見出し画像

日本人が知らない5000年の人類史

<初めに>
【世界の歴史が大きく分かる

自分,峯岸祐一郎は,2019年にイスラエルとパレスチナを視察した。
2019年は1月からアジア杯でUAE(アラブ首長国連邦)に1ヶ月,滞在し,ドバイとアブダビを中心に視察した。
そして6月から南米選手権(コパ・アメリカ)でブラジルに行き,1ヶ月,滞在して視察した。
このアジア杯と南米選手権の間にイスラエルとパレスチナとヨルダンとトルコを視察した。
とりわけイスラエル=パレスチナでは貴重な体験となった。
だから2019年は自分にとって濃密な年となった。
この視察後に日本人向けに世界史(人類史)の著作を書こうとしていた。
そして準備をしていた時にコロナ・パンデミックに見舞われた。
それから塩漬けされたままでいたが,今年(2023年)に入ってから,そろそろ本気で記しておかなければと掻き立てられた。
そして10月に入りイスラエル=パレスチナで大きな動きとなった。

昨年末(2022年末)カタールで開催されたW杯期間中のオフ(3日間)を利用し,隣国のサウジアラビアに行った。
1ヶ月のカタール滞在で世界中の人々と新たな交流を深めたが,とりわけホスト国カタール,サウジアラビア,イラン,UAE(アラブ首長国連邦)と,中東アラブ世界の人々と親密になった。
その中でport authority(港湾運営権者)のサウジアラビア人と出会い彼の自宅に招かれた。
凄く興味深い貴重な話しが聞けて,コチラが「サウジアラビアを視察したい」と伝えたら帯同してくれる事となり,来年(2024年)1月にカタールでアジア杯が開催されるため1ヶ月滞在するので,その後にサウジアラビアを視察する事になった。
昨年のカタールW杯ではQNB(カタール国立銀行)の職員やカタール投資庁(パリSGのオーナー)に招かれて歓待を受けたり,カタールW杯は中東アラブ世界と繋がりを築けた大収穫の大会となった。

2019年のイスラエルとパレスチナ視察で,人類史の大きな真実が見えた。
だから日本人が人類史の全体像を捕まえ,上から大きく概観できる事を目指して書き記した。
前回の投稿の「日本人は中東アラブ・イスラエル問題を大きく理解する為に人類史を勉強しなくてはいけない」を項目別に分けた補完となる。
自分,峯岸の世界史観は帝国と属国の関係が土台にある。
逆に言うと,この帝国・属国の理論で人類史を考察できている者が日本には居ないという事だ。
だから日本人は本当の真実の人類史を理解できていない。
人類史=世界史の5000年間は,世界各地に起ち上がった多数の小さな民族国家の興亡である。
そしてソレらを大きく束ねて支配した帝国の存在に行きつく。
帝国は隆盛してくる国家と世界覇権を争い激しく衝突する。
この構造体は5000年間,今も変わらない普遍である。
自分,峯岸は「世界は帝国-属国の関係を軸に動いている。日本はアメリカの属国である」と主張し続けて論陣を張ってきた。

1945年8月,日本は原爆を2つ落とされて敗戦した。
日本人は,この後の今に至る78年間を,金融・経済と軍事・外交の両面で,アメリカによる支配の下で生かされてきた。
今の日本国憲法の枠組を作る最高法規の上に米日安全保障条約(この条約の中に「米日地位協定」がある)という軍事条約がある“ため,改憲も護憲も意味なく虚しく響く。
この米日安全保障条約の中にある米日地位協定は,正しくは「米軍駐留条約」と言い,米日安全保障条約の付属条約である。
そして米日安全保障条約の中には「国連軍地位協定」という取り決めが隠されて存在する。
この隠された条約を元に横須賀,佐世保,横田,キャンプ座間,嘉手納など,日本の7ヶ所に米軍基地が配置されている。
この条約は1954年に日本抜きの主要国によるジュネーブ協定で制定された。
だから外務省に,この機密書類が存在しない。
このジュネーブ協定は朝鮮戦争の休戦協定後の,平和条約=戦争終結条約の交渉が決裂して出来た,欧米だけで作った東西冷戦の産物である。
だから日本人(日本政府)が国内でだけ憲法改正を議論しても,どうにもならないように出来ているのだ。
この事を知識人階級も含め日本人が理解できていない。
だから「緊急事態条項で日本人は人権が失くなる!」と,バカ丸出しで知能の低さを恥ずかしげもなく露呈している。
こんな反共思想を剥き出しにした政令など,日本国憲法の作成者であるアメリカ帝国の許可なく属国・日本(時の政権)如きが独断できない。
日本が自主独立した国家なら分かるが,日本はアメリカ帝国の属国である。
何が憲法改正だバカどもが,自惚れるな。
だから安倍晋三たち日本最大勢力(清和会)である国際勝共連合=統一教会=日本会議が躍起になっていた悲願の憲法改正が,いくら日本国内でだけ熱り立って自主憲法制定を叫んでも,どうにもならなかったのだ。
そしてアジアの反共勢力のボスであった安倍晋三は,同じMoonie(統一教会)であるアメリカの最高支配層たちの判断で「あの奇っ怪なカルト思想を持つ安倍を止めろ,もう目障りだ」となり殺されたのだ。
このようにMoonieが内部分裂して一枚岩でなくなっている。
アメリカ帝国が瓦解しているからだ。
上(欧米)が崩れれば波及効果で下(日本)も崩れる。
だから日本では統一教会の解散命令請求が出たのだ。

日本はアメリカの支配の前は,幕末期に大英帝国(イギリス)の属国として支配を受けた。
その前は後漢帝国の時から長らく中国の歴代王朝に服属し,朝貢国(属国)だった。
前述したとおり人類史の5000年間は世界各地に起ち上がった多数の小さな民族国家=国民の興亡である。
そしてソレらを,やがて大きく束ねて支配した帝国の存在に行きつく。
帝国は別の大国と世界覇権を争い激しく衝突する。
この構造体は2023年の現代も全く変わらない。
日本はアメリカの支配の前は幕末・明治以来,隠れるようにして大英帝国(イギリス)の支配を受けた。
その前は長く中国の歴代王朝に服属し(後漢帝国の時から),朝貢国(属国)であった。
今の日本の支配階級層は,この事実に触れられると凄く嫌がる。
自身らがアメリカに上から大きく抑えつけられている事実を国民に知られたくないのだ。
国内では権力者として偉そうに国民を下に見ているくせに,外では強大な最高支配層にペコペコしている事を国民に知られたくない。

属国論とは帝国と属国の関係が人類史を貫いているという事である。
帝国の周りを取り囲むように属国がある。
一国の支配者を王と言い,日本は帝国ではないため天皇も王に過ぎない。
nationalist(ナショナリスト)とはバカ右翼どもが言う「俺は愛国者のナショナリストだ」という履き違えと違い,帝国と厳しい交渉の駆け引きをする属国の王(民族指導者)の事である。
だから今の岸田文雄もナショナリストではなく,ただの傀儡の置き物だ。

日本は1世紀の中国の漢の時代から歴代の王朝(皇帝)に服従してきた。
帝国は属国に対し毎年の要求項目,つまり年貢(貢納金)の提出と,軍事,兵役を課す。
この事さえ従って言う事を聞けば,あとは放っておく。
歴史事実で例えると,元寇という形で1274年と1281年にモンゴル軍が日本に攻めてきた。
この時モンゴル人以外で実際に攻めてきたのは,モンゴル軍に占領された高麗の朝鮮人たちと中国の南宋軍たちである。
彼らは使い捨ての兵隊だ。
日本遠征の名を借りて北九州の海に捨てられた。
10万人,20万人の大軍を捨てた。
モンゴルが漢民族(中国)に勝った後,軍事力が余っていた。
彼らを放っておくと反乱を起こすため,それなら潰してしまえという考えだ。

1991年の湾岸戦争の時に40数ヶ国がアメリカの出兵命令(形式上は国連安保理の決議)で兵士を出した。
日本はATMなのでカネだけ出した。
「我が国は不戦の憲法がありまして兵隊は出せません」と,日本に来た国連事務総長のブトロス・ガリに説明した。
2003年のイラク侵略戦争の時は形だけイラクのサマーワという都市に自衛隊を600人ほど出した。
この事は幕末の1866年の第2次長州征伐(金=ゴールドの海外流出が原因)の時の各藩の態度と全く一緒だ。
「ウチは250人出します」とか,藩の力に応じて人数まで決まっていた。
しかし誰もが嫌だから実際に長州藩との戦いになったら逃げてしまった。
「バカらしくて殺し合いなんかしてらんねえよ」だ。
この年に徳川家茂(第14代将軍。享年20)と孝明天皇(第121代天皇。享年35)が暗殺された。
日本の最高権力者2人が相次いで殺された。
誰に?
なぜ?
日本の歴史学者たちは恐れてココに誰も踏み込まない。
犯人は当時の世界覇権国の大英帝国(イギリス)だ。
自分,峯岸祐一郎が,この幕末の地獄の釜の蓋を開けた。

このような帝国・属国の構造は人類史の,あらゆる時代,あらゆる地域にあり,大きな世界政治の骨組は必ず帝国・属国の関係で形成されている。
この現実を見ないよう触れずに避けてきたのが,この2000年間の日本の歴史である。
だから学者たちにも大きな責任がある。
何が「日本は天皇が居る帝国だ」だバカどもが。
属国の王は,ただの王で皇帝ではない。
世界基準では子供ですら分かる事を日本人は大人でも理解できていない。
日本は中国の歴代王朝(帝国)という東アジア覇権国の周辺属国の1つでしかない。
その後,日本は大英帝国,アメリカ帝国に服属して今に至る。
この明白で大きな真実を日本人は認識できない。

ロマノフ王朝(ロシア帝国)の積極的な領土拡大方針である南下政策に対し,大英帝国(イギリス)が東アジアにも防波堤を作りたかった。
大英帝国とロマノフ王朝は,他の地域でもトルコやイランやチベットやインドやアフガニスタンで奪り合いをしている。
ロマノフ王朝の南下を阻止する事が大英帝国の戦略だった。
地政学という学問でユーラシア大陸全体をハートランド(中心圏)と呼び,ソレに対抗するリムランド(端の圏)という大きな考えがある。
ハートランドに対抗して,ユーラシア大陸のリムランド(へり,ふち)を海洋国家である大英帝国の海軍の軍事力と物資輸送ラインを使って封じ込める戦略の一環だった。
ココに日本は組み込まれた。
だから1904年〜5年に大英帝国に仕組まれて日露戦争をヤラされたのだ。
そうやってロマノフ王朝の南下を防いだ。
幕末期にイギリスとロシアが日本を巡って奪い合いをしたのは,当時の産業革命の技術革新で最新のデリバリー・システム,すなわち蒸気船が出来て輸送手段が飛躍的に発達したからでもある。

日本人には事実を大きく解明する事が大切である。
日本国内は未だに「日本すげぇ!」「日本人は世界一の民族だ!」と言ってるバカで溢れているが,こういう右翼言論は劣等感の裏返しである。
そうではなく冷静に事実を知り,謎を解明し,大きな真実を知る事だ。
表に出ている虚飾された現象ではなく,その裏に隠されている大きな真実を抉り出す事だ。
この事を自覚していれば対策は幾らでも立てられる。
簡単に言えば「欺されないぞ」と身構える事だ。
貴方の勤め先の会社の経営者が朝礼で「皆で会社の繁栄の為に頑張って働こう!」と言っても,冷静に現実を自覚していれば「嘘言えバカ野郎!オマエの為だろ!」と言える社員になれるかなれないかだ。
賢い者は過労死で死なずに対策を立てて生きていけるが,バカ正直者(頭が悪い者=欺されて都合よく使われてしまう者)は,たかだか月給3〜40万円の為に頑張ってしまう。
冷静に現実が見える者は体制側(支配層)に手懐けられないため,好き勝手に外側の力(宗教でも勢力でも)に踊らされる事はない。
ココが重要である。
戦後78年,日本人は自身が属国民である事を自覚しないままココまで来た。
アメリカ帝国の周到な日本人への洗脳は見事だった。
驚く程の長期計画である。
日本人は自国が属国であると認識すれば様々な事が見えてくる。
自分,峯岸は,そうやって自分自身で解けなかった問題が解けた事が多数ある。
「私は支配されている」と認めたくないのは分かる。
だが「日本は属国である」と現実をハッキリ自覚する事は,物事を考える時の良いツールになる。
大事な事なので繰り返すが,この事を自覚していれば欺されて操られる事はない。
日本人の99%が脳をヤラれ現実(真実)を見れない現状は,この自覚が無いからだ。
日本が属国である事を悲観するのではなく,対策を立て欺される事なく(イイように使われる事なく)真実を見抜く。
この姿勢を確立する事で日本国民は自らの頭脳,知能をクリアにする事が出来る。

自分,峯岸は,昨年(2022年)のカタールW杯も含め,中東アラブ世界を視察し,世界3大宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)に触れ,日本(史)から離れ,もっと大きく人類史について日本人に本気で教え伝えなければならない思いに駆られた。
峯岸祐一郎の人類史観として人類を貫く法則は3つある。

①食べさせてくれの法則。
50万人ぐらいの人々が「私たちを食べさせてくれ」と切望する。
すると「よし,俺が食べさせてやる」と,企業経営者や暴力団の大親分のような者が現れる。
そして,この者による統治と支配が行われる。
コレが国王である。
貴方の会社(勤め先)での経営者と従業員の関係もコレだ。
「私たち家族が生きていく給料さえ払ってくれれば,貴方の言う事を聞いて奴隷になって働きます」だ。

②遊牧民が北方の大草原からドド〜っと攻め下る。
そして低地(平地)に住む定住民(農耕民)の国へ侵入して占領支配する。
50万頭ぐらいの馬や羊を引き連れ,このドド〜っと攻め下る遊牧民(騎馬隊)が人類史を創ったのだ。
中国の歴代王朝は,このようにして北方,あるいは西方からの異民族である遊牧民たちによって創られた。
日本は,この2000年間,中国文明(黄河,長江文明。漢字の文明)の一部である。
この真実を言うと,知能の低い反共のバカどもが嫌悪を露わにする (笑)
中央アジアも中東も西洋も,こうして遊牧民たちがドド〜っと攻め下って創られた。
この時代は16世紀(1500年代)から海の時代(大航海時代)が来て終わった。
1497年にヴァスコ・ダ・ガマが南アフリカの希望峰を回ってインドに到着した。
この時に東方貿易(東方航海路)が開かれ,西洋(欧州)が海運の力でアジアにドッと入ってきた。
それからの500年間は沿海部の経済が内陸を圧倒した。
だが2000年代に入り内陸部が急速に発達し出した。
ソレは中国の世界戦略である一帯一路が始動したからだ。
中国の重慶(北京,上海,天津と並ぶ4直轄都市)から広大なタクラマカン砂漠(タリム盆地)の新疆ウイグル自治区まで高速道路が幾重にも繋がり交通網が完成されている。
そしてココから国境を接する中央アジア5ヶ国へと繋がり,ソコからアフガニスタンやイランの山岳地帯を縫うように交通網が敷かれている。
更にトルコを経由して欧州とアフリカ大陸まで繋がっている。
まさに中国による世界帝国の道(一帯一路)の建設である。
そして,この海の時代の欧州近代思想500年の歴史が遂に終わったのだ。
だから西欧近代(モダン)と言ってみても,たかだか500年に過ぎない。

③熱狂が人類史を創る。
ドカ〜ン!と激しく熱狂が産まれ,人々が幻想に取り憑かれて熱狂,熱病に罹る。
この熱狂は地域(大陸)を越えて急速に拡大する。
コレが宗教である。
世界5大宗教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教,仏教,儒教)だ。
人々は救済と理想社会の顕現(実現)を求めて熱狂に取り憑かれる。
コレで大きな対外戦争が起きる。
その後,人間の救済は無く,大きな幻滅が襲って来る。
人間は,この大きな幻滅の中で,のたうち回って苦しむ。
20世紀に現れた共産主義(社会主義)という貧困者救済の思想も熱狂である。
この共産主義(社会主義)を恐れ,反発して産まれたのが反共思想だ。
コレも熱狂の亜種である。

これから解説する事で何を以って今の日本人に人類史の大きな理解を示せるか。
更に日本人が学校教育で受けてきた歴史認識が幾つも大きく覆されるか。
この点に主眼を置く。
この投稿のタイトルを『日本人が知らない5000年の人類史』と銘打ったのは,これまで日本人が教育機関(小学校〜大学)で教えられてきた諸々の歴史が,嘘の塗り替えられた歴史だと大きく炙り出されるからだ。
この自分,峯岸の投稿を読めば,ただの宣伝文句,虚仮威しなどではないと分かる。
戦後78年間,停滞し続けてきた日本人の人類史理解が大きく前進する。
そのように自分,峯岸は断言する。
これまで日本人に嘘の人類史を教え続けてきた日本の最高支配層,御用学者どもへの,自分,峯岸祐一郎からの宣戦布告である。
80年間も世界基準の知識と情報を遮断され続けてきた日本人が「まさか!」と唸る程の人類史の諸事実が詰め込まれている。
これから我々は新たなる最先端の人類史の道を歩んでいかなければならない。
その突破口として,この自分,峯岸の投稿が国民的知識の共通土台となるだろう。

