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住み慣れた自宅で死にたい、が叶わないわけとは?

平成24年度の「高齢者の健康に関する意識調査」によると、
日本人の6割の人が住み慣れた自宅で最期を迎えたい、と希望しているそうだ。
でも、その一方で、他国と比べても圧倒的に多い、約8割の人が最期は病院で亡くなっている現状がある。

理想と現実のギャップ。
この差は何かと言うと、人生の最終段階に入ったときに、
医療とどう折り合いをつけるか、もっと言うと、
医療をどの段階で諦めることができるか、
その意思決定が大きなカギを握る。

私は終末期病棟で多くの高齢者を看取ってきた。
その経験から、最期まで医療を受けるとはどういうことか?を、
具体的に観察してきた。

その一方で、私自身は自然療法を基本としており、
家族も含め、西洋医学的な治療をほとんどいっさい行っていない。
(救急救命の場合を除く)
そのため、自分や家族の最期に関しても、
自然な死を迎えることを希望している。

ターミナル期を専門としてきた看護師として、
また自然療法を基本としたライフスタイルを実践する者として、
その両方からの知識をもとに、
人生の最期の在り方について、考えてみたい。

普通に口から食べられなくなったときにどうするか

本当のターミナル期になる前に、まだまだ元気だなと思う高齢者の人も含めて、一つの段階として、選択を迫られる状況が、
「今まで普通に食べてきた食事がうまく食べられなくなったとき」
にどうするか。
このときの選択が、
最期は病院に行くことになるか、最期まで住み慣れた自宅で過ごせるか、
を分ける重要な要素となる。

食べられなくなる状況として、
むせたり、誤嚥したりして食べられない、という状況が出てくる場合がある。
あるいは、むせこみがなくても、食欲が減退して体重が落ちてくる。
そんな状態だ。

この時に、ペースト状など食べやすい形態にする、ということに留まらず、
胃ろうという選択をしたり、点滴で栄養を入れる、という選択をする場合がある。

判断をあやまってしまいがちなケースとその理由

誤嚥はたびたびするけれど、それ以外の身体は話すことも含めてまったく元気、という人もいるので、そういう人の場合は「食べること以外は元気なんだからどうにかして栄養さえとれれば」と考えてしまい、胃ろうなど造設してドツボにはまってしまう、ということがある。

人間の身体は、自然な状態ならば、口から物が食べられなくなれば、自然に体の機能が全体的にだんだんと衰弱していって最期を迎えるものだと思うが、
胃ろうなどで栄養だけは簡単に摂れる状態となると、
極端な話、体もまったく動かすことができず、意識もほとんどない状態になっても、植物状態となって「生かされている」という状況となる。

この状態は人によって何年も続く場合があり、家族などが最初はよかれと思って始めた治療で、本人を苦しめることになる。

自分で自然に食べられなくなったら、食べられなくていい、という覚悟が必要

私は断食の趣味もあり、日頃から「食べないでいる」ということに慣れているから、普通の人よりも食べることに対しての執着がない。

定期的な断食だけではなくて、老後に向けて、年々食事の量は減らしていきたいと考えているし、できるだけ自然のものだけで質素にしていきたいとも思っている。

グルメでおいしいものを食べつくしたいという願望はなく、
それよりも、できるだけ食事量を減らして、病気のリスクをなくしたいし、
それこそ最期まで自活して自立した生活を送りたいという希望の方が強いので、食の楽しみはほどほどに考えている。

理想は極小食にし、最期まで五感もすべて正常なまま過ごすこと

私が理想としている晩年の過ごし方をしている人に、
ルイジ・コルナロという人がいます。
極小食を最期まで貫き、最晩年まで五感はすべて健康で過ごされた、
16世紀のイタリアに生きた男性です。

ルイジコルナロのような最期を迎えるためには、
胃ろうや点滴などで栄養を摂るなどということは言語道断であり、
そうではなくて、自然に食べられない状態になったら、
それを受け入れ、今の状態の身の丈で生活していくことではないでしょうか?

そして、極小食にしたり、節制をしていれば、
体自体も、健全な状態を長く保てると私は考えています。

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