ。

「ホリエだって、いつもやってるじゃん。なんで今日は入んなかった」
「まあ、ちょっと」

 実際の所、ホリエアンナは昼休みのドロケイでは欠かせないメンバーだった。
 ケイサツ側に回れば、どこに隠れていようと見つけられてしまう。足も速いから、走って逃げてもすぐに追いつかれる。もちろんドロボーになっても大活躍する。
 いまでもよく覚えているのは、僕を含む他のドロボー全員が捕まったところで、牢屋に設定していた物置小屋の屋根の上からホリエアンナが突然現れた場面だ。太陽を背にした影がサッと踊った。そして軽やかに地面に飛び降りたホリエアンナに牢番はなにも対応出来ず、ドロボーたちはみな脱獄を果たした。あれはまるで、夕方に再放送していたルパン三世みたいだった。

 口惜しいが、ホリエアンナは間違いなく学年でも最強の部類に入る。女子のくせに、僕にはとても適わない。

「あ、なんだそれ?」

 ひとりで池の前にしゃがみ込んでいたホリエアンナは、手になにか持っていた。「なんでもねえよ」と誤魔化して、ホリエアンナはそれを後ろに隠そうとする。でもすぐに自分でも不自然だと思ったようで、それを僕に差し出して見せてきた。

「もしかしてコイにエサ?」
「……まあな」

 でもそのポケットティッシュに包まれたものをよく見ると、どうやら給食の残り物、しおれたナスだった。

「あっ」

 その日の献立は、ナスのショウガ焼きだった。つまりホリエアンナは、いまでもナスが食べられないらしい。だからこっそり始末しにきたのだ。

 思わぬタイミングで秘密を知ってしまったようで、僕は咄嗟になにも言えなくなった。ホリエアンナも気まずそうに、じっと下を向いている。普段の女子版ジャイアンみたいな姿とはかけ離れた様子だ。二年生の、あの冬の場面がよみがえった。

「……普通に、残せばいいんじゃん。食えないなら」
「そうなんだけどさ」
 
 いまの担任の先生は、給食を残すくらいであんなに怒ったりはしない。いまから考えてみても、あのときのヨコデ先生の様子はやはり普通ではなかった。

「ほら、わたし、二年のときの給食で……」

 そしてホリエアンナは、僕が触れずにいたことを自分から口にする。

「オシッコもらしちゃったしな」

 驚いて、僕は思わずホリエアンナの顔をまじまじと見つめてしまう。

「……いや、あ、でも、うん、まあ……」

 早く何か言った方がいいとは思うのだが、あからさまに動揺した僕は、モゴモゴと口ごもるしかない。

「おい、もっと、なんかちゃんと言えよ。いま、すげえ恥ずかしい、わたし」

 ホリエアンナも言ってしまった後で自分で驚いたのか、ひどく照れているような、困ったような泣き笑いの表情をしていた。頬が赤い。

「……あー、ええと……なんだっけ。なに話してたっけ? そうだ、明日はお前もドロケイ」
「いや、だから、オシッコもらしたって話。ナスが食べられなくて」

 また言った。また僕は驚く。折角話を変えようとしたのに、なんだこいつは。ホリエアンナの笑顔は、いつの間にか開き直ったような、いたずらぽいものに変化していた。

「お前だって覚えてるだろ」
「ああ、うん。いや、どうだっけなあ……」

 あからさまに動揺している自分を誤魔化しながら、僕はあることに気がついて、さらに動揺し始めていた。

 ホリエアンナは、じつはとてもきれいで可愛らしい顔をしていた。

 まずは目が大きい。その黒目の奥を、思わずじっと見つめてしまう。笑顔を形つくっている口の端が、きゅっと大きく切れ上がっていた。その唇はなんだかへんに赤い。みずみずしい肌は上気したようにピンク色になっている。ハッキリ「美少女」といえるくらいのレベルで、ホリエアンナの顔は美しく整っていた。

「ウソつくな。覚えてるだろー。だって、あんな派手にオシッコ」
「え、いや、だから、分かった。分かったよ。やっぱり覚えてる。覚えてるけど……まあ、そんな大したことじゃないし」
「……そうか?」
「そう、そうだよ。おれなんかウンコもらしたことある」
「え、汚え。なんだそれ。そんなん聞いてないし」