峯岸祐一郎





第1章
<峯岸祐一郎が伝える人類史の新発見>

◆捏造された旧約聖書と人類を不幸にした一神教◆

【捏造された旧約聖書 -アブラハムは存在しない-】

出エジプトより1200年遡った紀元前2371年に,古バビロニアにアッカド帝国のサルゴン1世という大王が現れる。
日本人は教育機関による世界史の授業で,このアッカド帝国によってアッカド人という民族が居たかのように教えられる。
だが場所は,まさしくバビロニアである。
だからアッカド帝国(500年間ぐらい続いた)は古バビロニア帝国の一種,一部である。
コレよりもサルゴン1世から600年後に現れるハンムラビ大王の方が重要である。
貴方もユダヤ民族の祖であるとされるアブラハムという名を聞いた事があるだろう。
実は,“このハンムラビ大王がアブラハムのモデルである”
旧約聖書(モーセ5書)の第1巻の「創世記」の後半の主役で,ユダヤ民族の始祖とされるアブラハムである。
このアブラハムがバビロニアから移住してきてエジプトにも行き,そしてイスラエル=パレスチナに戻って定住したという,行ったり来たりの奇妙な作り話しを「創世記」で作った。
この話しは,この後(紀元前1700年代から500年後)の紀元前1200年代にモーセがエジプトから仲間の農民たちを率いてイスラエル=パレスチナを目指して出エジプトする話しに無理やり繋げる為である。
旧約聖書(モーセ5書)の話しの筋道,すなわちユダヤ民族の血統の話しを創作する為に作った虚偽の話しである。
だからアブラハムと子のイサクとイサクの子のヤコブ(ユダヤ12支族の父とされる),そして11番目の息子ヨハネの4代に亘る話しは,モーセの存在に話しを繋げる為の後世の作り話しである。
モーセたちは元々エジプト人であり,他の移民(ペリシテ人)と全く同じくエジプトからの開拓農民で,屯田兵として来た者たちである。
特別,高貴でも何でもない。
エジプト新王国 第19代国王のラムセス2世(100歳まで生きた大王)に「オマエたちは向こう(カナーンの地=今のイスラエル=パレスチナ)に良い土地があるから移住しなさい」と,支度金まで貰って移民していった人々だ。
ところがモーセたちは,この途中で驚く程の神懸り現象を見せた。
自身らは神ヤハウェ(エホバ)によって特別に選ばれた人間たちだと信じ込んだ。
”こうしてユダヤ人を発明した“
だからモーセ5書の初巻「創世記」の後半のアブラハムからの創作に自分,峯岸はシラける。
アブラハムなど存在しない。
この事を欧米の知識人階級の者たちは本当は知っている。
分かって勘づいているのに誰もハッキリ言わない。
欧米の学者は経済の論文は積極的に書くくせに宗教の事となると意識的に避けて口を噤む。
彼らはサイエンティスト(近代学問主義者)であるから事実に従うべきなのに,ヴァチカン(ローマ・カトリック教会)からの監視が今もキツいため,この大権威に盲目的に隷従する。
コレが欧米の知識人階級である学者たちの正体(本当の姿)だ。

因みに日本にはヴァチカン(ローマ教皇庁)から2名の特別体制で御養育係(監視員)が皇室と文部科学省へ派遣されている。
だから歴史の真実は表に出ない。
アメリカのハーバード大学のプロテスタント系ユニテリアンの教授たちでも明言しない。
同じくローマ教会の虎の威があるからだ。


◆チュルク人の大移動が人類史を創った◆

【大平原の民,チュルク人の西方大移動】

5000年前に始まった人類の2大文明はエジプトとメソポタミアである。
紀元前3000年には大草原の民の始まりであるスキタイ(シュキタイ)人が居た。
スキタイ人が北の大平原を裸馬(馬具のない馬。蹄鉄も無い)に乗って駆けていた。
スキタイ人が最も古い遊牧民で集団戦法もする騎馬隊があった。
東方のモンゴル平原から西方のカスピ海,黒海北部一帯にまでスキタイ人が居た。
しかしスキタイ人には文字が無く遺跡も殆ど遺していない。
このスキタイ人がメソポタミア(今のイラク北部)に興った文明以前(紀元前5000年)のシュメール人と戦ったりしている。
シュメール人は7000年ぐらい前から居るが,まだ氏族社会(血縁共同体)であって多くても1000人ぐらいの集落である。
灌漑の施設も無く古代都市とは呼べない。
この後バビロンにウルやウルクやスサなど古代都市が生まれた。
コレがシュメール人によるメソポタミア文明の始まりである。
北方の大草原のスキタイ人が消え,紀元前1000年ぐらいから後の中国の北方異民族である突厥(とっけつ),契丹(きったん),ウイグルなどのトルコ系の遊牧民に変わる。
世界史学者が彼らをチュルク人と呼ぶようになった。
だからユーラシア大陸の北方の大平原の人々は,このトルコ系のチュルク人である。
最初に有名なフン人(匈奴)が現れた。
日本では匈奴(きょうど)と呼んで教えるからダメなのだ。
中国語で匈奴(xiong nu=ション・ヌー)と言う。
このように覚えなくてはいけない。
この匈奴(xiong nu)が西洋の北の大平原にも現れた。
紀元前500年ぐらいには西方への大移動があった。
今のロシアのウラル山脈や,その南のコーカサス地方にまで匈奴(xiong nu)が拡大,膨張した。
彼らがゴート族(ゲルマン語族の一つとされる)を圧迫したため,375年(ローマ帝国の時代)にゴート族が大挙してドナウ川を越えた。
何十万人かが命懸けで川を渡って来た。
ローマ帝国の駐屯地の軍人たちは,このゴート族の渡河を押し止める事が出来なかった。
この375年からをゲルマン民族の大移動と言う。
しかし本当は他の諸族も居て,もっと前からゾロゾロと移動している。
ドナウ川を遡るとハンガリーのブダペスト,更に200km遡るとオーストリアの帝都ウィーンに至る。
更に遡るとライン川に近づき,ココで2つの大河の上流は幾つもの運河で繋がっている。
ローマ帝国(共和国でもあり続けた)の領土は,このドナウ川とライン川(殆どがドイツとフランスの国境)を結ぶ線から南である。
コレを日本人は「ゲルマン民族の大移動」と習う。
だがゲルマン族の中心のフランク族は元々,今の北ドイツやガリア(フランス)に居た。
だから民族大移動などしていない。
ソレ以外のチュルク人(トルコ系),アヴァール族(柔然)たちが移動してきた。
もっと先住民のガリア人(今のフランス人)はゴール人であり,ケルト族(ルーン文字という絵文字を持つ)の一種とされる。
375年のゲルマン民族の大移動の遥か前から,遊牧民がトラキア(今のブルガリア)やダキア,ダルマチアなどに居た。
ソレを何人,何族と呼ぶかは,見つかった遺跡と帝国だったローマ側の文献の中の呼び名から決められただけだ。
紀元前500年,欧州にまで来て広がったフン人(匈奴=xiong nu)はトルコ系(チュルク人)である。
だから後のアジア東部の大平原の突厥,契丹,ウイグルなどと同じだ。
更に後の1200年からのモンゴル人もチュルク系である。
韃靼人(タタール人)も満州人もチュルク系である。


【東ローマ帝国の周りで生きてきた遊牧民,チュルク人】

ココで大問題となるハザール人が出現する。
500年〜1000年までの500年間,今のウクライナのカスピ海と黒海の沿岸部でハザール王国を創り,彼らハザール人はユダヤ教(ただしモーセ5書のみ。戒律書を嫌った)に改宗して740年に自身らの国教にした。
このハザール人が今のアシュケナージ・ユダヤ人である。
ベンジャミン・フルフォード氏が言う「ハザール・マフィア」は,このユダヤ教に改宗したハザール人の末裔(アシュケナージ・ユダヤ人)の事だ。
今のイスラエル人の9割は1880年ぐらいからイスラエルに移り住んできた,このアシュケナージ・ユダヤ人の血筋である。
この事を公然の秘密にしたまま今の人類史(学)は出来ている。
ハザール人もチュルク人で,その弟分がマジャール人(元はフン人=匈奴)で,今のハンガリーに移動して定住した。
マジャール人はフン人の一部族から始まった。
だから彼らもチュルク人である。
ハザール人=チュルク人の,もう一つの弟分(朝貢していた)がスラブ人である。
北スラブ族の結集体が今のポーランド人で,スラブ人という白人種だ。
ハザール人の更に,もう一つの弟分であるブルガール人(ブルガン人。今のブルガリア人)もチュルクである。
だからコレら遊牧民はスラブ人を除いてが極東(東アジア)から来たチュルクである。
北欧のフィンランドも”フンランド“である。
チュルク系は全て赤ちゃんの時に蒙古斑の青いアザがある。
400年代から後はコンスタンティノープルを帝都とする東ローマ(ビザンツ)帝国の周りで1400年代まで1000年間を遊牧民として生きてきた。
このイメージで大きく人類史を見るといい。

ビザンティウム(ビザンツ)は元々ブルガール人の町だった。
ビザンティウムは300年にコンスタンティヌス帝が占領して330年に東ローマ帝国を移した。
それから1100年後の1453年にコンスタンティノープルが陥落し,最後の皇帝コンスタンティノス11世が壮絶に戦って亡くなりビザンツ帝国は消えた。
勝者はオスマン・トルコ帝国のメフメト2世である。
この後スレイマン大帝が出てくる。
つまり遊牧民は全て大きくはトルコ系(チュルク人)である。
イラン高原と北の中央アジアに入って来たのもチュルク人である。
この後1200年から興ったモンゴル帝国(1206年にチンギス・ハーンがクリルタイ大会議でカーン=大可汗=皇帝になった)が,その30年後には西洋まで攻めてくる。
1241年のポーランドでのワールシュタットの戦いだ。
モンゴル帝国はソレ以上は西欧を攻め奪らなかった。
このモンゴル帝国を創ったのもチュルク人である。
元は突厥(とっけつ),ウイグル族である。
日本人はモンゴル族という民族がいるかのように信じ込むから人類史の大きな理解に到達しないのだ。
思考がバラバラになる。
◯◯族,〇〇系,〇〇人と,細かい分類にハマって訳が分からなくなる。
これが人類史(学)の罠だ。
人類史を勉強する事の混乱と困難の原因だ。
だから自分,峯岸が常に言っているとおり,物事は日本を中心に見るのではなく,日本を取り囲む地域という単位で見て,この地域を従える超大国(世界覇権国),大陸を中心に最上から大きく概観する事で人類史を理解する事が出来る。
日本人は戦後78年間,敗戦国(属国)民として檻の中に閉じ込められたままでいるため,この思考が出来ない。


【中国の歴代王朝もチュルク人が創った】

モンゴル帝国は匈奴(xiong nu),突厥(とっけつ),契丹(遼),ウイグルなど,チュルク人系が混血して統合された帝国に過ぎない。
モンゴル語の元の文字はウイグル語(文字)である。
今のトルコが大切にして国宝にしている四角い石柱の石碑が一本ある。
この石碑にココでトルコ系の先祖が始まった事実が刻み込まれている。
この石碑の現物はトルコの首都アンカラにある。
そのレプリカが飾ってあるのがキヨルテギン石碑(突厥碑)と言い,今のモンゴルにある。
ウランバートルから西へ200km,かつてのモンゴル帝国の首都だったカラコルムの近くである。
この第2チュルク帝国(突厥)の英雄(ビルケ・ハーン王の弟)キヨルテギンの死(731年)を刻んだ石碑だ。
この碑文をオスマン・トルコ帝国も大切にして自身らの起源であるとした。
だから中国の歴代王朝をも突厥,契丹(遼),ウイグルのチュルク人が,北や西の方から襲い掛かって建国した。
この事が理解できると紀元前2000年の夏(か)の国を入れて4000年の中国史も分かる。
紀元前221年に中国で最初の帝国が創られ,初代皇帝,始皇帝となったのは秦の王の趙政(zhao zheng)である。
自分,峯岸は,この秦の始皇帝は西方から来たヒッタイト(紀元前1700年〜紀元前1200年)系だと見ている。
2010年に陝西省の西安を視察した際,秦居の兵馬傭を見に行った。
粘土の精巧な兵士たちの像を見て,彼らがヒッタイトだと鋭く感じた。
鉄製の車軸と鉄器を持っていたからだ。
この事を2019年に清華大学(習近平の母校)で講演した時に話したら,聴衆の学生の表情が変わった。
講演後,招いてくれた人文学院・歴史学系の教授が「貴方は本当に日本人ですか?」と,笑いながら問いかけてきた。

北魏という337年に興った国(慕容皝が主となる)は,鮮卑(族)の拓跋氏(たくばつし)というチュルク人が創った国である。
正確には386年に東晋帝国から自立して398年に北魏帝国となった。
北魏は倭人(日本)の朝貢を受けていない。
今の上海の辺り(呉の国)に当時は宋という帝国があった。
この宋は900年代からの宋とは違う。
そして600年代からの隋,唐の王朝も遊牧民,すなわちチュルク系である。
清華大学で講演した際,前出の教授が「五胡十六国のうちの羌(きょう)が創った」と言っていた。
大きくは鮮卑族の一部族だ。


【中央アジア史を大きく理解する】

ココで再度,整理する。
スキタイ人は紀元前600年(紀元前7世紀)には消滅した。
大平原に紀元前200年頃からフン人(匈奴=xiong nu)が出現し,紀元後300年代にカスピ海,黒海の沿岸に出現した。
コレに脅えた先住のゴート族やアヴァール族(中国では柔然)がドナウ川を越えてローマ帝国領に入り込んできた。
フン人は紀元後50年頃には中国の北部の大平原から消え,そして今のハンガリーに現れた。
この後,突厥(とっけつ),契丹(きったん),ウイグルらトルコ系(チュルク人)の遊牧民が現れる。
鮮卑族を中心とした彼らが紀元後300年代の中国で「五胡十六国」と呼ばれ,168年に草原の民を大きく統一した。
だから400年代に鮮卑が北魏(建国386年)を創った。
次の600年代には,隋,唐の王朝が羌(qiang=きょう)と呼ばれる今のチベットあたりの人々によって創られた。
全てチュルク人(トルコ系)である。
唐の時代に吐蕃(tu bo=とばん)と呼ばれチベット人が唯一で強かった時がある。
763年に安禄山(史思明)の乱の最後の年に吐蕃(チベット)が王朝の都である長安(今の陝西省の西安)に攻め込んでいる。
突厥(552年建国)が出来るよりも前に匈奴(xiong nu)のアッティラ大王は436年から中央欧州の草原一帯を支配した。
このアッティラ王からマジャール族(今のハンガリー人)が出てきた。
だからマジャール人もトルコ系のチュルク人である。
マジャールはハザール王国の弟分でハザール王国に朝貢していた。
このハザール王国が740年ごろにユダヤ教(モーセ5書)に改宗して国教にした。
ハザール王国は東ローマ帝国の弟分であり,834年にドン川とヴォルガ川が接する辺りに重要なサルケル砦を帝国の資金で建造してもらった。
ココが第2次世界大戦内のソ連vsナチス・ドイツの攻防戦の地であるスターリングラード(今のヴォルゴグラード)である。
そう,2018年のロシアW杯のグループ・ステージ第3戦のポーランド戦の決戦地ヴォルゴグラードだ。
日本人なら忘れられない,あの「ヴォルゴグラードの憂鬱」(2018年6月28日)である。

サルケル砦を建造した130年後の965年にハザール王国は北からのノルマン人の攻撃で弱体化して陥落した。
この時にハザール人は東欧を中心にアメリカやイスラエルにも移住してユダヤ教に改宗した。
彼らがアシュケナージ・ユダヤ人である。
彼らはアブラハムの孫のヤコブが生んだ12人の息子(12支族)とは無関係である。
コレがアーサー・ケストラーの大著『The Thirteenth Tribe』(1976年 刊。日本語版は『ユダヤ人とは誰か』)の第13支族,13番目の支族である。
だから東欧やアメリカから「私の先祖の地はユダ国だ」と,イスラエルに移住(自身らでは帰還と呼ぶ)してきた人々はセム族ではない。
今の日本人に分かりやすく説明するならば,アメリカで映画女優として活動しているイスラエル出身のナタリー・ポートマンがそうだ。
彼女はインタビューで「私はアメリカを愛しているけど,気持ちはエルサレムにある。ソコが本当の家だと思っているから」と答えている。


