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③「僕も未來さんに似てますよ」
記事・写真 三浦順子
はじめに
杵築市山香町にあるカテリーナの舞台で「表現する人たち」が語り合うこの連載。前回2は、絵画を学び、研究することに関心があったという安藤さんのストーリーから始まりました。仙台での学生時代に出会った先生の元に通い、コツコツと絵画を学び続けた安藤さん。大分に戻り、古楽器と向き合う未來さんの父・コウハクさん(※1)と出会ったとき「わ、(絵画の先生の)楽器バージョンやー」と感動したそうです。その後、木村さんと安藤さんも出会うことになり…。うわー、出会いって一体なんなんでしょうか。そして必然な感じもしてくるから不思議です。第3回となる今回は、3人が育った環境について。ここでもみなさんに新たな共通項が現れて、ちょっとびっくり。そして表現についてのお話も、深ーいところで進んでいきますよー!。
Ep.1. Ep.2 は ↓から
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中秋の名月 ミカエルマス
稲穂と彼岸花がカテリーナの森の入口
「もう普通で来てくれ」って
編集長:未來さんの育った環境について「ちょっと独特かも…」と気づいた瞬間がきっとあったと思うんですけど…それはどのあたりだったんですか。
未來:小学校に上がったころには分かっていたんじゃないかな。1年生になると自己紹介が始まるじゃないですか。「松本未來です」って。当時だとあんまりない名前だったからちょっと恥ずかしいとか…。あと、友だちの家との行き来が始まると、違いがわかる。うちはやたら人が来るし、毎晩飲んでるとか。笑。両親とも一日中いて「何でどっか行かないんだろうな」って。それが面白いと思える面と、もうちょっと普通でありたいっていう感覚もありましたね。
編集長:以前ミンナさん(未來さんの妹)と話をしたときに、小学校の音楽の授業に竹の笛を持っていったと聞きました
未來:それはね、兄妹ではミンナだけだったんですよね。僕は基本「みんなと一緒がいい」みたいな感じで…、親が授業参観のときにインド綿の服で来るとかすっごい嫌で
(一同笑う)
未來:「もう普通で来てくれ」って。なんなら上下セットアップのスーツみたいなのでもいいからとか「普通の無地のにして!柄とかで来るな!」とか言ってた。お弁当とかにしてもそうですよね。
安藤:今度はじゃあ、未來さんの番でしょうねー、娘さんができたからー
未來:はいはい
安藤:さあ、娘さんがお父さんにどんなことを言うか
(一同笑う)
未來:そうねー笑
編集長:山香では学校の人数は少なかったですか?
未來:10歳まで東京の福生にいて(1学年)10組ぐらいだったんです。山香に引っ越してきてからは2組で、1学年で60人ぐらいはいたと思います。振り返ってみると自分にとっては、小学校生活は意外と東京の方が楽しかった。4年生ぐらいだから変化する時期で。山香になじみつつもどういうふうにやっていこうかなと思ってるところもあって。本来とは少し違う自分がいたかもしれない。学校の自分と、家にいるときの自分の違いもあった気もするし…
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編集長:今はどっちの自分ですか
未來:両方。その経験があって、バランスみたいなところになってるかなと思います。
編集長:お二人はどうですか、幼少期。
安藤:僕も未來さんに似てますよ。小学校4年生まで亀川の団地にいたんですよ。後ろも前も隣も人人人ばっかり。その後(同じ別府の)九州横断道路の上のところに引っ越したんです。周りが田んぼで、なんじゃここはと思いました。うん、ショックでした。こんなとこで、えー?みたいな。…でも、すごい良かったですよ。そのときの記憶とか…、川を見てたときの「きれいやなー」とか、それ今でも生きてますから。それがベースで制作してるときもあるんで。
-横断道路の上の方が田んぼだったんですね。今は住宅地みたいなところだけど
安藤:田んぼ田んぼ。いまは変わりましたよねー。高速道路もできる前でしたから。小学校で転校して新鮮な感じと、あと「えー?」みたいなのは今でも、何かをやるときのベースにあると思います。