 僕はとにかく狼狽して、自分がなにをしゃべっているのか分からなくなっていた。

 ホリエアンナは、親が見ていたドラマに出てくる女優の誰かによく似ていた。でもその女優の名前がどうしても思い出せなかった。もし思い出せたとしても、それを本人には言えなかったに違いない。その代わりに、とにかくどうでもいいことばかり僕はしゃべり続ける。

「いや、じつは結構学校でウンコもらしてる奴は多いんだ。うまく隠してる奴が一杯いる。もしお前がどうしても知りたいなら……」
「べつに知りたくねえよ」
「えっと、えーと、じゃあ、隣のクラスの男子で野グソしたやつ、おれは知ってる」
「だから、なんだよ。お前ちょっといい加減にしろ」

 ホリエアンナは学年で男子の人気が高い女子たちの誰よりも可愛い顔を、これでもかと歪めてみせた。いつものように。
 不思議なことについさっきまで、僕は気がつかなかったのだ。ガサツな女ジャイアンとしか認識していなかったホリエアンナが、こんなにも可愛いなんて。もう死ぬほどびっくりした。

「……じゃあ、じゃあさ! お前知ってた? この池、もうコイはいないんだぜ。三年のとき、いきなり全部死んじゃって」

 今度はホリエアンナが転校している間に起こったコイの大量死と、それにまつわる学校の怪談を僕はまくし立てた。頭に思い浮かぶことをみんなしゃべり続けて、とにかく場を持たそうとしていた。僕はへんに興奮していた。

「その話なら知ってるよ」

 ウンコもらしの話にはいい反応をしなかったホリエアンナが、この話題には乗ってきた。

「たしかにもうコイはいないな。でも別のなにかはいる。……ほら、よく見てろよ」

 そう言ってホリエアンナがナスの欠片を池に放り投げると、そこにブクブクと泡が立ち、得体の知れない黒い影が池の底からヌッと出てきた。そいつは食べ残しのナスを大きな口を開けて呑み込んで、また池に沈んでいった

「なんだよ……あれは」
「さあ、なんだろうな」

 ホリエアンナが言うように、たしかにそれはコイではなかった。

 ——旧校舎の近くの池はじつは底なしで、別次元につながってる。そこを自由に行き来する怪物が、獲物を待ち構えてじっと息を潜めている。

 この学校で噂される怪談の一つに、こんなものがあった。そのとき僕はハッキリとそれを見てしまった……ような気がする。

「誰にも言うなよ。祟られるから。もうこれで何人か死んでるんだ」

 じっと僕を見て、ホリエアンナはたしかそう言った。

 あのとき僕とホリエアンナがいた小さな池のすぐ側にはニワトリの飼育小屋があって、その年の夏に誰かが忍び込んで可哀想なニワトリを全部殺してしまい、切り取られた首がこの池の周りを囲うように並べられた。どうやら犯人は学校の内部の誰かだという噂がまことしやかに出回った。

 他にも不穏な事件が次々と起こり、それに伴う噂や怪談話が学校中で巻き起こって結構な騒動になったのは、それから間もなくだったはずだ。

 でもその記憶はどこか曖昧で、どうもはっきりしない。きっと僕は実際にあった出来事とイメージを混同しているのだろう。小学生の思い出なんて、大人になってしまえば、そんなものかもしれない。給食も昼休みの時間も、いまはもうすっかり遠い。

 ホリエアンナは五年生になってすぐ、学校から姿を消した。
 また家庭の都合がどうとかで、急に転校していった。家の仕事の関係らしいということを誰かひとづてに聞いたような気がする。

🍆 🍆

 大学の最寄りのJRの駅は、繁華街として賑わっている。
 金曜の夜ともなれば、終電間際の駅前に色とりどりの有象無象がアルコール混じりの呼気を吐き出しながら絶えずひしめき合っていた。