【ゲルマン民族を嫌った皇帝と教皇】

東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルは,元々はビザンツという町があり,現住民のブルガール人(今のブルガリア人)の町だった地をコンスタンティヌス帝が占領して遷都した。
だから欧米人が「東ローマ帝国」と呼んだり「ビザンツ帝国」と呼んだりする。
彼らも呼び名で困っているのだ。
事件や時代の呼び名を決める事は歴史学者たちにとって難しい。
例えばフランス革命だって産業革命だって「そんなの無かった」と言えば無かった。
395年に「ローマ帝国は東ローマ帝国,西ローマ帝国に分裂した」と世界史で教える。
53代テオドシウス帝(在位379年〜395年)の時だ。
彼が380年にキリスト教を国教にすると決めた。
東ローマ帝国,西ローマ帝国などと説明するから複雑になるのだ。
真実は,この後395年に西ローマ帝国は滅んでいる。
ゲルマン諸族ではない蛮族(ヴァンダル族)が次々とローマにまで襲い掛かってくるものだから,ローマ帝国は彼らに和解金(なだめすかし代)を払うのに困ってしまった。
200年代にはゲルマン諸族の暴力団のような傭兵隊たちをローマ帝国は雇っていた。
彼らが暴れ出すので既に潰れかかっていた。
正式に西ローマ帝国が滅んだのは476年という事になっているが,300年代には既に死に体だった。
その中でローマ・カトリック教会だけが荒廃した中で頑張って存在した。
そしてゲルマン諸族や蛮族(突厥,ウイグル族などのトルコ系チュルク人の遊牧民)の族長たちを折伏して,キリスト教という有り難い光輝く人間救済の思想を下げ渡し,教え込み,教化,洗脳,帰依させていった。
ゲルマンの王たちはカトリックの狡猾なヤリ口を,よく分かっていたが,見かけが自身らより立派だから従った。
大きく言えばゲルマン族からフランク王国(今のドイツとフランス)という国が出来たという事である。
ソレを正統で継いだのがハプスブルク家だ。
1400年代からの神聖ローマ帝国のハプスブルク家のウィーンの皇帝たちは,ヴァチカン(ローマ・カトリック教会)が1800年代になっても嫌いだった。
ウィーン(ハプスブルク家)とローマ・カトリック教会は,ずっと折り合わず仲が悪い。
この皇帝とローマ教皇の対立という欧州1500年間を貫く大きな真実を日本人は理解していない。


【マイモニデスとカバラー神秘主義】

1100年代のアラビア世界で最高の知識人だったヨーゼフ・マイモニデス(モーシエ・ベン=マイモーン)は,ユダヤ人のラビでありながらイスラム教の法学者でもある奇妙な思想家だ。
『迷える者たちへの導きの書』(1190年)を書いて欧州まで名が轟いた。
この大著は欧州近代を準備して育てた重要な保育器思想である。
マイモニデス(1135年〜1204年)は,当時のユダヤ商人,イスラム商人,キリスト教商人の3者に凄く尊敬された。
「人間がカネ儲けする事を神(ヤハウェ,アッラー,イエス,この3神は同一神)は嫌っていない。認めている」という思想を表明した。
イスラム教の戒律書の再解釈(簡素化)によってコレを達成した。
営利活動=カネ儲け(この別名がratio=合理とreason=理性)を肯定した事で,ユダヤ人,アラビア人,西洋白人たちから深く尊敬された。
マイモニデスが守らなければならない戒律を大きく軽減してくれた事が凄く有り難かった。
だが直ぐにマイモニデスの『迷える者たちへの導きの書』への激しい反発が起きた。
ソレがカバラー神秘主義の思想である。
コレを反マイモニデス事件(1204年)と言い,ココからcabalism(カバリズム)という世界最大の神秘主義の運動が始まった。
『バヒルの書』『ゾハルの書』というcabalism(神秘主義)の経典は,マイモニデスのカネ儲け肯定に強く反対して人類に沸き起こった反マイモニデス書である。


【全ては幻想の共同体】

今回の投稿の大きな結論は,全ては幻想の共同体という事である。
この主張は前回の投稿「日本人は中東アラブ・イスラエル問題を大きく理解する為に人類史を勉強しなくてはいけない」の最後の方で述べた,ベネディクト・アンダーソンの大著『Imagined Communities』(1983年刊。日本語版は『想像の共同体』)の主張であり,この彼の書いた書名のとおりである。
ベネディクト・アンダーソンは中国の雲南省の昆明で産まれたイギリス人で,父は蔣介石(jiang jie shi)の国民党に雇われていた税関職員である。
少年時代に日本軍が攻めてきてアメリカに逃れた。
ベネディクト・アンダーソンの『Imagined Communities』が凄い重要な大著である事を日本の知識人階級の学者たちは知っているのだが,彼らでも,この著作が,どうズバ抜けて大著なのかが分からない。
同じく前回の投稿で『Imagined Communities』と並べて載せたシュロモー・サンドの大著『The Invention of the Jewish People』(2008年刊。日本語版は『ユダヤ人の起源』)と同じく,表紙に真実が書いてあるのに分からない。
日本の知識人階級の学者と言っても,この程度だ。
だから自分,峯岸が分かりやすく,学生が読んでも理解できるようにズバリと真実を書いて日本の読書人層(この長文を読んで自身の頭に落とし込む事が出来る日本人は,なんと3%=300万人しかいない)に教えるしかない。
自分,峯岸がズバリと大きな真実を書いて教えないと日本人は誰も分からない。

ベネディクト・アンダーソンは何を言いたかったのか。
民族とか国民とか国民国家とか人種とか言うが,どの民族も人種も長い歴史の中で混血して混ざり合っている。
大まかに,なんとなくしか民族の違いは区別がつかない。
あとは言語と文化の違い程度だ。
だから「我が民族は古い歴史のある優秀な民族だ」と,強がりを言う者は劣等感の裏返しである。
その理由は超大国(帝国=世界覇権国)に支配され,服従させられた事への恨みと反発から来ている。
コレがベネディクト・アンダーソンの主張だ。
だからImagined Communitiesであり,全ては幻想の共同体という事だ。
そして,この後ココで大宗教の果たす役割が重要となる。
例えばイスラム教徒は「クルアーン」という聖典をアラビア語で読む事でアラブ人となる。
そしてイスラム教徒として世界中で団結する。
ココに強い幻想の共同体が成立する。
コレを「ウンマ・イスラミア」(イスラム共同体)と言う。
「イスラム帝国」と言い換えてもいい。
西は北アフリカのモロッコから東は東南アジアのインドネシアまで,イスラム教(アラビア語)の幻想の共同体が出来ているという事だ。
その次に「ユダヤ人は民族でも人種でもない。ユダヤ人とはユダヤ人の母親から産まれた者(母系社会),あるいはイスラエル移民法で認めるユタヤ教徒である事だ」となる。
だが真実は,ユダヤ人とは旧約聖書(モーセ5書)によって強く団結する民族優越思想(選民思想)を持つ者たちの幻想の共同体なのだ。
実はEU(欧州連合。本当は欧州同盟)とは「キリスト教圏で欧州人はクリスチャンである白人たちの連合体」という意味である。
この真実を欧州人たちは大っぴらには言いたがらない。
人種・宗教差別だという事がバレてしまうからだ。
同一民族や国民という言葉は1820年代に産まれて世界中で使われるようになった。
ソレ以前は無かったとベネディクト・アンダーソンが『Imagined Communities』で書いている。
以下に日本語版の記述を転載する。

またわたしは、このとき、新興国民がいかにして、なぜ、みずからを、ずっとむかしからあるものと想像するのか、これについて明快な説明をこれまでしていいことにも気づいた。「そしてこうしてみれば」多くの学問的著作においてマキアヴェリ的ペテン、あるいはブルジョワ的空想、あるいは冷厳な歴史的事実として登場することが、実はもっと奥深く、もっと興味深いものだということもわかってきた。
「むかしむかしからある」と考えることは、歴史のある時点における「新しさ」の必然的結果だったのだ。ナショナリズムという意識のあり方が、わたしが考えてきた、それまでとは根底的に変わってしまった。そういうあえて新しい意識のかたちを表現したものであるから、過去との断絶の自覚である。そして自然に起きる古い意識の忘却。これがそれ自体の物語を創出するのだ。こうした角度から、一八二〇年代以降に諸国で見られる国民主義思想に特徴的な、先祖返りの空想はその随伴現象だといえる。
つまり、本当に重要なことは、一八二〇年代以降の国民主義の「記憶」を意図的に近代的な伝記・自伝につくり変える構造調整だったのである。

ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』P14〜15

ベネディクト・アンダーソンは「アンティーク」という言葉を使い,何処の国も自国を古い歴史のある優等民族の国と言いたいと解明している。
そしてソレは新奇さの裏返しだと。
まさしく日本もコレである。
今も『日本書紀』と『古事記』を使って,このハッタリ劇をヤッている。
1820年代は欧州の先進地帯でフランス革命(1789年)の中から産まれた軍人の独裁者で,本物の欧州皇帝(ただし一代限り)になったナポレオンが失脚した頃だ。
国民国家とは「フランス人が居るところ」という意味であり,その時エジプトのアレキサンドリアに3000人のフランス人が住んでいたら,ソコもフランスの国民国家となる。
この理屈,理論だ。

アラブ人とユダヤ人は自身らの聖典(啓典)であるモーセ5書やクルアーン(コーラン)が出来た時に出来た。
キリスト教徒は新約聖書(イエスの物語。60年〜100年に成立)が出来た時に出来た。
ムハンマドがメッカからメディナに70人を引き連れて逃げて移住した,この年をヒジュラ暦元年としてイスラム教成立の年とする。
聖典クルアーン(コーラン)によって団結する人々がイスラム教徒である。
だからアラブ人(The Arabs)も,この時に成立し,アラビア語も,この時に産まれた。
コレが幻想の共同体である。
ただしアラビア語はアルファベット(フェニキア文字)ではない。
当時のベドウィン(アラブ人の中の砂漠の民。商業民族)が用いていた文字である。
それなのに話し言葉は紀元前3000年からのアラム語=古シリア語である。
このアラム語が現在も三日月地帯(エルサレムからバグダッド)で使われている。
今のイスラエル人(アシュケナージ・ユダヤ人)とパレスチナ人はヘブライ語とアラビア語で文字が違うのに,話し言葉ではアラム語で通じる。
イスラム教徒はウンマ・イスラミア(イスラム共同体)と言い,北アフリカのモロッコから東南アジアのインドネシアまで聖典クルアーンで統一されている。
インドネシアとマレーシアでも知識人階級はアラビア語でクルアーンを読んで議論する。
アラブ人ではないが,イランとトルコの知識人階級もクルアーンを読める。
聖典があるから団結して同じ言語で理解する。
そして今はカタールのドーハにあるアルジャジーラ放送局というアラビア語放送を中東アラブ世界が全体で聴いて理解している。
アラブ人=イスラム教徒は言語と宗教で大きく団結し,同一民として一心同体となる。
コレが幻想の共同体である。
西欧人が勝手に占拠して植民地にし,国家を名乗らせ,国境線を引き分割して支配した事にイスラム教徒は怒っている。
ユダヤ人もモーセ5書(旧約聖書)という聖典があるからこそユダヤ人として団結し,幻想の共同体として強く同族(同教)意識を持てる。
「ユダヤ人は民族でも人種でもない」とは,この事を指している。


【Imagined Communitiesの先駆けである吉本隆明の共同幻想論】

1968年に吉本隆明(2013年死去)がリリースした『共同幻想論』で,彼は「国家というのは幻想である。共同の思い込みに過ぎない。この共同の幻想を打ち壊して脱幻想(脱魔術化)する事が私たちの政治行動の大きな目標である」と主張した。
だが,この吉本隆明の思想は日本国内でしか,しかも一部の左翼知識人層にしか影響力を持たなかった。
コレと大きくは同じ事を世界基準で書いたのがベネディクト・アンダーソンの『Imagined Communities』(1983年刊。日本語版は『想像の共同体』1990年刊)である。
テルアビブ大学教授で大著『The Invention of the Jewish People』(2008年刊。日本語版は『ユダヤ人の発明』2010年刊)の著者シュロモー・サンドが,この著作で「私の著作はベネディクト・アンダーソンの『Imagined Communities』に多くを負っている」と書いている。
以下に日本語版を載せる。

古典的なナショナル・イデオロギーが占めていた地位が、風化するきざしをみせはじめた。このときがまさにネイション意識の成長の開始に立ちあった、現場における新たなパラダイムの出現に貢献したといえる。一九八三年に英国で、この領域で「先導役となる本」が二冊刊行された。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』と、アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』である。これ以降、ナショナリズムはおもに社会=文化的なプリズムをとおして分析されるようになる。このようにしてネイションは、押しも押されもせぬ文化的な課題となった。
アンダーソンは、いくつもの言語的=文化的空間のあいだを渡り歩く、そういう星のもとに生まれたといってもよい半生を送ってきた。アイルランド人を父、イギリス人を母として中国で生まれ、第二次世界大戦中、両親とともにカリフォルニアに移住した。おもに英国で教育を受けて国際関係の研究をつづけ、その結果、米国とインドネシアのあいだを行ききするようになった。

シュロモー・サンド著『ユダヤ人の発明』P97〜98

この引用文は凄く重要である。
この大著は頭の方で,ずっとnation(民族,国民,国家,どれにでも訳せる)とは何なのかの研究を私たちはしていると,しつこく書いている。
読み手はウンザリする。
畢生の大著だと分かっているのに理解者が少ない。
ようやく後の方でシュロモー・サンドは,このように自著の種明かしをしている。
この事が,そのまま最新の世界史研究の最大の成果なのだ。
人類史を勉強するとは,この事を分かる事だ。
このシュロモー・サンドによるベネディクト・アンダーソンとアーサー・ケストラーへの理解の深さの表明が分かる事,コレで今の世界史学で最高級の知識を習得した事になる。


【インド=欧州語族説の虚偽】

自分,峯岸は,インド=欧州語族説を徹底的に否定する。
なぜなら,この「語族」という考え方は虚偽だからだ。
インド=欧州語族説が「私たちはアーリア人という白人種(コーカソイド)の共同先祖である」という愚劣な思想を創った。
この学説は今でも定説として世界史の教科書に堂々と載っている。
この低劣な学説の尻馬に乗っているのは,世界各国の言語を比較研究すると称する比較言語学者という"語学屋"たちである。
このインド=欧州語族(同一起源)理論から,インド人もペルシア人も西洋人と同じ白人系だという臆説が産まれた。
インド人もペルシア人も西洋人と同じ優等な白人種であるという虚偽の考えの元凶を作った。
この理論は有名な系統樹で描かれる。
どの国の言語が,どのように枝分かれしたか,そのもっともらしい樹状の図だ。
この図表で朝鮮語と日本語は「その他の言語」として除外(差別)されている。
分かりやすく言えば,いつも自分,峯岸が言っている,日本人は顔に色が着いた極東の土人という事だ。

このインド=欧州語族説は1783年にウィリアム・ジョーンズというイギリス人の素人学者(大英インドに赴任してきた裁判官)が言い始めた。
だが,この語族説は現在も比較言語学研究という分野となり,世界中の各言語を細かく比較して同定したりする言語の学問として幅を利かせている。
自分,峯岸が,このインド=欧州語族理論が人類史の勉強にとって害悪だと判定するのは,ココからナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのアーリア民族(白人種)の人種的優等,良質という狂った政治信念が産まれたからだ。
そして,もう一つ,遺伝子や血液を使った奇妙な歴史学の手法だ。
人類史5000年間で,どんな民族も人種も混ざりまくって複雑化している。
だから遺伝子や血液で先祖を捜し出す事など出来ない。


【アーリア族など存在しない】

アーリア族という白人種の民族などいない。
居たのはノルマン人(ヴァイキング)だ。
今のフィンランドの東のノブゴロド公国を創ったノルマン人(元々はノルウェー人)である。
このノルマン人がロシア人(モスクワ・ルーシ)とウクライナ人(キエフ・ルーシ)になって広がった。
アーリアという人種はいない。
アーリア族という民族もいない。
初期の人類学が人種を白人種(コーカソイド)と黒人種(ネグロイド)と黄色人種(モンゴロイド)に分けた。
そして白人種はコーカサス地方(カフカス山脈)から出てきたとした。
コレが大間違いなのだ。
白人種は,もっと北方のフィンランドの東のノブゴロド地方から出てきた。
白人種とはノルマン人(ヴァイキング=ノルウェー人)の事である。
欧米の学界は,こういう学問上の大間違いを今も訂正しないで白人優越主義に浸っている。