編集長:「えー?」っていうのはどういう…
安藤:団地にいた頃は、駄菓子屋さんとか公園とかいっぱいあったんですよ、スーパーとか。
木村:それが一切ないところに引っ越して
安藤:一切ない。なんか人もいないし。うちの父は生涯タクシーの運転手なんですよ。ずっと頑張ってきたから家建てるぞって、父の意向で。なんか、いい意味でショッキングな。
木村:なんか鶴見山に飲み込まれそうな雰囲気のところだよね。子どもにしてみたら
安藤:亀川から鶴見山は、見えてたんですよ。でも引っ越して鶴見山が近くなってからは記憶にないんですよね。もしかしたら子どもって遠くが見えないんじゃないかな、
一同:ああー
木村:そうだよねー
安藤:鶴見山あんなに大きく目の前にあるのに、笑。僕、記憶にない。
-結構近くて大きすぎたんですかねー。九州横断道路から鶴見山を見ると、たぶんでっかいですもんね。
未來:やっぱ距離感もあるんですかねー
木村:ですね、あんまり近すぎた
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居場所がない感じでずーっと
-木村さんは原風景はありますか?
木村:生まれたのは兵庫の明石なんです。ただ全然記憶がなくて。親が勤め人で、3歳くらいの頃に東京の世田谷の、三宿っていうところに移った。その頃は田んぼの跡や雑木林が残っていて、まだ世田谷が郊外だった時代の名残があったんです。そこが一番まあ、懐かしいですね。で、親父たちが千葉の四街道に家を建てて、中学生のときに越したんですよ。そこは僕にして言えば、さっきの未來くんじゃないけど、違う世界。何か居心地が悪くて…。いま行ってみるといいところなんですけどね。
-どうして居心地が悪かったんでしょうか
木村:千葉にはわりと野生児がいて、友だちの雰囲気もそれまでとは違った。中学生は自分の個人としても変わる時期でしょ。そのときに環境が大きく変わったんで全然なじめなくて。居場所がない感じでずーっと高校ぐらいまで過ごしましたね
未來:美術はやってたんですか
木村:野球をやってたの。環境が変わって野球も続いたり続かなかったりしちゃって。で、大学受験するときに美術を始めたんです。僕、高校は(隣の市にある)佐倉高校なんですけど。駅から高校まで田んぼの中をけっこう歩くんですよ。そんときにたまたま、四街道から通ってる美術の先生がいて。ずーっと一緒に、うだうだ話しながら通ってた。そんなのがきっかけかな。
-それで、彫刻の道に
木村:彫刻の道にっていうかねー、最初は美大って油絵だろうみたいな感じで普通に油絵を描いてた。僕、デッサンは好きだったんですよ。でも絵の具が使えなかった。受験の実技の時間って6時間ぐらいなんです。見る人が見ればすぐ、その人がどのぐらい描けるかわかる。だから仕上げる必要はないんだけど、当時はそんなことは分からなかった。とにかく6時間で何か形にしなきゃいけないんだろうと思って、絵の具が乾かないうちに、後から後から付けるでしょ。どんどん濁ってくんですよ。形もぐちゃぐちゃになってわけがわかんなくなって…。で、焦るでしょ?。そうすると、葛藤が全部ここに映るわけです。
一同:ああー
木村:そういうのを全部引いて、自分が見える通りに素直に描いていけば絵は進んでいくんだけど、そうじゃなくて「何とかしなきゃ上手く書かなきゃ、これを失敗したらどうするんだ」っていう思いで描いてるから、全然駄目なんです。とにかくぐちゃぐちゃになってその濁りだけがこう、リアル。笑。それで何度か受験失敗して。でも親父は、まだやるんだったら応援するぞと言ってくれた。で、デッサンで彫刻に引っかかったんですよね。大学の授業はすごく面白かった。佐藤忠良さん(※2)っていって、朝倉文夫さん(※3)の直弟子みたいな人がいて。
-忠良さんに直接教わったんですか
木村:忠良さんも熱心だったですね。もうお年で一線は退かれていたんだけど、必ず週に一度は来て、学生1年から4年まで全員の作品を見て、ひとこと言うことは続けられてて、
安藤:リアルタイムで授業を受けてるって貴重ですよねー
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スプーンが自分の顔になってくる