「おい、○○、○○だろ!」

 飲み会帰り、駅前で同級生と解散して歩き出した有象無象の一人であった僕は、誰かにグイと腕を引っ張られた。

「あー、やっぱり。お前○○じゃん。すぐ分かったし」

 目の前で名前を呼び捨てにしてくる若い女が誰なのか、僕にはさっぱり分からない。そんなに酔っているわけでもなかった。本当に見覚えがないのだ。
 明るい色に染めた髪、派手目なメイク。そして野暮ったいジャージの上下。とりあえず大学の同級生ではなさそうだとは思う。

「わたしだよ、わたし」

 さて、あなたは誰でしょう。美人局なんかに引っかけられる覚えも自分にはない。曖昧な表情を浮かべて僕は困惑した。

「わたし、ホリエアンナ」

 終電が終わってもやっている適当なチェーンの飲み屋に入った。
 ピークが過ぎて疲れ果てたバイトの店員にカウンター席に通され飲み始めると、十年ぶりに再会したホリエアンナはよくしゃべった。

「わたしの家、どうしても一つの所に長くいられないだろ? それで転校ばっかしてさ」

 両親の故郷である四国の田舎町に転校していったホリエアンナは、それからも数年ごとに日本全国を転々としていたらしい。やはり家の仕事の関係で、そうせざるを得なかったのだ。そして東京には、つい数日前に出てきたばかりだという。

「ふーん、お前ほんとは頭よかったんだな」

 地元を出て一人暮らしをして、この近くの大学に通っていることを僕が話すと、ホリエアンナは感心したように言った。本人は大学には行っていないらしい。

「そういえばメガネかけてたもんな」

 いやいや、ちょっと待て。
 メガネをかけてるから頭がいいというのは、あまりに短絡的な発想だ。そして現在の僕はもうメガネをかけていない。高校生になってすぐコンタクトに変えた。

「あのときはお前、逆上がりも出来なくてよ、もう完全にの……」
「だから、のび太じゃない」
「あ、自分で言っちゃった!」
「……相変わらず、うるさい女だな。それに言っとくけど、おれが出来なかったのは逆上がりじゃなくて、空中逆上がりな」
 
 のび太呼ばわりされるのが、やはり嫌だったのだ。これはつまりホリエアンナに植えつけられたトラウマのようなものだ。そのせいで僕はコンタクト使用者になった。保存液と目薬だって用意しなければいけない。正直ちょっと面倒くさい。でも、のび太は嫌なのだ。

「大体が、のび太ってキャラでもなかっただろ、おれ」
「そうかなー。のび太ぽかったけどなあ」
「テストで0点取ったことないぞ」
「でも家の押し入れにドラえもんいただろ?」
「いねーよ」

 しかし考えてみれば、メガネだからのび太で「ダメな奴」とされるのと同時にメガネをかけていたから「頭がいい」って、どうなんだお前それ完全に矛盾してるじゃないかとホリエアンナに僕は絡んだ。
 どうもすこし酔ってきたようだ。

「あはは。中身はあんま変わってないんだな。またメガネに戻せば」
「だからメガネって」

 僕のことを変わっていないとホリエアンナは言う。でもホリエアンナはあの頃からずいぶん様変わりして見えた。

 小学生の頃には発育がよく、自分よりかなり大きく見えたのに、いまではすっかり小柄だ。どういうわけかヤンキーみたいな格好をしているが、そのせいで余計に子供っぽく華奢に見えるホリエアンナ。女ジャイアンなんて感じは、もうまったくしない。

「よし、次はコレ飲む。お前も飲むだろ? な?」

 ホリエアンナはいかにも安っぽい、色鮮やかなサワーばかり飲んだ。メニューを全種類制覇しそうな勢いで次々と飲んでは追加注文する。こんなベタベタと甘い物、よくそんなに飲めるなと感心しながら、僕はホリエアンナをまじまじと見つめる。

 小四の昼休み、あの池で同じように見つめていたホリエアンナと、そこでようやくイメージが重なってくる。

「なんだよ。ガンつけてんのか」
「いやべつにガンはつけてない」

 いまどき珍しい位に古典的なヤンキー少女みたいになっているのは、長く地方で生活していたせいかもしれない。その野暮ったい服のセンスや相変わらずガサツな言葉使いはともかくとして、目の前のホリエアンナ自体は相変わらず可愛かった。