インド北部のインド人は白い肌に近く西洋人のような外見から自身をアーリア人種だと考えている。
だから北部のインド人は人種面で中国人と韓国人と日本人の極東を蔑視している。
そして南部のドラヴィダ人(ベンガル人,バングラデシュ人を含む)をカースト制で差別している。
彼ら北方のガンダーラ,カシミールの白人種に近い者たちは,自身らがインドの支配階級民族という認識でいる。
イラン人も同じで自身を白人種として元のペルシアという自称をヤメてイラン(アリアン)だと改称した。
このインド人とイラン人の態度は自身らが1750年代(ビクトリア女王の頃)から200年間,イギリスやフランスに植民地支配された事から生じた劣勢複合感情に依るものである。
18世紀から受けた欧米支配への劣等感から起きた事だ。
今やインド=欧州語族学説,すなわちアーリア人の白人起源説は根拠を失い,世界史学界で衰えている。
アーリア族(人種)は存在しない。
居たのはフィンランドの東方に移って来たノルマン人(ヴァイキング)である。
だからカフカス(コーカサス)人起源説は,ノルマン(ノブゴロド)人起源説に訂正しなくてはいけない。
あの真っ白い肌は北欧人の肌である。
だから,この語族説を支持して書いているユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス(全史)』の以下に転載する箇所は批判しなくてはいけない。
日本ではYouTubeなどのプラットフォームやブログで,このユヴァル・ノア・ハラリを引用してる者が多数いる。
だが自分,峯岸が今,解説した事を理解どころか指摘している者は誰もいない。

著しい成果を収めた帝国主義時代の学者として、ウィリアム・ジョーンズも挙げられる。ジョーンズは一七八三年九月にインドにやって来て、ベンガルの最高裁判所判事に就任した。彼はインドの驚くべき事物に目を見張り、すっかり魅了され、到着から半年もしないうちにアジア協会を設立した。この学術組織はアジア、とくにインドにおける文化、歴史、社会の研究に専心した。二年のうちにジョーンズはサンスクリットに関する研究結果を発表し、これが比較言語学という学問の先駆けとなった。

ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』下巻P119


第2章
<古代オリエントから人類史が見える>

◆イスラエル=パレスチナが人類史の核心部◆

【属国として生き延びてきたイスラエル=パレスチナ】

世界4大文明は

①メソポタミア文明(チグリス・ユーフラテス川流域文明。バビロン=後のバグダッドが中心)
②エジプト文明
③インダス(インダス川流域のパキスタン)とガンジス川流域文明
④黄河・長江(中国人は「長江」と言い「揚子江」とは言わない)文明

以上の4つである。
コレに⑤としてギリシア・ローマ文明(欧州文明)を加える学説がある。
自分,峯岸は,①メソポタミア文明と②エジプト文明を中心に置き,その中間にポツンと存在する小さなイスラエル=パレスチナを中心にして解説する。
ソレは帝国・属国の関係として人類史をズバリと大きく解説する為のモデル化である。
日本人は,この4大文明を,過去の大昔の古代文明だと思っているが,そうではない。
この4大文明は今も生きて今に繋がっている。
イスラエル=パレスチナは一回も帝国になった事がない。
このイスラエル=パレスチナの上を18の帝国が踏み荒らしていった。
殆どがエジプトを攻め奪る為であった。
エジプトに攻め込む為の通路としてイスラエル=パレスチナは使われたからだ。
だからイスラエル=パレスチナは,古代バビロニア帝国やアケメネス朝ペルシア帝国やアレクサンドロス大王のギリシア(マケドニア)人の帝国やローマ帝国やビザンツ帝国やイスラム帝国(ウマイヤ朝とアッバース朝)が支配した。
コレらの帝国がイスラエル=パレスチナを占領して軍隊を駐留させた。
ずっとイスラエル=パレスチナは帝国・属国関係としての従属国だった。
イスラエル=パレスチナは,歴史上の18の帝国に順番に支配されて延命した小国である。
それなのにココから世界宗教が産まれた。
この事の奇妙さに気づいている日本人が何人いるだろうか。
だから今のイスラエル=パレスチナは帝国だった事が一度もなく,小国として帝国に服従して平穏に生きる事が出来た。
帝国は属国が貢納(税金を払う事)さえしていれば痛めつける事はしない。
払うモンを払えば手を出さない。

では「我々の日本は,どうなのか?」と問うと,2000年前の後漢の時から中国の歴代王朝(漢,隋,唐,宋,明,清など。王朝とは帝国の事)に順番に服属した属国=朝貢国である。
そして150年前の幕末・明治維新の時からは隠れた(非公然の)大英帝国(イギリス)の属国だった。
そして1945年に第2次世界大戦で敗戦し,その後の78年間はアメリカ帝国の属国である。
この事は日本人が神のように崇めるアメリカ様が作って与えてくださった日本国憲法(人権と民主政治と平和主義=軍隊を持つな)で明白だ。
そして,この日本国憲法の上にド〜ン!と米日安全保障条約という軍事条約が重しのように乗っている。
コレを奇妙に米日同盟と言う。
“憲法典よりも上に米日安保(この中に更に地位協定=米軍駐留条約がある)がある”
”だから護憲(憲法改正反対)と言おうが改憲を叫ぼうが,その上に軍事同盟条約がある限り,憲法典を自身らで弄って改正など出来ないのだ“
日本人(日本政府)が勝手に弄れないよう最初からガッチリ組まれている。
この事を日本人が全く理解できていない。
だから意味の無い無駄な憲法議論を繰り返しているのだ。
護憲・改憲の論争は日本という国家が独立した後に始めるものである。
“日本は第2次世界大戦の戦後処理が,まだ終わっていないのだ”
だが,この状態が,いつまで続くか。
どんな事でも永遠は絶対にない。
必ず次の時代が来る。
この事は歴史(人類史)が証明している。
日本人は全く気づいていないが,アメリカ帝国はガラガラと大きな音を立てながら瓦解し出している。
だから,こういう大きな事を考える為に人類史を学ぶ本当の意味があるのだ。


【肥沃な三日月地帯から古代の世界が見える】

メソポタミアは今のイラク北部の都市モスルを中心とした辺りだ。
チグリスとユーフラテス川沿いにある。
日本人はチグリス,ユーフラテス川という言葉だけは知っている。
ココを詳しく調べると中東アラブ世界が見えてくる。
ユーフラテス川は遡るとイラクのバグダッドからシリアのアレッポ辺りまで流れている。
更にトルコの方まで上る。
この2つの大河沿いに多数の都市が建設され,いわゆるメソポタミア文明を創っていった。
イラクの南の半分はバビロニアと言ってメソポタミアとは異なる。
だが日本人は2つを合わせてメソポタミア文明と教育機関で教えられる。
このユーフラテス川沿いに上って西のシリアに移って南に下るとダマスカスに着き,更に下るとイスラエル=パレスチナに着く。
そして更に下る(西へ行く)とエジプトに着く。
この一帯は大きく半円形になっている肥沃な三日月地帯(レヴァント地方)だ。
この地帯を中心に見る事で世界中の成り立ちが
見えてくる。
紀元前4000年ぐらい(今から6000年前ぐらい)にシュメール人がバビロンの辺りに居た。
その少し南のウルやウルクにも居たシュメール人が2つの大河に挟まれたチグリス=ユーフラテス文明を産んだ。
コレが6000年ぐらい前だ。
人類の文明の歴史は5000年と決まっている。
ソレ以上,遡る事は歴史学ではしない。
なぜなら文字(文献記録,石碑)が何も残っていないからだ。
文字が無い遺跡の研究は考古学,あるいは人類学の分野である。
考古学は文字(石碑文)が無くても土器などを調べる。
シュメール人(農耕民)と並んで最も古い人間がスキタイ(シュキタイ)人だ。
スキタイ人はユーラシア大陸の大草原一帯に居て,裸馬に乗った狩猟採集民族である。
遊牧民(nomad)になり始めていた。
狩猟採集民は飢えて死ぬ可能性が非常に高い。
食料を蓄える考えが殆ど無かったようで,食料が手に入らないと死んでしまう。
自然動物と変わらない。
だから,ずっと後に出現する定住民,農耕民の方が楽だ。
栽培農業をして農地を守って働いてさえいれば飢える事はない。
だがソコにドドっと何処かから突如,遊牧民が攻めてくる不安,恐怖は常にある。


【人類の食べさせてくれの法則】

都市文化と言える程ではないが,定住する農耕社会になって安定すると支配階級という層が出現する。
他人のモノを奪り上げて楽して生きるため肥えていく支配階級と,奴隷や農奴になって痩せ細る層が出現する。
人類(人間)の大きく2種類への2極分化だ。
この事を分かりやすく言えばカネ持ちと貧乏人の2種類だ。
コレは我々の目の前にある綺麗事なしの現実である。
この目の前の冷酷な現実をシッカリ見て歴史を考えなければならない。
やがて王国の王が出る。
この王(本当は暴力団の親分のような人)同士の激しい殺し合い(国取り物語)が続く。
そして広大な地域の中で王たちの中の王として激しい殺し合いの中から勝ち抜いた,一際,残虐で狡知な王が皇帝となる。
このように帝国が出現する。
帝国は周辺国と大きな戦争をして支配領土を確保する運命を持つ。
だから人類は,およそ80年に一度は何処の帝国も激しい戦争をしている。
コレが自分,峯岸が言う「人類は80年の周期で災害⇨恐慌⇨戦争で回る」である。
この上に120年前後で世界覇権が移転する周期がある。
日本人は夢と希望と願望に縋ってフワフワしながら生きているため,この現実が理解できない。
歴史の冷酷な現実から目を背けて逃げ込む。
その代表がスピリチュアルの世界で生きている現実から離れている者たちだ。

人類5000年の歴史は戦争と支配の歴史である。
帝国を操っている権力者(支配層)たちが大きな戦争を仕掛ける。
ソレによって民衆は悲惨な目に遭う。
ココで最初に記した3つの峯岸史観を再度,説明する。
人類の歴史を,あけぼの(発生,出現)から辿ると,原始的な血縁共同体から小さな村みたいな組織が出来て,農業や狩猟で人々が生きるというイメージを考えてしまう。
しかし自分,峯岸は,この考えが無い。
もっと生の現実を見ているからだ。
自分,峯岸の考えは,最初から50万人ぐらいの男が群れ集まっている。
コレは現代で言えば会社に雇われている従業員だ。
この50万人の男の周りには女(配偶者)と子供がいる。
この男たちが「食べさせてくれ」と集まっている。
すると「よし,オレが食べさせてやろう」と言う者が出てくる。
この者が,やがて指導者になる。
この「俺が食わせてやる」と言って500人ぐらいを食わせる事が出来たら,その人が山賊の親分,部族の酋長(チーフ),企業で言えば経営者である。
コレが,やがて人々が集住する都市文化で小さな国(国家)となる。
だが,その国で,どうしても食べられなくなったら,どうするか。
その時は隣国に攻め込んでいく。
小さな戦争だ。
隣国の人間を皆殺しにしたり奴隷にしたりして,他所(よそ)からの略奪物,獲得品で暫く食べていくという行動に出る。
コレが人類の法則であり,動物世界のルール(自然法則)と殆ど変わらない。

欧州も中東も中国の歴史も,この感じである。
この「よし,俺が食わせてやる」が今の企業経営者(資本家)である。
このように古今東西の人類の歴史を見ていくと,まず民衆が「食べさせてくれ」と要求する人間行動が始めにある。
コレが最初に解説した①の「食べさせてくれ史観」だ。
現実,今の日本のサラリーマン(会社に雇われている勤め人)も公務員でさえも会社(組織)に,しがみ付いて生きていて,月給3〜40万円の為に会社(組織)に人生を捧げて企業奴隷となり細々と生活している。
この額面給料から税金やら年金やらと半分を強制的に奪わているのに,この常軌を逸した状況に気づかない。
アホ面で「給料低いなぁ」とボヤいているだけだ。
このように「食べさせてくれ」の法則が現代の今でも厳然とある。
②がドドっと遊牧民が50万頭の羊や馬や牛を連れて山の方から攻め下りて来て平地の定住民
(農耕民)の支配者になった。
③は人類の熱狂史観である。
人類は時々,集団で発狂する。
人間は「苦しい貴方を救います」と自称する大宗教や理想主義の思想が出現すると一気に,のめり込む。
助けを求めるかのように縋り付く。
この考えが強大な嵐のような熱狂を産んで凄まじい勢いで世界中に広がる。
ソレがキリスト教やイスラム教や仏教などの巨大な広がりで見られた。
20世紀で言えば共産主義という思想がソレだ。
コレが③の熱狂史観である。
自分,峯岸は,この①,②,③の人類史を貫く歴史観を独自で導き出した。


【メソポタミアを征服したエジプト王】

日本人も知っているのは,エジプトのナイル川流域に紀元前3000年ぐらいからエジプト文明が勃興した事だ。
古代エジプトという大きな帝国が出来て続いた事は知っている。
しかし王朝の細かい区別はつかない。
あの有名なクフ王の大ピラミッド建設は紀元前2580年である。
だが,もっと古い紀元前3000年ごろに,エジプトにセソストリスという王が居た。
バビロニアまで遠征してシュメールを征服した。
エジプトの食糧不足が原因で遥々バビロニアまで攻めていった。
セソストリス王は歴史上初めて他民族を征服して王朝を樹立した,つまり征服王朝である。
ヘロドトスの『歴史』の初めの方に2ページだけセソストリス王の記述がある。
「船で紅海を渡った」と書いてある。
当時の紀元前3000年は現在よりも大草原だった。
エジプトからバビロニアまで,ずっと森林(レバノン杉のような大木が生い茂っていた)もあり,緑の沃野が続いていた。
草原と農耕地は大河の両側にあり,ココを辿ってセソストリス王らエジプト人たちはメソポタミアまで攻めて征服した。
だが歴史家の創始者であるへロドトスの大著『歴史』の冒頭に書かれたセソストリス王の存在を今も世界中の歴史家たちが認めない。
証拠が出ないからだろう。

戦争に強い指導者が出てくると「大王」と呼ばれる。
大王の周りに何十ヶ国が服属する。
貢ぎ物を捧げて守ってもらうという形になる。
コレが帝国と属国である。
紀元前2300年ごろにバビロニア人(その前がシュメール人)の一部が,アッカド帝国(紀元前2250年に最盛期)という古代帝国を創った。
だからアッカド人が勢いで周りにも広がった。
この時シュメール人は消えた。
やがてバビロニア帝国になる。


【ハンムラビ法典は歴史学の対象】

古代バビロニア帝国の王の中で有名なのがハンムラビ(ハンムラピ)大王だ。
この人の名は日本人でも知っている。
ハンムラビ大王は「目には目を歯には歯を」の法典を作った事で有名だ。
ハンムラビ王の「ハンムラビ法典」は「目には目を歯には歯を」(同害反復の復讐法)として,自分,峯岸が小学生の時は社会科の教科書の世界の歴史で出てきた。
だから50歳以上の日本人は皆この大王の名を知っている。
ハンムラビ王は紀元前1700年代ぐらいの人で,ハンムラビ法典は堅い石の円柱に刻まれた楔形文字の石碑が発掘されて今も証拠として遺っている。
こういう石碑が遺っている事が人類史学の重要な史料とされる。
学問的な証拠がなければ真実とされず仮説扱いされる。
ハンムラビ大王が死ぬと古代バビロニア帝国は弱体化し,やがて台頭してきたヒッタイト帝国にバビロンを攻略され紀元前1595年に減ぼされた。
しかしメソポタミアにはアッシリア帝国という,もう一つ強い国がある。
自分,峯岸は,アッシリア帝国はバビロニア帝国の弟分のような国として存在したと見ている。
アッシリアは今のシリアとイラクの北部だ。
ヒッタイトは鉄器を初めて使った優秀な民族で,鉄の刀だけでなく鉄の車軸(車輪)を作った。


【ヒッタイト帝国を滅ぼした海の民】

ハンムラビ王から400年ぐらい後の紀元前1300年ぐらいに,エジプト帝国(ラムセス2世)はヒッタイト帝国の皇帝(ハットゥシリ3世)と戦っている。
この事実は歴史学者たちが認めている。
エジプト,ヒッタイトの双方に石に刻まれた平和条約(戦争終結条約)が碑文として見つかっているからだ。
両方で見つかっている事が重要である。
だから世界史学者たちが認めている。
紀元前1284年とされる。
コレが世界最古の平和条約だ。
エジプトとヒッタイトは,どちらも帝国だから大きい。
ヒッタイトの首都ハットゥシャ(ボアズキョイ)は,今のトルコの真ん中あたり(アンカラから東に150km)にあった。
その後100年が経ち紀元前12世紀(正確には紀元前1190年)に,それまでエジプトと長く戦っていたヒッタイト帝国が一気に滅びた。
「海の民」という者たちが滅ぼした事になっている。
この「海の民」(maritime people)は何者なのか分からない。
欧州の歴史学で,どういう人々か分からないという事になっている。
自分,峯岸は,この「海の民」は古代の海洋性民族(主に船で動いた)のフェニキア人,すなわち今のレバノン人だと見ている。
彼らは西のギリシアの方から来た。
更に北の黒海の方から来た。
船に乗って船団を組んで商業(貿易)もしながら移動する部族だ。
彼らは海賊のようでもあり,紀元前1190年に計画的に襲撃して強大だったヒッタイトを滅ぼした。
フェニキア人は地中海岸を中心に広がっていき,後にカルタゴやヴェネツィアまで創った。
繰り返すが,このフェニキア人は今のレバノン人である。
ココにはシドン(サイダ)という古代世界を通して栄えた大きな港湾都市がある。