木村:(忠良さんが)朝倉文夫さんの流れをじかに引き継いで仕事をされていたんだなっていうのは、こないだ(朝倉文夫展を)観てよくわかりました。(忠良さんの)一番下地にあったのは朝倉さんの粘土の付け方から何から、仕事の中身。だけど最初の頃は(忠良さんは朝倉さんに)すごく反発してたみたい。若い頃に(アカデミズムの彫刻を)見るとね、物足りなく感じるんですよ。(大学では)うまくできる学生は忠良さん風の作品を作るんですけど、それを見ていても全然面白くなくて。自分は出来もしないんだけど、ちょっと違うようにやりたいっていうのがあった。やった挙句(先生の)手のひらの上で遊んでるような感じになる。ロダン(※4)でいうと、その下にいる作家たちがどうあがいても普通に人体を見て作ったらロダンになるよねっていう感じ。そしてロダンほどは作れない。…ということはすごく息苦しいでしょう。だから(木村さん自身が)忠良さんみたいな彫刻を観ることができるようになるまでには、ずいぶん時間がかかりましたね。
安藤:年齢は関係なく「わかったっ」っていう感じって大事ですよね。
木村:うん。忠良さんはシベリアに抑留されていて。捕虜になった人たちが、自分が食事に使うスプーンを削らされるっていうんですよね。作業するうちにみーんなその削ってるスプーンが自分の顔になってくるんだって。
-自分に似てくるっちゅうことですか?
木村:似てくるんです。自画像になっていくんですよ。彫刻って、それが主題なんです。固有覚っていって、内側からの感覚で自分の身体のイメージが分かる。例えば安藤さんだったら足がここにあるって、見てないけどわかるでしょ。僕はわかんないんですよ。ここ(腹のあたり)から下が麻痺してるから、僕は見えないと自分の足がどういう状態になってるかわかんない。でもそれ、ここにいる皆さんは手がここにあって、足がここにあるっていうのは、すぐわかってる。ハーバート・リードが彫刻について書いた本(※5)に、先天性の盲目の青年が作った彫像が載ってて。手をバーっと広げて座ってて、足はちょっと小さくて手はでかいんですけど、すっごいリアルなんですよ。作者は全然視覚の経験のない人で、たぶん自分が内側から感じてる感覚で作ってるんですよね。それは彫刻の一番の本質かなと思うんです。感触を頼りにして、実感を知覚して、それをあらゆる方向から見て、どういう形をしてるのかっていうのを、脳内で再現していく。
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日貿出版社 88P左下写真「救いをもとめる若者の像」
17歳の先天性盲目の某青年作、20世紀、粘土
未來:うん、うん
木村:僕が若い頃に、盲学校の生徒が作った陶芸のオブジェを見せてもらったことがあります。ちっちゃな子どもが教室で、自分の背丈みたいな作品を作ってた。そのときに、ああ、これが彫刻の本質だと思った。視覚ももちろん使うんだけど、視覚以前に触覚とか自分の体感とかっていうものがないまぜになって出てくる。何か表現をしていくっていうところの一番根っこに(体感が)あるんです。
-作ったものが自分に似てるっていうのはあるかもしれない。絵でも音楽でもそうだし、文章を書いても、自分にそっくりだったり。内面と向き合うってそういうことなのかな思いました。
木村:油絵描きで中川一政(※6)っていう人がいて。女の人の肖像を描いてるんだけど、自分に似てる。そういうもんだと思いますね。自分の身体の無意識に感じているものがそのまま出てくるんです。
(4へつづく)
注釈
※1 松本公博さん(未來さんの父・カテリーナ古楽器研究所 創始者)
※2 佐藤忠良(さとう ちゅうりょう)戦後日本を代表する具象の彫刻家の一人。木村さんが大学在学時には教授だった。
※3 朝倉文夫(あさくら ふみお)明治から昭和初期にかけて活躍した彫刻家。「東洋のロダン」と呼ばれた。
※4 オーギュスト・ロダン 19世紀を代表するフランスの彫刻家。
※5 ハーバート・リード著・宇佐見英治訳「彫刻とはなにか 特質と限界 新装版」日貿出版社
※6 中川一政(なかがわ かずまさ)日本洋画壇を代表する画家。
次回予告
7/20 10AM 公開予定
次回④は…激論!!