 やはり自分たちが小学生の頃に活躍していた、あの女優によく似ている。でも下手したらそれ以上に可愛い、というか吃驚するほどにホリエアンナはきれいな、おそろしく美しい顔立ちをしていた。

「……やっぱガンつけてる」
「だからガンはつけてないんだって」

 真っ直ぐホリエアンナに見つめ返され、急にドギマギしてきた。考えてみれば大学の知り合いの女子とだって、終電が終わった深夜、こうして二人きりで飲んだことなんてない。

「じゃあ、なんで見てくる」
「いやだから」

 目の前にいる小学校の同級生は、中学高校と自分の知らない時間を自分が知らない土地でどんなふうに過ごし、どのようにして現在のホリエアンナになったのだろうか。こんなにきれいな女の子とここまで気さくに、ごく自然にいましゃべれているのは、やはりこいつがあのホリエアンナだからなのだろう。考えてみれば、これは不思議なことだと僕は思った。

「……お前、彼女とかいないだろ」
「え、いや」

 断っておくが、べつにこれまでずっと彼女がいなかったわけではない。しかし最近はずっと一人だった。もちろん彼女がいたことだってある。それは本当だ。ちゃんと真剣に付き合っていた。でもいまは一人。出会いがあれば別れもある。そういうことだ。「お前童貞?」……いやマジで馬鹿か、なんでそんなこと聞くかな。でもおれ童貞じゃないし。一応はっきり言っとくけど童貞ではないし。

 そうやってホリエアンナに自分の異性交遊を何故か必死で説明している最中、すっかり消耗しきってゾンビみたいになってる店員がやって来て「当店ではお一人様一品料理のオーダーを……」と生気のない声で訴えてきたから目についた安いメニューを適当に頼んだ。

「ちょ、お前ナスの一本漬けって……」
 
 そこでいきなり笑い出してイスから転げ落ちそうになっているホリエアンナは、さすがにもう酔ったのだろうか。気がついたら僕もすっかり酒に飲まれていたようで、バンバン背中を叩かれているうちに一緒にイスから転げ落ちた。

🍆 🍆 🍆

 目が覚めたのはもう昼過ぎで、それからもダラダラなんとなく過ごして、夕方くらいになった頃、ふとホリエアンナが言った。

「うん、やっぱりメガネの方が自然な。のび太らしい」

 すぐに言い返そうと思ったが、べつにのび太ならのび太でもいいような気もしてきた。コンタクトをつけ直すのも面倒くさい。

 ズレたメガネを直して、自分の部屋にいるホリエアンナの姿を改めてながめる。ベッドのすみのタオルケットから飛び出した素足がつやつやと、ひどくなまめかしい。

「なあ、腹減らない? お前料理するんだろ。コレ作ってくれよ」

 ホリエアンナが指し示したのは、『黒船』という漫画の一ページだった。さっきからホリエアンナはその漫画をずっと読んでいた。短編オムニバスの作品集で、作者の黒田硫黄という人は料理が得意らしくてレシピも沢山出てくる。それはいかにも美味そうで、実際にいくつか作ったことがある。

 たしかに朝から何も食べていなかった。僕はホリエアンナのリクエストに応えてやることにした。

「いい匂いだ。うまそうじゃん」

 ホリエアンナのリクエストは「みそスパ」として紹介されてるレシピだった。
 普段からマメに自炊をする方だったから、キッチンにあった買い置きの材料でとりあえずは足りた。まあ元のレシピ自体が、すごくざっくりしたものなのだ。ありもので手軽にパッと作れる。でも美味しい。

 まずはパスタを茹でる。
 その間に、ひき肉、細かく刻んだナスやタマネギ、コマツナなどの適当な野菜を一緒に炒め、パスタの煮汁で溶いた味噌(赤味噌が望ましい。白味噌だと悲しいことになるらしい)を、そこに絡める。
 完成した肉味噌を茹で上がったパスタにかけ、そこに生卵を落とす。
 パスタと肉味噌の余熱で卵が程よくからむ。