◆モーセの出エジプトからユダヤ民族の歴史が始まった◆

【出エジプト記の真実】

前述したとおり,紀元前1284年にエジプトのラムセス2世がヒッタイト王のハットゥシリ3世と平和条約を結んだ。
その34年後(紀元前1250年)に人類史上の大事件が起きた。
「この時,人類史が本格的に始まった」と言っていい大事件である。
紀元前1250年は絶対に知らなければいけない年号だ。
ソレはmoses(モーセ)という人物の出現である。
モーセがユダヤ人の12支族を率いてエジプトを脱出した,この脱出をExodus(エクソダス)と言う。
コレが旧約聖書の「出エジプト記」になった。
モーセはユダヤ人ではなくエジプト人である。
エジプトの農民の指導者(長老)だった人だ。
ユダヤ教の教典の初めの5巻を「モーセ5書」(Torah=トーラー)と言い,この後にも巻は続くが,この5冊が大事だ。
全て合わせてキリスト教徒たちは旧約聖書と言う。
最も大事なのは,この「出エジプト記」である。
あとの4冊は,かなり後に作られた。
自分,峯岸は,とりわけ「創世記」(天地創造の話しから)は「出エジプト記」から1000年後に成立したのではないかと疑っている。
「出エジプト記」と「申命記」は本当に古い。
「出エジプト記」を元にした『十戒』(1956年チャールトン・ヘストン主演)や『エクソダス:神と王』(2014年)という有名なハリウッド映画がある。
映画『十戒』の中にはシナイ半島の方に逃れ出ていくモーセたちを,エジプトの軍隊が後ろから追いかけた時に紅海が割れ,ユダヤの民だけが海を渡って向こう側に逃れる事が出来たという例の有名なシーンがある。
この後,海の中の道が塞がれてラムセス2世の軍隊は海に呑み込まれてしまう。
しかし海が真っ二つになるわけはない。
モーセたちは何処か浅瀬を渡った。
モーセたち一行は5000人ぐらいでエジプト軍は追いかけてない。
軍隊が追いかけてきたら追いついて皆殺しにされるからだ。
ラムセス2世は大王であり長寿の王で100歳近くまで生きたとされる。
モーセに率いられたイスラエルの民は40年間シナイ半島を彷徨い,カナンの地(今のイスラエル=パレスチナ)へ導かれたとされている。
モーセは辿り着く直前にヨルダン川の東岸で遠く向こうの緑豊かな土地がある事を発見して死んだ。
コレが神ヤハウェが自身らに約束した地だという思想である。


【モーセはエジプトの屯田兵(開拓農民)だった】

モーセはエジプトからの移民であり,開拓農民であった。
エジプト人の屯田兵であり,政府によって武器を持たされた,国境の辺境地へ送り込まれた戦略村の開拓者たちである。
かつての日本の満蒙開拓団と同じだ。
政府から一人3円(今の300万円)の支度金を与えられ,ブラジルやぺルーに移民していった人々と全く同じような開拓民である。
ラムセス2世に「向こうが空いてるから向こうへ行け」と言われて移住していったのだ。
当時のパレスチナはエジプトがヒッタイト帝国と争っていた紛争地帯である。
両方の係争地の中間地帯であるイスラエル=パレスチナに王が開拓民を送り込んだのだ。
だからモーセたちはエジプトからの移民団の一つとして来た。
シリア人(アラム人)たちも北から来て混住していた。
モーセに率いられたイスラエルの民(ユダヤの民)と言うが,”この時にユダヤ人は発明された“のであって,その前はいない。
「イスラエルの民」という言葉は,この時は無い。
だからイスラエルの民とはエジプト人である。
エジプトから来たエジプト人だ。
モーセたちと同じようにエジプトから来た別の移住開拓農民はペリシテ人である。
この大きな事実をテルアビブ大学の歴史学者のシュロモー・サンド教授が2008年にリリースした『The Invention of the Jewish People』(日本語版は『ユダヤ人の起源』)でズバリと指摘した。
モーセたちが「元々の自身らの先祖の土地に帰った」とは『出エジプト記』の何処にも書いてない。
「ココはヤハウェ神が約束した土地だ」と書いてあるだけだ。
ココを奪い取ったのだ。


【発明されたヤハウェ神が創った民族】

モーセたちはモーセを中心にして,ある時からヤハウェを拝んだ。
まず自身らの神を創った。
その後その神が自身らを創ったという事にした。
ヤハウェ神が自身らを創ったという事に決めた。
自身らで自身らを発明したという事だ。
こうして民族が発明されたという事だ。
この事はフランケンシュタイン博士が怪物フランケンシュタインを作った事に似ている。
自身らで自身らを自身の為に創った。
ココがユダヤ民族の強烈な強さである。
他に,こういう民族は人類にない。
ユダヤ民族は自身らで自身らを発明したのだ。
他のペリシテ人(エジプトからの移民)と全く同じエジプト人なのにだ。
自身らは特別であり,ヤハウェ神が創った民族だと決めた。
この特異さが後々の世界人類に大きな影響を与えた。
モーセたち(モーセ自身は死ぬが)は紀元前1200年ぐらいにヨルダン川を渡ってエリコの都市を攻め落とす。
そして次々とペリシテ人の町を奪い取る。
自分,峯岸は,この時から数えてユダヤ人3200年の歴史と制定する。
直ぐにエルサレムに到着すべきだが別の人々が居た。
ペリシテ人,つまり今のパレスチナ人だ。
彼らペリシテ人はモーセたちよりもエジプトから何十年か早く来た先住民である。
彼らの町(都市,集落)に次々にモーセたちは襲い掛かって攻め奪って回った。
コレが「出エジプト記」の後半の「士師記」の200年間(紀元前1200年〜紀元前1000年)である。


【先住民ペリシテ人が今のパレスチナ人】

士師の始まりはモーセの後継者のヨシュアである。
ヨシュアは優れた軍事指導者だった。
ユダヤの民を率いて戦いに勝ち続けた。
こうやってエズレル平原=イスラエル平野を自身らの手中にした。
旧約聖書ではココを大きくグルっと回るようにして最後にエルサレムに到着したように書いてある。
なぜエリコ占領の後さっさとエルサレム(シオンの丘)に向かわなかったのか分からない。
カナーンの土地(今のイスラエル=パレスチナ)にはペリシテ人の他にアッカド人も居た。
モーセたちは,このアッカド人を北の方に追い払って「私たちはユダヤの民だ」「イスラエル人だ」と言い出した。
ペリシテ人,ユダヤ人よりも1000年後のイエス・キリストの時代に,パリサイ人という人々が現れる。
新約聖書に出てくるイエス・キリストを虐めた人々だ。
パリサイ人は紀元後30年にイエスが36歳で処刑された時に神官職だった人たちとされる。
このパリサイ人が「イエスという,おかしな男を,さっさと処刑しろ」と騒いだ。
このパリサイ人はペリシテ人である。
つまり今のパレスチナ人という事だ。
15年前の2008年に自分,峯岸は,全く読まない新聞を,なぜか手にして読んで(おそらくホテルなどの宿泊施設で),何気なく目に留まって読んだ記事に驚嘆した。
テルアビブ大学のシュロモー・サンド教授が「ペリシテ人はパレスチナ人だ。ずっと農民として,この地で生きてきた。古代のユダヤ人もペリシテ人になった」と発表した事が載っていたからだ。
カナーンの地にペリシテ人とパリサイ人という先住民が住んでいて,彼らが今のパレスチナ人という事だった。
今はイスラム教徒になり,すなわちアラブ人になっている。
彼らは,この地で農民だった。
旧約聖書ではモーセが引き連れて来たとされるユダヤ12支族が今のイスラエル全土に散らばったとなっている。
だかソレより前にペリシテ人(パレスチナ人)たちが居たのだ。


【ユダヤ人の起源は戦場商人】

士師は「羊の群れを率いる者」という意味である。
士師は家族の他に部族と大きな群れの家畜(コレが食料)を引き連れて移動しながら戦争も続ける。
後のアメリカの開拓時代であれば,幌馬車隊のリーダー,指導者,隊長だ。
「camp followers」(キャンプ・フォロワーズ)という言葉がある。
キャンプ(軍隊の野営地)の後からゾロゾロと付いていく人だ。
どんな国の歴史でも,どんな戦争でも,軍営,陣営がある。
軍隊が移動していくと,その後ろから商人たちが付いていく。
コレがユダヤ人である。
このユダヤ商人の一部は女たちを荷馬車に積んで軍隊の後を付いていく。
そして衛営(駐屯地)で売春婦として兵隊たちに売ってカネを得る。
コレを女衒(ぜげん)と言う。
兵士は暴れ者のヤクザ者のような連中だから死ぬ気で戦うのだが博奕も麻薬もヤル。
麻薬は傷の鎮痛剤として始まった。
それから売春だ。
兵士が戦場で略奪してきた貴重な貴金属や壺や装飾品を自身の故郷に持って帰るわけにいかない。
コレを故買(こばい)と言ってユダヤ商人たちが買い上げる。
そのカネで兵士は博奕と麻薬と女をヤル。
コレがキャンプ・フォロワーズである。
ユダヤ人の,もう一つの原型だ。
「ユダヤ人とは何者か?」という問題で,イスラエル=パレスチナを中心とした物語とは全く別個にユダヤ人の起源を説明する理論がある。
以下の学説は東京外語大教授で優れた東洋史学者だった岡田英弘(1931年〜2017年)が,大作『世界史の誕生』(1992年刊)で書いている事だ。
岡田氏は30歳ぐらいの時,アメリカのワシントン州はシアトル大学で学んだ。
ココでロシア人の歴史学者のニコラス・ポッペ教授から習った。
ユダヤ人とは古代ローマの軍隊が移動する時にソコに居た人々で移動商人である。
ローマ軍の後から付いて来て欧州の諸都市に居つくようになった。
彼らはウィンドボナ(今のウィーン)やロンディウム(今のロンドン)やルテティア(今のパリ)などに到着したら,まず地面を掘る。
地下水が出るところまで掘り,ソコに礼拝堂を造り,自身らの墓にもする。
今のローマに遺っているカタコムべ(地下の礼拝堂)と同じだ。
水が豊富に出るため涼しくて死体の腐敗も防げた。
この欧州の各大都市に地下礼拝堂を造った,ローマ軍の戦場商人だった人々をユダヤ人というのであり,ソレ以上は遡る事はない。
このように岡田氏はポッペ教授から習った。
この学説に従うと,今のドイツのライン川沿い(フランスとの国境)で古くから生きてきたユダヤ人たちは,この人々という事になる。
Torah(モーセ5書)は信仰しただろうが,イスラエル=パレスチナで産まれたユダヤ教の人々(セム族)とは関係が分からない。
ソレ以上,遡れないとポッペ教授は言っている。
このライン川沿いに紀元前200年ぐらいから生きた戦場商人は,イスラエル=パレスチナの話しに出てくるユダヤ人とは別の人々だ。
例えばカール・マルクスが,このライン川沿いユダヤ人の典型である。
このライン川沿いユダヤ人たちが徐々にポーランドの方へ移動していったと考えるのが今も通説である東欧ユダヤ人説である。
だが,この説は前回,解説した『The Thirteenth Tribe』(日本語版は『ユダヤ人とは誰か』)の著者アーサー・ケストラーと『The Invention of the Jewish People』(日本語版は『ユダヤ人の起源』)の著者シュロモー・サンドの学説によって否定された。
この2作はイスラエル本国でも無視できなくなっている。
しかもイスラエルの歴史学者の大家たちによっても,この説は支持されている。
世界一の洗脳民族である日本人こそ,この2作を読まなくてはいけない。


【ユダヤ人は都合が悪くなるとヤハウェ神を捨てた】

エジプトからモーセたちが紀元前1250年からゾロゾロと移動してきたのは遊牧民の習性である。
多くの牛,馬,羊を連れて移動した。
奥さんと子供を連れて鍋釜を提げて移動した。
だから40年も彷徨えたのだ。
しかし牧草のあるところしか彷徨えない,草がないと食料である家畜が死んでしまうからだ。
だから大きな砂漠は渡れない。
モーセの死後,ヨシュアたち士師は200年かけてイスラエルを支配した。
ユダヤ民族は元はエジプト人なのに,同じエジプトからの植民者であるペリシテ人たちと小さな戦争をヤリ続けた。
ペリシテ人が勝った時,なんとユダヤ人はペリシテ人に戻ってしまう。
つまり太陽神(バアル神)と豊穣神に戻って何の問題もなく穏やかに生きる。
だが時々,発作が出るように「私たちは啓典の民で,選ばれた人間でヤハウェに忠誠を誓う」と,途端にユダヤ人に戻る。
この繰り返しが旧約聖書に書いてある。
この点を読み破る事が大事なのだ。
”つまりユダヤ人は都合が悪くなるとヤハウェ神を捨ててペリシテ人に戻ってしまう“
この事が分からないから日本人はユダヤ人,そしてユダヤ教が分からないのだ。
戦争して勝利して相手の都市を陥落させた時は,敵だった国や部族の王族や将軍や軍人たちは殺される。
だが,その周りの民衆は一般の兵隊を含めて殺される事はなく生き残っていく。
兵士たちは捕虜となり,勝利者の奴隷として売買される。
一般庶民は殺されず,いつの時代も労働力(今で言うサラリーマン=勤め人)として使われる。
そして農民として年貢(税金)を納め続ける。
だから「戦争で都市が陥落し,そこの住民も全滅」と歴史書に書いてあるが,そんな事はない。
上の責任者たちは処刑されるが,その他の大半は生き残る。
戦場になる前に人々は脱出して逃げる。
そして戦争が終わったら戻ってくる。
だから『The Invention of the Jewish People』(日本語版は『ユダヤ人の起源』)の著者のシュロモー・サンド教授は“「ユダヤ民族の追放や離散(ディアスポラ)は無かった」”と力説している。
都市,国ごとに皆殺しという事は,どんな時代にもないし出来ない。
人間は牛馬のような家畜並みに,いやソレ以上の労働力として扱われたのだ。
この感覚は経営者になると分かる。
経営者として資金繰りしながら会社を動かしていく中で,どのように従業員を配置して利益を上げていくかだ。
従業員を安い労働力で使って会社の売り上げを伸ばす悪賢い経営者が財を築く。
この経営者は国家で言えば首相である。
いかに国民から年貢(税金)を奪って国家を経営するかだ。
だから旧約聖書の『士師記』や,その後の『列王記』などで「敵の3000人を殺し」とある記述は誇張である。
実際は100分の1の「30人を殺した」ぐらいだ。
30人が死ぬ戦争でも部族間抗争としては大変な事である。


◆消えた10支族と王の友になったユダヤ人◆

【サウル王の時代にエルサレムを中心に定住】

「士師記」のヨシュアから後の200年間(紀元前1000年まで)の最後の12番目の軍事指導者のサムエル(サミュエル)までが士師の時代である。
この士師の時代の後,サウル王,ダビデ王,ソロモン王の「列王記」の時代に入る。
サウルは次のダビデと,ずっと仲が悪かった。
嫌い合って戦いを続けた。
サウルが戦死して次のダビデが王に就き,紀元前1000年に神殿を建てた。
エルサレムの神殿である。
その息子のソロモン王が更に立派に建て替えた。
だからソロモン神殿と言う。
この「列王記」の時代になってユダヤ人は初めて定住した。
この時からエルサレムを中心とした民族となる。
王国になる前は,ずっと移動していた。
テント(天幕)をバラバラに分解し,次の野営地までゾロゾロと移動した。
ユダヤ民族だけでなく,当時は殆どが遊牧民として移動しながら生活していた。
定住すると,いつ襲われるか分からないため危険だからだ。
預言者サムエルを描いた「サムエル記」があり,ココからが「列王記」の王の時代になる。
サムエルは最後の士師でありながら同時に最初の預言者である。
サムエルが紀元前1025年にサウルを王に選んだ。
ユダヤ国の最初の国王に選ばれたのがサウルだ。
エルサレムを中心に定住した。
だが預言者(宗教指導者)サムエルはサウル王と気が合わない。
サウル王はアンモン人やアマレク人やペリシテ人を打ち倒したとされている。
この〜人と色々でてくるため複雑になるが,コレは部族の名であり,日本に置き換えて関西人,九州人,東北人と考えればいい。
日本の教育機関は,こういう事を教える者がいないから日本人は人類史の勉強が嫌になるのだ。
戦争に強い人が王になるべきだからサムエルがサウルを初代国王に任命した。
ところがサウルはペリシテ人に負けて体の皮を剥がされて息子たちと城の城壁に死体を吊るされた。
この事が「サムエル記」に書いてある。
コレが本当の人類の歴史というものだ。
翌日,戦死者から剥ぎ奪ろうと来たペリシテ軍はサウルと3人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。
彼らはサウルの首を斬り落とし武具を奪った。
ペリシテ全土に使者が送られ,彼らの偶像の神殿の民に戦勝が伝えられた。
彼らはサウルの武具をアシュトレト神殿に納め,その遺体をベト・シャンの城壁に晒した。