・言葉になる以前の世界に、大事なことが詰まってる
・商業性に走ることの危うさについて
などなど、聞き逃せない本音トークが穏やかーに炸裂してます!。
エピソード④は下から ↓
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プロフィール
安藤 誠人(あんどう まさと)
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1972年 大分県別府市生まれ
2000年(専)仙台 College of design入学
2002年 鯨井久樹 造形美術教室 入門
2003年 安藤誠人個展
以降個展、グループ展多数
2011年 大分県宇佐市に移住
2021年 カテリーナ古楽器研究所大分移住30周年記念公演に絵画で参加
2023年 カテリーナ古楽器研究所開設50周年記念公演に絵画で参加
現在、一色による色調と技法と物質を内なる必然性と関連した絵画表現を探究。
木村 秀和(きむら ひでかず)
![](https://assets.st-note.com/img/1721464142162-UAPJYAYHZ0.png)
1961年兵庫県生まれ
東京造形大学で彫刻を学ぶ。
大分移住後別杵速見森林組合で林業に携わる。
2000年作業中の事故で脊椎を損傷し以後車椅子生活となる。
現在豊後大野市犬飼町 社会福祉法人萌葱の郷の施設で自閉症の人達の美術制作をサポートしている。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100055164999837
松本 未來(まつもと みらい)
![](https://assets.st-note.com/img/1721464174643-MU471A9Zmy.png)
1982年東京生まれ
ヨーロッパ、中世・ルネサンス期の古楽器を復元・制作する工房を遊び場に、数多くの古楽器に囲まれ、制作の現場で育つ。調律師でもあった父のチェンバロ調律は子守唄。音楽は家族の楽しみ、コミュニケーションの一つとして日常にあった。旅をすれば歌が生まれ、楽しくなれば太鼓を鳴らし体が動く。生活は作ることを基本として、楽器に限らず道具やものは自らが作る。そんな生活の場が現在の生きる道を形づけてきた。baobabと同時に古楽器演奏ではシトール、ギターン、ハーディー・ガーディー等を担当する。作ることと音を奏でることは、互いに大きなインスピレーションを与え合うものとして存在している。音楽よりも長い経歴を持つ楽器制作では、現在、カテリーナ古楽器研究所を主宰する。
未來さんの活動拠点。カテリーナ古楽器研究所のあるカテリーナの森では現在劇場化計画が進んでいます。計画にかける思いや、進捗状況などは「カテリーナの森の劇場化」のインスタグラムよりご確認ください。
Magazine Crew
文・写真
三浦順子(あのね文書室)
ライター/インタビュアー。 大分県の片隅でドタバタと4人の子育て中。猫3匹と6人家族で暮らしています。元地方紙記者(見出しとレイアウト担当)。2019年、インタビュー記事を書きはじめました。2022年からは地方紙と専門紙の契約ライターもやってます。
MJは四人の子育てもしている。
そろそろ夏休みでご飯作りに追われるのかな。(編集長)
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