「おお、うまいなコレ。思った通りだ」

 ホリエアンナは余程腹が減っていたようだ。でもたしかに自分でもなかなかの出来だったと思う。ちょうど旬だったので、近所のスーパーでナスが安く売っていた。それを大量に刻んで入れたのもよかったのかもしれない。

 そういえば黒田硫黄にはズバリ『茄子』というタイトルの作品もあって、そっちもすごく面白い。ホリエアンナに読ませてやりたいなと思った。でもあの単行本は実家に置いてきてしまったんだっけと、ぼんやり僕は考える。

「まだまだ全然食べられるな」

 ホリエアンナは箸でパスタをグチャグチャにかき回して、じつに豪快に、よく食べる。品のない食べ方だが、このパスタはそうやって食べるのが一番美味いように僕も思う。

「うまい、うまいよ。お前の料理もなかなか」

 ……あれ、でもホリエアンナはナスが嫌いだったんじゃなかったか。そのときになって、僕は急に思い当たる。

 とくにナスの肉味噌なんて、下手するとホリエアンナにとって一番のトラウマになっていてもおかしくない……。冬の教室で下を向いて泣いていたホリエアンナ、それから池に投げ込んだナスの断片のイメージが、サッと頭によぎった。

「……なあ、お前知ってる?」

 食べるのを中断して、ホリエアンナが僕に聞いてきた。

「あのときの担任、ヨコデ先生っていただろ」

 こちらの思考を読んだような話題をホリエアンナは振ってきた。さらにその先ホリエアンナがなにを言うのか、僕には何故か分かるような気がした。不思議なことに僕は分かっていた。でもこの先の話は聞いてはいけない気がする。しかしホリエアンナは、あっさりとそれを口にする。

「ダンプカーにひかれて死んじゃっただろ。……あれからすぐ」

 やはり僕はそれを知っていた。……いや本当に知っていたんだっけ? この瞬間はじめて知ったような気もする。実際のところ、どうだったんだっけ。とにかく記憶や認識というものは、じつはいつだって曖昧だ。とくに子供時代のそれなんて。

「学校の前の道で暴走したダンプカーってな。運が悪いなんてレベルじゃないよな。……まあ実際スゴいだろ。あんなデッカくて重いのにひかれたら、そりゃもう、この肉味噌みたいにぐちゃぐちゃ……」

 そう言いながら、ホリエアンナは刻んだナスとひき肉が大量に入った肉味噌パスタを箸でさらに掻き混ぜて食べる。パスタと肉みその余熱で、玉子の黄身がよくからんで、ぐちゃぐちゃと音を立てる。

「あとさ、もうすぐお盆だろ。お盆のときにナスとかキュウリに箸を刺して、馬とか牛みたいにするやつ、お前あれなにか知ってる?」

 なんとなく知ってはいる。でもそんな風習は僕が生まれ育った新興住宅地ではほとんどすたれていて、実際に目にしたことはなかった。

「アレが苦手でさあ。向こうの世界の人が、あれに乗ってこっち来たり、帰っていったりするわけじゃんか」

 ホリエアンナはボソボソと一方的にしゃべり続ける。さっきまでとは様子が全然違う。ずっとパスタをかき混ぜている。

「精霊牛っていうんだけどな、ナスの方は。まあ、とにかく苦手でさあ……。うちは古い家系だし、家の仕事的にも色々あって。あとそれから」

 なんだかもうホリエアンナの話を聞きたくない。気がつくと部屋がとても暗い。夏で日が長いとは言っても、もうさすがに暮れてきたようだ。それに寒い。背筋が冷えるような感覚。冷房を切った方が良さそうだ。
 
「……いや、どうしようかな。もう話さない方がいいのかもしれないけど。でも話しはじめちゃったしな」

 まずは立ち上がって部屋の電気をつけようと思うのだが、ホリエアンナがずっと話しているから、なんとなくそれも出来ない。

「あの池で見たやつ、覚えてるよな?」

 あの日、池から浮かび上がってきた黒い得体の知れない影。
 もちろん覚えている。
 いや本当に覚えていたのか? 
 いまこの瞬間にその記憶がよみがえった、あるいは作られた記憶のようにやはり思えて仕方ない。でも覚えている。曖昧で不確かな、あの黒い影。