【ダビデとソロモンの栄華】

その次がダビデ大王だ。
それからソロモンという有能な素晴らしい王が出た。
紀元前1000年から紀元前900年の100年間はイスラエルに,この優れた3人の王が出た。
その次のアブサロムはソロモンの長男だが廃嫡されている。
他の兄弟たちとの抗争(相続争い)が激しかった。
いつの時代も権力者は同じ血族同士で激しく争う。
アブサロムは今では欧米で「親の心,子知らず」のバカ息子の代名詞となっている。
このアブサロムも敗戦して皮を剥がされ死体を吊るされた悲惨な死に方をしている。
アブサロムは王になれなかった。
この頃もユダヤ王国はエジプト帝国の属国で家来の扱いである。
だが,やがてエジプトの力が弱まりアッシリア(メソポタミア)という遊牧民の帝国が強くなってきた。
アッシリアは今のシリアも含む。
首都は今のダマスカスではなく,東のメソポタミアの平原で古代遺跡があるニネヴェだ。
ニネヴェは水も出るし緑もあって穀物も育てられた。
最初アッシリアの首都はカルフだったがニネヴェに移した。
2014年に北イラクのモスルに突如として出現した(本当は計画的に用意された)ISIS(イスラム国。アメリカのCIAが育てた)は,パルミラやニムルドなどの貴重な遺跡を破壊して世界中の人々の怒りを買った。
ニムルドはニネヴェ遺跡に近い。
やがてアッシリア帝国が強大になり,イスラエルは攻め落とされて属領になった。


【ユダヤ支族は何処に消えたのか】

イスラエルはソロモン王の死後,紀元前930年に2つの王国に分裂した。
アッシリア帝国のサルゴン2世が紀元前771年に2つに分裂していたうちの北のイスラエル王国(首都はサマリア)を占領した。
南のユダ王国は残った。
この時(紀元前772年),北の10部族は消滅した事になっている。
残ったのはエルサレムを中心にしたユダ族とベニヤミン族とレビ族の3部族だ。
ベニヤミン族はモーセと移動していた時期に神との契約を交わした文書(モーセの十戒の石版)が入っている聖なる櫃を担ぐ係だ。
映画『インディ・ジョーンズ 失われた聖櫃』(1981年作)で主人公のインディ・ジョーンズが,この聖櫃を探した。
この聖櫃は後の紀元前586年にエルサレムがバビロニア帝国(ネブカドネザル王)によって占領された時に持ち去られ,以後,行方不明になったままだ。
その後アチコチの至聖所の聖櫃には古い文書(ゲニーザ)が保管されている。
ベニヤミン族はアメン神官という祭司たちの世話係で食事を御供えする係だった。
このアメン神官団(10人ぐらいいた)がモーセたちの中にいて一緒に移動した。
このアメン神官たちがヤハウェ神そのものである。
ヤハウェとはアメン神官たちの事だ。
レビ族は,この聖櫃や至聖所の天幕を解体して担いで移動する役目の人々であった。
やがてレビ族もベニヤミン族も消滅してユダ族だけが残った。
ベニヤミン族とレビ族はユダ族に吸収された。
「紀元前722年にイスラエル(首都はサマリア。イエスの生地ナザレに近い)は滅亡した」と旧約聖書に書かれている。
だが滅亡する筈がない。
彼らはペリシテ人に戻ったからだ。
日本人は教育機関の世界史の授業で「アッシリア帝国による占領によってココに居たユダヤ人の10の支族が消えていなくなった(消滅した)」と習う。
聖書学の学者たちも「10支族は消滅した」と言うから消滅論が定説になっている。
ココに疑問を抱いて問いかける者が日本(日本人)には誰もいない。
10支族は消滅してない。
この旧支族はペリシテ人に戻ったのだ。
ユダヤ教(ヤハウェ信仰)を捨てて現地で生き延びていった。
宗主国(支配民族)となったアッシリア帝国(バビロニア帝国の弟分の国)の宗教である太陽神(バアル神)を,消えたユダヤ教の10支族は拝み,生き続けた。
言語はアッシリア人と同じアラム語だ。
この事を「イスラエルがユダヤ教を捨てた」という一点で旧約聖書が激しく怒って嘆いているだけだ。
以後,旧約聖書の記述で,この北イスラエルの人々をサマリア人と言って異教徒扱いしている。
だが,それから600年後のイエスの出現の頃には(ローマ帝国が支配した時代),この地域は再びユダヤ人に戻っている。
繰り返すが,”消滅した筈の北部の10部族はペリシテ人に同化したのだ“
アッシリア帝国の宗教を拝むよう強制される必要もないぐらいに,ごく自然に他のペリシテ人と同じ太陽神(太陽崇拝)と豊穣神(大地の恵みで沢山の作物が穫れて家畜が増えますようにと祈る事)を拝んだ。
旧約聖書は「憎むべき偶像崇拝のバアル神の信仰に戻った」と書いている。
ヤハウェ神(ユダヤ教)を捨てた者たちが鋳造して崇んだ黄金の子牛の像は,バアル神の乳が出る牛の像という事だ。
エジプトも太陽崇拝,太陽神だ。
メソポタミア,バビロニアも太陽崇拝である。
バビロニア帝国の宗教もバアルという太陽神だ。
消えたユダヤ10支族は,このバアル神に戻ったのだ。
この事を指して「10支族は消滅した」と書いた。
“「消えた」とされている10支族はユダヤ教を捨てて元のエジプトの植民者の宗教に戻っただけである”


【ネブカドネザル2世王とバビロン捕囚】

紀元前586年,アッシリア帝国は南の新バビロニア帝国によって滅ぼされた。
イスラエルは,今度は新バビロニア帝国の属国になった。
ユダ王国にはエホヤキムという王が居た。
一族は新バビロニア帝国の首都のバビロンに連れていかれた。
コレがバビロン捕囚である。
捕囚は3回,行われた。
捕囚にあった,このエホヤキム王族の一人が「エゼキエル書」で描かれる預言者エゼキエルだ。
因みに旧約聖書の,この「エゼキエル書」にエゼキエル戦争という世界大戦が預言で書かれている。
イスラエルにロシア,イラン,トルコが攻め込んで世界大戦になるという内容である。
まさに今の展開そのままだ。
これまでにも自分,峯岸が解説してきたとおり,欧米の最高支配層であるグローバリスト(地球支配主義者)らは,聖書に書いてあるとおりの事を現実に反映させようと仕掛けている。

新バビロニア帝国はエルサレムを徹底的に破壊した。
イスラエル人が新バビロニアの言う事を聞かなくて反抗したからだ。
コレで第2次バビロン捕囚(紀元前586年)となる。
ソロモン神殿は徹底的に壊され,ユダヤ人たちはココに立て籠って戦った。
神殿(至聖所および周辺)を壊したのは新バビロニア帝国のネブカドネザル2世(紀元前634年〜紀元前562年)である。
このネブカドネザル2世が19世紀の有名なイタリア人のオペラ作家ヴェルディの歌劇「ナブッコ」(1842年 初演)のモデルだ。
ヴェルディの第1作目の処女作で出世作である。
このオペラの中に「我が想いよ,黄金の翼に乗って」という大事なアリアがある。
「私たちを故郷のパレスチナの地に帰して下さい」という歌だ。
イタリアでは今も子供でも知っているイタリアの第2国歌である。
「黄金の翼に乗ってバビロンからエルサレムに帰りたい」という話しで,オペラの中ではネブカドネザル王,すなわちナブッコ王が改心して自らユダヤ教徒になったという事になっている。
だけど本当のモデルはネブカドネザル2世の息子である。


【王の友となったユダヤ人王族たち】

紀元前560年,ネブカドネザル2世の息子で,アメル・マルドゥクという王子が4年間だけ国王に就いた。
この王はユダヤ教徒たちを大事にした。
囚われの身だったユダヤの民を解放奴隷,つまり自由民にして手厚く扱った。
彼らユダヤ民族が様々な技術を持っていたからだ。
機織りの技術や石造りの城などの技術を持っていたため大事にした。
ヴェルディの歌劇「ナブッコ」に出てくるのは,この王の話しだ。
だから不思議な感じだが,捕虜,奴隷として連れていかれた筈のユダヤ人の王族たちは凄く良い待遇を受けている。
奴隷扱いではなく一緒に王と食事する王の友という扱いだ。
この事が後で出てくる「ダニエル書」の中に描かれている。
「ダニエル書」のダニエルとエゼキエルの2人は捕囚から48年後に「もうオマエたちはエルサレムに帰っていいぞ。そして神殿を再建していい」と,次の皇帝(新しい征服者)のアケメネス朝ペルシアのキュロス2世に言われた。
だが帰らないでバビロンに居残り,王(皇帝)の友となって帝国を繁栄させた。
預言者の書というが,このダニエルとエゼキエルの2人はバビロンに居残ったユダヤ人の指導者である。
ユダヤ人を高官にすると,その帝国が優れたユダヤ人の商才で富んで栄える事を豪華に描いている書である。
つまりユダヤ人の能力が高かった。
ユダヤの文化の方が優れて質が良く文化の度合いが高かったのだ。
「モーセ5書」という啓典(聖典)という知恵(知識)の塊(結集体)を持っていたという事もあったろう。
ユダヤ人は文化が高いという事で尊敬されていた。
人は優れた知識,教養,文化に憧れる。
そして決定的なのはカネ儲けの精神がズバ抜けていた事である。
だからアメル・マルドゥク王もユダヤ教を信じて改宗した。
この新バビロニアの王はユダヤ教を信じてユダヤ人たちを大事にした。


【アケメネス朝ペルシアのバビロン征服とユダヤ民族解放】

だがソコに再び大襲来が起きた。
紀元前586年のバビロン捕囚の48年後にキュロス2世という強い王が出てきた。
この王はイラン高原からバビロンに攻め下ってきたアケメネス朝ペルシアの初代国王である。
このキュロス2世が戦争に強かった。
だから周りの小国が貢ぎ物で服属して強力な帝国が形成される。
戦争が強い新興帝国は北の高原から産まれる。
馬を豊富に飼育して持っているからだ。
古代の戦争は馬が必要である。
この時代の帝国は10万頭ぐらいの騎馬で攻め下りてきた。
アナトリア(トルコの中央部)のヒッタイト帝国(紀元前1680年〜紀元前1200年)も強かった。
この頃の戦争は馬が引く戦車による衝突だ。
だから多くの優秀な馬を育てた遊牧民族が戦争で勝つ。
アケメネス朝ペルシアが紀元前538年にイラン高原から新バビロニア帝国にドドっと騎馬隊で攻め込んで滅ぼした。
首都はペルセポリスというペルシア高原にある都市だ。
ペルシア軍は,この後グルっとシリアを回ってユダ国まで来た。
このペルシア高原からドドっと攻め込んできた遊牧民の王であるキュロス2世が,紀元前539年にバビロンに囚われていたイスラエルの民に「もうオマエたちは帰っていいぞ」と言って帰還許可を出した。
キュロス王にしてみれば自身はバビロンからシリア,エルサレム,エジプトまでも支配したわけだから全てが属国だ。
ユダヤ人を自国に帰して繁栄させ,多くの税金を払わせようという考えだったかもしれない。
こうしてユダヤ人たちはバビロンからパレスチナの地に帰っていった。
だが帰ったのは1万人ぐらいで,ダニエルたち残りの4万人は居残った。
帰還した者たちはエルサレムの神殿を綺麗に造り直した。
ココからが第2神殿時代だ。


【バビロンに残った者たちがユダヤ教を守った】

紀元前586年の捕囚以来,バビロンに移住したユダヤ人たちは商業,カネ儲けの才能に長けていた。
そして税金の取り立てが上手かったため,とても王に愛された。
バビロンに残った者たちはバビロンの大都会の華美な生活が大好きだった。
だからエルサレムに戻らなかった。
それで自身らユダヤ教の信仰も守った。
このバビロンに居残ったユダヤ人で王の友になった者たちが,この後,紀元前490年にバビロニア・タルムードを作った人々になっていく。
彼らはバビロンに居ても土地を所有できなかったため商売で生きるしかなかった。
カネ儲けと過酷な徴税の才能で王にベッタリくっ付いて大事にされた。
ユダヤ教を信じる者たちはカネ儲けを罪悪視しない。
穢い事だと思わない。
他の宗教はカネ儲け,商業活動は汚れた事だと考えていた。
ユダヤ人には最初から,そういう考えがない。
だから彼らは生き延びた。
”資本主義の精神はユダヤ教徒によって産み出されたのだ“
この事を自分,峯岸は,2019年に論文集として書いた。
簡単に解説すると合理と理性の重視,すなわちratio(合理)とreason(理性)を崇拝する事が,ユダヤ思想の中心部分であり本体である。
このratio(レイシオ),reason(リーズン)こそ人類(すべての人間)が片時も逃れる事の出来ない強欲と拝金の思想の根本である。
人間は日本人でも口では「カネよりも愛が大事」と綺麗事を言う。
貴方も含め貴方の周りもそうだろう。
それなのに年収だの学歴だの身長だの家柄だのとスペックに拘る。
自分,峯岸は,この綺麗事を言う者が反吐が出るほど大っ嫌いだ。
「何がカネより愛だペテン野郎!(ウブなネンネのフリしやがってカマトト女!)」とハッキリ言う (笑)
正直に素直に「俺はカネ儲けして稼いでカネ持ちになってモデルと付き合いたい!」と言う者の方が人間らしくて信用できる。
愛など幾らあってもメシは食えない,家賃は払えない。
今の日本人こそカネ儲けの精神をユダヤ思想に学ばなくてはいけない。
「増税メガネ」と岸田文雄をディスってる暇があるなら,この強欲と拝金のカネ儲けの精神をユダヤ人から学びなさい。
自分,峯岸は,ずっとユダヤ人を「カネを産み出す天才」だと言い続けてきた。
なぜ彼らは稼ぐ事が上手いのかを研究してきた。
ソレは金融に繋がるためココでは触れない。
「アジアのユダヤ人」と呼ばれる中国の温州人(浙江省の温州商人)も商才に長ける。
自分,峯岸は浙江省出身の中国人の客や友人がいるので彼らを観察しているのだが,やはり漏れなく商売が上手く,且つ頭脳が良く日本語も英語も堪能である。
こういう中国人がスポンサー含めW杯の現地に多数,来ている。

紀元前539年にバビロン捕囚から1万人ぐらいがイスラエルに帰り,破壊された神殿を建て直した。
ペルシア帝国に支配されたエルサレムは,この後アレクサンドロス大王のギリシア(ヘレニズム)に支配された。
それからポエニ戦争(ローマとカルタゴ,フェニキアとの戦争)だ。
紀元前264年から紀元前149年まで115年間も続いた。
この戦いはローマがフェニキア(カルタゴ)に勝利した。
この後,北イラクの辺りにパルティア帝国というのが勃興した。
ユダヤ人たちは,このパルティアに頼ってアレクサンドロス大王の家来だったギリシア人の帝国(セレウコス朝シリア)の支配から逃れようとした。
この頃(紀元前168年)ローマ人がギリシア(アテネ)を陥落させたので,その隙に独立しようとした。
この時ハスモン家という指導者の家柄が現れる。
紀元前141年,ハスモン家がユダヤの王を名乗った。
だが,そうは上手くいかなく,ローマ帝国によって支配された。
そして100年が経ちイエスがエルサレムに現れた。
そのイエスも紀元後30年に殺され,その36年後の紀元後66年に第1次ユダヤ戦争が起きた。
ユダヤ人たちが激しく怒り暴動を起こしてローマ軍に立ち向かった,激しい民族解放戦争だ。
ユダヤ人が立て籠ったエルサレムの神殿の丘(至聖所とソロモン神殿)は,この戦争で陥落してローマ軍によって徹底的に破壊された。
コレがユダヤ人たちにとっての第2神殿の崩壊である。
コレ以降,現在に至るまでユダヤ人は神殿の丘を取り戻していない。
この時に嘆きの壁(祖国を失った者たち)の思想が出来た。
だから現在,第3神殿(を建設しよう)運動(ラビ・カハネ主義)という,ユダヤ人の中でも最も右翼原理主義の者たちがいる。
彼らを今のイスラエルの首相のネタニヤフたちは抑えつけている。
第1次ユダヤ戦争(紀元後66年〜70年)の時に捕虜になったユダヤ人の指導者の一人でフラウィウス・ヨセフスという人がいた。
この大秀才のユダヤ人がローマで『ユダヤ戦記』を書いた。
コレがギリシア語で書かれて今に伝わっている超一級の歴史資料である。
この戦争が終わった年の紀元後70年からをDiaspora(大離散)と言う。
生き延びたユダヤ人の有力者たちは外国の地に逃れ出ていった。
そうしないとローマ兵に殺されてしまう。
だがユダヤ人たちは62年後に再び蜂起した。
ソレが紀元後132年の第2次ユダヤ戦争だ。
指導者の名からバル・コクバの反乱とも呼ばれる。
ローマ人が「私たちローマの神を崇めよ」と強制したためユダヤ人たちが怒って反乱を起こした。
ギリシアとローマの支配がユダヤ人に押し付けたHellenism(ヘレニズム)に強く反発,対抗し,Judaism(ジュダイズム。ユダヤ教,ユダヤ思想とも訳せる)が産まれた。
だからユダヤ教がハッキリと成立したのは紀元後200年代である。
この時に旧約聖書(モーセ5書)とミシュナ・タルムードが作られた。
ラビたちによってギリシア語で書かれた。


【旧約聖書が書かれたのは新約聖書の後】

ココで大きな疑問が湧いてくる。
定説では旧約聖書が最初に成立したのは紀元前400年代から紀元前300年代で,ヘブライ語で書かれていたとされる。
おかしくないですか?
直前に記したとおりユダヤ教がハッキリと成立したのは紀元後200年代である。
この時に旧約聖書(モーセ5書)が作られた。
この時にRabbi(ラビ)いう初期の学者たちが出現している。
このラビたちがギリシア語で書いた。
だから旧約聖書の成立は新約聖書がローマでギリシア語で書かれた紀元後60年より更に100年以上も後だ。
220年ごろにミシュナ(口伝律法)が,そして390年ごろに「口伝タルムードがラビたちによってエルサレムで本として編まれた」と定説でなっている。
口伝タルムード(戒律書。ユダヤ教徒が守るべき生活規範を定めた解釈書)の,その初期のモノを「ミシュナ」という。
このタルムード(戒律集)が書かれた時に旧約聖書(モーセ5書)本体も編まれたのだ。
紀元前1250年のモーセ,ヨシュアからの言い伝え,言行の伝えは,ずっと残っていただろう。
だがソレらが聖典(啓典)の形に纏められたのは,その1400年後の紀元後200年代である。
だからモーセ5書にはイエス伝(新約聖書)の影響がアチコチに出ており,他の大きな民族や帝国の制度や宗教(呪術)などからの借り物が多く集められている。
旧約聖書の「創世記」の各所にユーフラテス川の向こうの大王,すなわちハンムラビ王の逸話が出てくるのだ。
世界史年表では「旧約聖書は紀元前250年に(エジプトの)アレキサンドリアで,エジプト王(プトレマイオス3世)の命令でヘブライ語からギリシア語に訳された」となっている。
コレをSeptuaginta(セプトゥアギンタ。70人訳聖書ギリシア語訳旧約聖書)という。
コレとラテン語訳聖書のウルガタ聖書(ヒエロニスム作。400年ごろ)が有名である。
だが旧約聖書がヘブライ語からギリシア語に翻訳されたというのは嘘だ。
なぜならヘブライ語が出来たのは,ずっと後だからだ。
古代へブライ語がモーセの頃(紀元前1200年)からあったというのは嘘だ。
ヘブライ語(アルファベット文字)が出来たのは200年ぐらいで,前述した旧約聖書が初めてギリシア語で書かれた時である。
つまり新約(イエスという男の物語)も旧約も,初めからギリシア語で書かれている。
イエス(紀元前6年生まれ。紀元後30年に処刑された。36歳で死去)時代は,古代ローマ帝国が世界覇権国である。
カナーンの地(今のイスラエル=パレスチナ)は当時ローマ人に支配されており,ローマ軍が駐屯した。
この時の上級のローマ人やローマ軍人たちはギリシア語で文章を書いている。
イエスも上級の人間であったから,一般的だったアラム語(古シリア語)の他にギリシア語も話して書いた。
北のナザレ(この近くのツポリにローマ軍の司令部があった)産まれのイエスは,ただの貧しい大工の子ではなく,それなりの家の子だった。
それなりの学識と教養がなければ周りの人たちが教えを聞かない。
イエスはカネ持ちや役人(村長)の家に招かれた時はギリシア語で話している。
最近になって世界史学者たちが「アラム語は古シリア語だった」と言い出している。
アラム語と古シリア語は同じだ。
だから今のシリアに居た人々が中東全体の言語の作り手の中心で,ソレが海の民のフェニキア人である。
フェニキア文字がアルファベットの元祖である。
因みに今のイスラエル人(公用語はヘブライ語)とパレスチナ人(公用語はアラビア語)は口語(話し言葉)で互いにアラム語を話して通じる。
自分,峯岸は,この事を2019年にイスラエルとパレスチナを視察した時に知り衝撃を受けた。
歴史の真実がハッキリと目の前の現実としてある。


【ユダヤ人の大離散は無かった】


今のイスラエルのユダヤ人は全員へブライ語を話す。
この現代へブライ語はE・ベン・イェフダ(1858年〜1922年)という言語学者が作った。
この他に今もIdesh(イディッシュ。くずれドイツ語=方言)を話す東欧系1世のユダヤ人たちがいる。
彼らイディッシュ語を使う人々はエルサレムの旧市街の北方に纏まって居住している。
最も古い帰還者である1880年代に次々と東欧から来た人々だ。
第1次ユダヤ戦争終結の紀元後70年,あるいは第2次ユダヤ戦争終結の紀元後135年からの,ユダヤ人の世界各地への移住の,どちらを大離散と言うのか。
この時期から世界中にユダヤ人が流れ出していったとするのが歴史の通説だ。
だが「そんな大離散など無かった」と『The Invention of the Jewish People』(2008年刊。日本語版は『ユダヤ人の起源』)の著者でテルアビブ大学教授のシュロモー・サンドが書いている。
確かに反抗したユダヤ人の有力者たちは逃げただろう。
そのまま居たら殺される。
だが一般庶民のユダヤ人たちは残っていた。
だからペリシテ人に戻ったのだ。
ユダヤ教徒はエルサレム周辺から殆ど消えた。
抵抗するユダヤ人はローマ軍に殺されるからだ。
それでも10万人〜20万人のユダヤ人たちはヒッソリと現地に留まっていた。
同時に古くから現地人であるペリシテ人=パリサイ人(今のパレスチナ人)も,そのまま生きている。
エジプトから入植して移住してきた3800年前から居る。
エジプト史で「ヒクソス人」と呼ばれるパレスチナの遊牧民が180年間,下エジプトを占領,支配した時代(紀元前1720年〜紀元前1540年)を加えて3800年とする。
ペリシテ人=パリサイ人=パレスチナ人は,ずっとユダヤ人と混住,共存している。
この現実を変える事は誰にも出来ない。


◆聖地エルサレムは3大宗教の争奪地帯◆

【強固な意志のユダヤ人とイスラム教化したパレスチナ人】

ここまで述べてきたとおり,ユダヤ人とパレスチナ人は同じエジプトから来た同種の民族で外見も区別はつかない。
現代に近い1880年からは東欧やドイツなどからの白人ユダヤ教徒の移民がイスラエルに押し寄せた。
今のイスラエル国民の9割は,この東欧(ポーランド,ハンガリー,ドイツなど)やロシアやアメリカにも渡ってユダヤ教に改宗した,7世紀〜10世紀に今のウクライナの黒海沿岸地域で栄えたハザール王国のハザール人の末裔である。
このユダヤ教に改宗したハザール人をアシュケナージ・ユダヤ人と言う。
ユダヤ人は「私たちはモーセが私たちの神(ヤハウェ)と約束した契約によって神に選ばれた民族である」と強大に信じている。
だから,どんなに周りの民族から迷惑がられ,嫌われてもユダヤ教徒は決してめげない。
この強固な宗教的団結と神との約束を守る意志は特別なモノである。
コレが「神と人間の契約の思想」である。
因みにコロナ・ワクチンは,この思想で打っている。
コレに対してパレスチナの先住民であるパレスチナ人(ペリシテ人=パリサイ人)は朗らかだ。
彼らは別の宗教と言語を選んだ,イスラム教とアラビア語である。
630年代のパレスチナに,成立したばかりのイスラム教が広がりパレスチナ人はイスラム教徒となりアラブ人となった。


【エルサレムを聖地にしようとしたイスラム教徒たち】

イスラム教が成立した年を「ヒジュラ元年」と言う。
西暦では622年にムハンマド(マホメッド,570年〜632年)という男が,今のサウジアラビアのヒジャーズ地方(メッカの北方一帯)に出てきた。
彼は高い精神性を持ち純粋な思考で人々に語った。
そしてムハンマドは預言者であり神アッラーの言葉を人々に繋ぐ人として徐々に認められるようになった。
そしてイスラム教は622年から爆発的な信仰の広がりを見せた。
この爆発的な広がりは,この600年前のイエスが死去した直後の40年代からのキリスト教と似ている。
ムハンマドの教え(イスラム教)は,まずベドウィン族と呼ばれる砂漠の民(商業民)の間に広がった。
そして,それから100年も経たないうちに猛烈な勢いで中東どころか中央アジア一帯,北アフリカ,インド,そして東南アジア(インドネシア)にまで広がっていった。
ムハンマド(マホメッド)はイスラム教成立の10年後(632年)に,エルサレムの神殿の丘の岩のドーム(アラビア語でクバ・アルサクラ)から天に昇天した。
イスラム教徒たちは教祖ムハンマドの死後,エルサレムをメッカ,メディナに次ぐ3番目の自身らの聖地とする事を決めた。
ムハンマドはエルサレムに来ていない。
死んだのはメディナだ。
それなのに「エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある」と彼らは言い出した。
この事にユダヤ人が怒っている。
「後から来て勝手な理屈で私たちの神聖なる至聖所,聖なる礼拝所にモスクを建てやがって!」となり,この対立と怒りが今に連綿と続いている。
イスラム教はユダヤ教とキリスト教の真似(フォロワー)である。
尊敬していたからこそ真似てしまった。
イエスの死から600年も後に出来た宗教だから大きな影響を受けたのは自然とも言える。
エルサレムの至聖所は,この神殿の丘の中心に紀元前1000年(ダビデ王の頃)にユダヤ教最大の聖地として建てられた。
ソコに紀元後691年(ウマイヤ朝の第5代カリフで名君のアブドゥル・マリクの時)にイスラム教徒が岩のドーム・モスク(クバ・アルサクラ)を建てた。
この事はイスラム教徒も重々と分かっている。
現在の黄金の屋根を頂く,輝くブルー・タイル(トルコ石のターコイズ)八角の回廊のモスクは,その後のオスマン・トルコ帝国によって更に綺麗に建て替えられた。
3200年を遡ればユダヤ人たちの方に言い分がある。
自分,峯岸は,691年という,2500年も後になってから勝手に同じ地にイスラム教徒がモスクを建てたのはダメだと思う。
だがユダヤ教,キリスト教,イスラム教の,この3つの宗教の神は同じ神で,全く同じ神を拝んでいるという。
自分,峯岸は,この事を先生(師匠)である碩学,小室直樹(2010年9月逝去)から習った。
ムハンマドたちは,初めはエルサレムの神殿の丘に向かって拝んでいた。
624年(54歳の時)にムハンマド自身が「以後はメッカのカーバ神殿(ココには黒い隕石が置かれていた)を拝む」と決めた。
それまではエルサレムを拝んでいた。


【十字軍の侵攻は2文明間の衝突】

624年から時代が400年下って1100年代に,中東で歴史上の大事件が始まった。
1096年からの十字軍(クルセイダーズ)の運動だ。
西欧キリスト教の国々が現在で言う多国籍軍を束ね,陸路あるいは船団を組んで中東に攻め込んできた。
自身らの神であるイエス・キリストが死んだ地である聖地エルサレムを,アラビア人(イスラム教徒)から奪還するぞと,一気呵成に攻め込んできた。
人類の歴史は狂気と熱狂とイベント(催し物)に満ちている。
この頃は中東アラブ世界全体でイスラム教が強くなっていた。
同時にキリスト教の西洋白人たちも負けていなく躍動した時代だ。
それで両者は激突した。
西欧諸国の王子たちの中で暴れ者の元気な者たちが「我こそは英雄にならん」と,猛り狂うような騎土道精神で「我らが聖地エルサレムをイスラム教徒どもから奪還するぞ!」と十字軍は動き出した。
今で言う国際的な軍事行動だ。
コレは大きな文明と別の文明の間の文明間の衝突である。
サミュエル・P・ハンチントンの名著『The Clash of the Civilizations』の書名だ。
このハンチントンの著作の日本語版が数作リリースされているのだが,タイトルが全て『文明の衝突』となっている。
だが「文明の衝突」では意味が不確かだ。
一つの文明と別の文明の衝突だから「文明間の衝突」としなければいけない。
1095年11月にローマ教皇ウルバヌス2世が攻撃命令の宣言文を出した。
西欧の王や息子たちは兵隊を何千人も引き連れ,レバノンやパレスチナの港へ船で向かい上陸した。
更に内陸のエルサレムに向けて進撃した。
そして激しい戦いが続いた3年後の1099年に十字軍がエルサレムを制圧して占拠した。
この時に西欧白人たちによるエルサレム王国を創った。
ボールドウィン(ボードワン)という者が国王に就いた。
ところが最も勇猛だった突撃隊長はノブゴロド・ド・ブイヨンというノルマン人(ヴァイキング)の王だ。
彼はシシリー島(今のイタリアの自治州)を占領していた。
この男が「私は王にはならない」と譲った。
十字軍の主力の兵隊たちはテンプル騎士団だった。
彼らは初めの第1次十字軍の時から参加した。
彼らは一般庶民なのに意気盛んに志願兵(ボランティア)として従軍した人々だ。
1119年にエルサレム国王の軍隊として,神殿の丘の中の南側であるソロモン王の神殿があった場所(今のアルアクサ・モスクの場所)でテンプル騎士団を結成した。
自身らで再建したソロモン神殿を兵舎にして駐屯し,神殿の丘とエルサレム全体を防衛する義務を自ら負った。
対してエルサレム王国(1187年の陥落まで88年間続いた)のボールドウィン国王は何処に居城したかと言うと,キリスト教徒の聖地である聖増墓教会の近くにあるダビデの砦に居た。


【十字軍はアラブ世界への侵略戦争】

再建した神殿を守るテンプル騎士団は日本の武士階級のような人々である。
貴族の従者だった者たちだ。
彼らは海運業の貿易や巡礼者の保護や病院船,両替商(初期の銀行業)までした。
エルサレムの周りには多数の敵意に満ちたイスラム教徒が居た。
一時は隆盛を誇ったエルサレム王国だったが,いかんせん他人の国への遠征軍なため補給が大変で長く続かない。
エルサレム王国の建国から88年経った1187年,全イスラム軍を率いたサラディン(サラーフ・アッディーン)にヒッティーンの戦いで大敗北してエルサレムは陥落した。
この後の1200年代は,イスラエルに駐留した西洋白人軍は,ずっとボロ負けしている。
海辺の港を幾つか城砦都市にして守るのが精一杯になった。
そして1291年に終わった。
その頃の十字軍は形の上ではローマ教皇の命令で動いていたが,実際はカネ目の物を求めて略奪をした。
経済の法則に従わなければ済まない。
軍資金を調達して確保し,軍隊を維持しなければいけない。
現地まで来た西欧諸国の王たちは,なんと家来であるテンプル騎士団から借金をした。
主力であるテンプル騎士団も防戦に窮々とし,1291年の第4回十字軍戦争で大敗(アッコン港の陥落)した。
こうして十字軍は惨めに撤退して欧州に帰っていった。
だから十字軍運動とは,200年間(1096年〜1291年)に及ぶ,我らがイエスが昇天した地であるエルサレムの聖墳墓教会を守る為の,西洋白人によるアラブ世界への干渉,侵略戦争である。
この後,西洋白人は600年以上,軍事力でエルサレムに戻ってくる事はなかった。
ようやく1918年の第1次世界大戦の時に,大英帝国(イギリス)がオスマン・トルコ帝国を北に追い払いながらエルサレムに入城している。
大英帝国の軍のアンレビー将軍のエルサレム入城,そしてダマスカス入城である。
この大英帝国の軍の中に砂漠の英雄,アラビアのロレンスのトーマス・エドワード・ロレンス中佐がいたのだ。