「ああそうか。やっぱり覚えてるんだなお前」

 いまはもう遠い少年の日の思い出。あれからしばらくして続いた一連の不気味な事件や噂話。ホリエアンナが転校していくと、それはみんなウソみたいに静まって、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。

「あそこで食えなかったナスとか、給食の残りを……それで……アレが……でも……むかしから家に憑いてる……わたしだって」

 僕の部屋は狭いアパートだが収納関係が充実していた。とくに押し入れが広く、そこには布団と衣装ケースを入れている。他にはとくに何も入っていなかったはずだ。ましてやゴソゴソと音を立てて動き出すようなものは何もないはず。なのに、そこからゴソゴソと音がするのは何故なんだろう。

「……だから……アレをお前がもし覚え……したら……お前まで」

 目の前のホリエアンナは闇に溶け込んで、メガネをしていても顔がよく見えない。

 ドンッ、ドンッ……。
 
 宵闇に包まれた狭いアパートの一室に、ホリエアンナの不気味にしゃがれた聞き取りづらい声と、得体の知れない物音だけが響く。
 
「見えるやつにだけ……だから先生は……わたしのせい……でもアレが……いまでも……暗い所には、ずっと……」
 
 ダンッ、ダンッ、ダンッ。
 押し入れの奥からの物音は、一層激しくなっていく。

「あの頃、ナスばかり食わせて……飽きた……それでアレが勝手に……お前の、ことだって!!」

 僕はいまメガネをしていてものび太ではないし、美しく成長したホリエアンナはもう全然ジャイアンぽくない。かといってしずかちゃんというわけでもなさそうだ。そんなことをしびれたようになっている頭の片隅で考える。

 ダンッ、ダンッ、バシャッ、ダンッ、ダンッダンッダンッ……!

 僕たちは夢と不思議と優しさにあふれる少年漫画の登場人物ではなかった。だからいま押し入れで音を立てているのは明るい未来からやって来た気のいいネコ型ロボットというわけでは全くなさそうで、それどころか、きっとあの日、あの池で、ハッキリと僕も見てしまった、あの得体の知れない、だからホリエアンナが言っているアレっていうのはつまり……。


 げぷっ。 
 と、そこで変な音がして部屋が急に明るくなった。

「……なんてな」

 ホリエアンナが品のないゲップをいきなりかまして、部屋の電気をつけたようだった。

「ちょっとビビってただろ、お前」

 実際ビビっていたが、頭が状況に追いつかないところもあって混乱もしていた。詰まるところ何が何だかよく分からなかった。

「ごちそうさま。いやーコレ美味かった。ナスの肉味噌パスタ、最高だった。また今度食わせてくれ」

 美味しく食べてもらったならよかったなと僕はとりあえず安心する。

「わたしはもう大人で、あの頃よりずっと強いんだ」

 口の周りについた味噌をティッシュで拭き取りながら、僕に言っているのか独白なのか分からない事をホリエアンナが言う。

 禍々しい異様な空気はすっかり消え去って、押し入れで鳴っていた物音はぱったり止んだ。いつの間にかホリエアンナの皿もきれいに空になっていた。

「だから、いまはなんでも食える。アレだって、すこしはコントロールが効くようになったんだ」

 とにかくホリエアンナはもうなんでも食べられるらしい。それは結構なことだ。でも若い女の子があれだけ遠慮なくゲップをするのはどうかと思う。

 幼なじみのホリエアンナはむかしナスが嫌いで、どうしても給食の時間に食べられずにオシッコまでもらしてしまった。でも大人になって食べられるようになった。僕は子供の時からナスは嫌いではない。どちらかと言えば好きな方だった。

 その夏が終わる頃までホリエアンナは僕の部屋にずっといて、突然また姿を消した。

 それきりでもう会っていない。

 ナスの肉味噌パスタは、いまでも時々つくって食べる。ホリエアンナみたいに、ぐちゃぐちゃ下品にかき回して箸で食べる。それが一番美味い。

お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、課金に拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。