【テンプル騎士団がフリーメイソンの原型】

テンプル騎士団(1119年結成)やマルタ騎士団(病院船を担当)や聖ヨハネ騎士団の騎士とは,従者の階級であり,荷物運びや駐屯地(砦)の運営をした。
巡礼者を保護する事を名目にローマ法王から特別な認可(特許状)を貰って出来た団体である。
より正確にはシオン修道会というテンプル騎士団の中心組織があり,コチラは1099年に結成された。
やがてテンプル騎士団は軍資金を欧州中の王たちにまで提供(融資)する。
カネ貸し業や両替商(初期の銀行業)も始めた。
多数の自前の船を所有して海運業(貿易)も手掛け,武器や弾薬の輸送や販売も盛んに行った。
欧州の王たちは十字軍への出動の軍役で大きな借金を抱えた。
テンプル騎士団からの大借金の返済に耐えられ
なくなったフランス国王フィリップ4世が怒り心頭に発し,突如テンプル騎士団の幹部たちを全て逮捕して拷問に掛け「悪魔と繋がった」という罪名で火炙りの刑にした。
コレが1307年の魔の13日の金曜日事件だ。
他の欧州の王たちもコレに倣った。
この時からテンプル騎士団は欧州の都市で地下に潜り,その残党が欧州中に秘密結社のネットワークを作った。


【ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の支配】

十字軍が去った後,1300年ぐらいからオスマン・トルコ帝国が中東アラブ世界を支配した。
それより少し前の1258年にバグダッド(今のイラクの首都)でアッバース朝というアラブ世界全体を支配したイスラム帝国が滅んだ。
東から攻めて来たモンゴル軍(フラグ・ハーン)に制圧された。
アッバース朝のカリフ(ムハンマドの血を継ぐ教主)は,モンゴル軍をバグダッド城内に迎え入れようと自ら城門を開いたが,モンゴル軍はカリフの権威を認めなかった。
アッバース朝のカリフにしてみれば,モンゴル人という東方からの野蛮人を自身らの文明の高さで上手く騙して手懐けようとした。
だがモンゴル人の方が一枚上手で,バグダッドに入ってきたモンゴル軍はカリフ(イスラム教徒にとっての最高の地位)を馬で蹴り殺した。
こうしてバグダッドは陥落したがダマスカスは持ち堪えた。
この時モンゴル軍の先鋒隊は地中海にまで押し寄せ十字軍が立て籠る港の要塞を見た。
この時イスラム勢力の中のマムルーク兵(去勢軍人)にバイバルス1世という強い軍人が出て来て,1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を大破した。
この後バイバルスは1265年に十字軍も打ち破っている。
そしてマムルーク(奴隷軍人)王朝を創った。
モンゴル帝国の脅威が1300年ぐらいに徐々に失くなりオスマン・トルコが台頭し,英雄オスマン・ベイが1299年に王朝を創った。
オスマン家は1000年ぐらいからトルコに出てきた一族である。
オスマン家はカリフにはなれないが,スルタン(皇帝)を名乗った。
1918年(第1次世界大戦での敗北)までの600年間,中東アラブ・イスラム教世界全体を支配した。
コレが今のトルコのエルドアン政権の強硬な感じに表れている。
自分,峯岸の読者は理解あるとおり,今のトルコはオスマン帝国の復興(復権)を目指している。
だから,これからトルコはBRICS同盟として再び隆盛していく。
日本人はオスマン帝国の事を知らない。
欧米中心の歴史観しか習っていないため,脳をヤラれ毒されているからだ。
オスマン・トルコ帝国の皇帝は200年ぐらいかけて欧州を奪りにいった。
そして1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを陥落させた。
ハンガリーやポーランドにまで攻め込み,コレが後にセルビア人(南スラブ人)に虐められるサラエボ人(イスラム教徒)たちの悲劇を生んだ。
バルカン半島諸国には今もオスマン帝国による,この地域の支配の時からのイスラム教徒が居る。
パレスチナも1516年からはオスマン・トルコ帝国に支配されるようになった。
ビザンツ(東ローマ)帝国は元ローマ人なのにギリシア人になってしまった,ギリシア正教(ココからロシア正教が分かれる)を信じるキリスト教徒たちの帝国だった。
ビザンツ帝国は1453年のコンスタンティノープルの陥落で滅亡した。
エルサレムの神殿の丘は691年にイスラム教の寺院として建て直され,イスラム教の2つのモスクになった。
1099年には十字軍の西欧人たちにより,このモスクも破壊された。
1522年にオスマン・トルコのスレイマン大帝によりモスクは再建された。
この時に壁が美しいトルコ式の青いタイルで張られ金ピカの黄金の丸屋根(ドーム)になった。


【イスラエル建国とイスラム教徒になったパレスチナ人】

更に時代が下って今から120年前(1898年)に,オーストリアのウィーンとフランスのパリにユダヤ人たちが結集した。
そして「もう私たちはエルサレムに還ろう。我らがイスラエル国を(3200年前に戻って)再建しよう。これ以上もう欧州やロシアでユダヤ人差別と迫害を受けながら生きるわけにはいかない」と決断した。
そして「エルサレムを奪還して私たちの国を創ろう」「シオンの丘に戻ろう」(シオニズム運動)が始まった。
このシオニストたちによるユダヤ人の国の建国が1948年5月14日のイスラエル建国である。
だがアラブ人,イスラム教徒も負けてない。
パレスチナ人は630年代からイスラム教徒になりアラブ人になった。
今やイスラム教徒は世界中に18億人いる。
イスラム教は他の4大宗教と異なり今も増殖中(信者が増加中)である。
東南アジアのマレーシアやインドネシアもイスラム教国家で,インドネシアは2億人のイスラム教徒(ムスリム)を抱える世界最大のイスラム国家である。
この18億人のイスラム教徒の力は侮れない。
当然950万人のイスラエル人では対抗できないが,欧米には強力なユダヤ人支援勢力がいる。
だからユダヤ人=ヘブライ人=イスラエル人も強い。
ユダヤ人はパレスチナ人が先住していたカナーンの地(今のイスラエル=パレスチナ)に「私たちはユダヤ民族だ」と言い張って新しい民族(国民)を創った。
パレスチナ人から土地を奪り上げた。
この争いが2023年の今も続いている。


【人類3200年の対立は続く】

このように3200年経ち,まだ同じ事をしている。
こう考えると人類の歴史は3200年間(もっと大きくは5000年間)全く変わっていない。
人類(人間)は,この程度の愚か者なのだ。
神殿の丘は何度も破壊されて誰も寄り付かず何十年も荒れ果てて放置されていた時代が3200年間に何十回もある。
欧州とアメリカにも居るユダヤ人たちが支援するシオニズム運動で「元々イスラエルは私たちの国だ」と言っても,アラブ人が聞くわけがない。
両方それぞれ言い分がある。
そして実際はパレスチナ人(元はエジプト人でエジプトから来た人々)と,ユダヤ人(同じくエジプトから来たのに強固に自身らユダヤ教徒を名乗る人々)が共存して雑居して生きている。
パレスチナ人たちはユダヤ人が経営する会社や工場や農園で働いている。
今のユダヤ人たちは殆どが西洋人で頭が良くてカネ儲けが上手いため,欧米白人たちと全く同じビジネスが出来る。
繰り返すが自分,峯岸が驚いたのは,パレスチナ人とユダヤ人は文字が違うのに話し言葉が互いに通じる事だ。
今のイスラエルにはアラブ人だけどキリスト教徒も居る。
パレスチナ人なのに歴史的にキリスト教徒だという人たちだ。
商人に多い。
ユダヤ人は神殿の丘の手前の城壁である嘆きの壁で「神殿は私たちのモノだ。私たちの聖なる場所だ」と呻吟している。
この後100年200年300年経ってもパレスチナ(イスラエル)の現状は,このままだ。
ずっと対立は続く。
だが500年経つと人類(人間すべて)は人種,宗教というモノが,どうでもよくなってしまう。
その時に,この根深い対立(3200年間の対立問題)は消えて無くなる。


第3章
<ギリシアに隠された欧州史最大のスキャンダル>

◆ギリシアとフェニキアは一心同体だった◆

【重なり合っているギリシアとフェニキアの植民地】

アケメネス朝ペルシア帝国のキュロス2世が強大になり,紀元前536年にイスラエル=パレスチナも占領した。
次の王がダレイオス1世(ダリウス1世)である。
ダレイオス1世が紀元前520年にオリエント(中東)を統一した。
父のキュロス2世よりも強かった。
親子2代で有能な経営者が出ると財閥になる。
アケメネス家のペルシアは一気に世界帝国になり,この後ペルシア帝国は200年間,栄えた。
その後ギリシア(マケドニア)にアレクサンドロス(アレキサンダー)大王が出てきて,紀元前333年にイッソスの戦いでペルシア帝国は敗戦して滅んだ。
ペルシア人は高原に居住する遊牧民である。
ドドっと20万人の騎馬隊と50万頭の馬を率いて西方のバビロンに向かって攻め下った。
紀元前539年,世界の首部バビロンを陥落させて新バビロニア帝国を攻め奪った。
この時バビロンに捕囚されていたユダヤ人たちに「オマエたちはイスラエルに帰っていいぞ」と帰還の許可を出した。
残る者が多かったが帰った。
そしてエルサレムの神殿を建て直した。
ダレイオス1世が紀元前490年にペルシア戦争を始め,更に地中海まで支配を目指してギリシアに攻め込んだ。
日本人は教育機関で,この戦いを「ペルシア戦争」と習った。
だから何の事だか分かっていないのだ。
欧州白人目線で言うからだ。
正しくはペルシア・ギリシア戦争と呼ばなければいけない。
日露戦争(1904年〜1905年)のように,戦う2つの国を並べて表記するのが正しい戦争名である。
日本人は,こういう人類史学の基本を学習しないから(教えられないから)無知なのだ。
世界史の教師と御用学者どもの怠慢である。
だからペルシア・ギリシア戦争と言う。
ペルシアは世界帝国であり,ギリシアは都市国家の連合体に過ぎず,デロス同盟を作って大国ペルシアからの侵略,侵攻に備えた。
この時まだローマは弱小国である。
地中海はギリシア人とフェニキア人によって共同で支配され,植民地がスペインや北アフリカまで点々と作られていた。
実態はギリシアとフェニキアは同盟を通り越した同一の国家,一心同体だった。
自分,峯岸による世界史学に向かって投げかける問題提起だ。
なぜなら,この2国の植民都市は互いに近くにあるか重なっているからだ。
紀元前168年,ローマが強大になり,この2国(ギリシアとフェニキア)を攻め滅ぼした。
この紀元前490年のギリシア・ペルシア戦争は,ギリシアが簡単に負けなかった。
アテネとスパルタを中心にしたギリシア人が団結(デロス同盟)してペルシアのダレイオス1世の軍隊を打ち破った。
その時の逸話の一つがマラトンの戦いだ。
マラトンでの戦勝を伝令の男が「戦争に勝ったぞ」とアテネまで走り続けて知らせ,バタリと倒れて死んだ。
ココからマラソンという競技が産まれた。
この10年後の紀元前480年にペルシア帝国は再び攻め込んできた。
この時ペルシアはダレイオス1世の息子のクセルクセス1世に代替わりしている。
この時テルモピレー(テルモピュライ)の戦いというのがあった。
ココでレオニダスというスパルタ王国の王が300人の兵士と共に玉砕した。
テルモピレーの山の砦に立て籠り,3日間,戦い続けて全滅した。
東洋の野蛮な専制君主であるペルシア皇帝に勝ったという事で,以後このレオニダス王のテルモピレーの戦いが欧州白人にとって愛国の英雄の象徴になった。
後のアメリカ合衆国だと,テキサスのサンアントニオのアラモの砦の戦い(1836年)で,メキシコ共和国軍と戦い玉砕したデヴィー・クロケットたちがレオニダス王と同じような英雄になった。
アメリカ軍の援軍がメキシコ(本当はスペイン帝国軍)を打ち破って直ぐ近くまで来ていたのだが,わざと彼らを見殺しにしたのだ。
そしてクロケットたちテキサス独立運動の過激派たちを上手く処分(敵に処分させる)してテキサスを連邦政府に併合した。


【ギリシア文明はフェニキアから始まった】

ギリシアと同盟国であったフェニキアは共にローマと戦い続けた。
フェニキア(ポエニ)の植民地でローマが死ぬほど憎んだのがカルタゴ(ポエニ戦争。紀元前264年〜紀元前146年)だ。
帝国になる前のローマと200年ぐらい戦争した。
シチリア島から200km南にある(今のチュニジアの首都チュニスの近く)カルタゴの本国であるフェニキアは,今のレバノンである。
フェニキア=カルタゴ同盟軍の植民地はスペインにもあった。
ココから英雄ハンニバルが出てきた。
後のコンスタンティノープルにもフェニキア人の大きな居留地区(港)があった。
ギリシア人とローマ人は文字は違うが話し言葉は通じている。
ギリシア文字は今の旧ソ連諸国で使われているキリル文字で,アルファベットだがRとかが反転したような字だ。
アルファベットはフェニキア文字である。
ギリシア語もラテン語も,その後の欧州諸語もヘブライ語もアルファベットである。
アラビア語は違う。
だがアラビア語を話しているパレスチナ人とへブライ語を話しているイスラエル人(アシュケナージ・ユダヤ人)は互いに話し言葉が通じる。
ギリシア人とローマ人が話し言葉では通じている事と同じだ。
だからイスラエルとパレスチナは実質,同じ民族という事になる。
書く文字は異なるが話し言葉は通じる。
フェニキア文字から「1,2,3,4」という今の数字も産まれた。
フェニキア人は商業民族だから計算力があるため直ぐに十進法も出来ただろう。
大思想家のフリードリヒ・ニーチェが人間の生き方の理想としたディオニュソス王と,お后のアリアドネーはギリシア神話に出てくる。
このディオニュソスの生き方は快楽を肯定して人生を楽しむ事,苦労と隷従と忍耐を拒否する事だ。
この人生の快楽重視の生き方の発祥の地がフェニキアである。
だからディオニュソス王の生地はアナトリア(今のトルコ)やフリギアではなくフェニキアだ。
だから後年ギリシア文明と言われるモノは,実はフェニキアが発祥(紀元前1200年ぐらいから起こった)である。
この事を自分,峯岸は,尊敬するドイツの大思想家のフリードリヒ・ニーチェの研究をしていた時にハッ!と分かった。


【ギリシア(アテネ)を陥落させたローマ】

ギリシア・ペルシア戦争の後,200年経って紀元前300年ぐらいからカルタゴ(フェニキア人)とローマ人の戦いが激しくなる。
「カルタゴ戦争」とは,真実はローマvsフェニキア(ギリシア)戦争である。
シチリア(シシリー)というイタリアの南の島はマフィアという自衛の生活共同体が今もある島だ。
19世紀初頭にアメリカに移民として渡った貧しいシシリー人たちは「我々が生きる大義」という意味の「Causa Nostra」(コーザ・ノストラ)という自衛組織を創った。
シチリア島にギリシア人が植民都市を建設していた。
アグリジェントの遺跡が有名である。
イタリア南部と地中海の島々とスペインの海沿いも,ずっとギリシアの植民都市があった。
同時にフェニキア人の町もあった。
だから今のモナコ,ニース,カンヌ(この一帯をコート・ダジュールと言う)も,一番古くはギリシア人の植民地があった。
日本人は名前だけ知っているピタゴラス(イタリア南端の町で秘義の教団を創った)やアルキメデスという哲学者は,この頃そういう外地に居たギリシア人である。
ユークリッドとピタゴラスとアルキメデスの3人のギリシア人は数学の公理や物理学の原理を作った人たちだ。
彼らは植民都市に居て,ココが勃興したローマ人に攻め奪られていく。
ギリシアはフェニキアと固い同盟(本当は同体)だったため,ギリシアもポエニ(フェニキア)=カルタゴ戦争の時にローマに攻められてアテネが陥落した。
紀元前146年と紀元前168年の2回だ。
その300余年前,ギリシア・ペルシア戦争の後,50年ぐらいしてペリクレスという非常に優れた指導者がアテネに出現した。
この人が15年間ぐらい素晴らしい政治をした。
このペリクレスが元祖デモクラシー,民主政治の産みの親である。
この頃がアテネの全盛期でソクラテスも居た。
ソクラテスはペリクレス政権を支援して共にデモクラシー(代議制民主政治体制。デモクラシーはism=主義ではないため「民主主義」は誤訳)の為に闘った思想家である。
賢帝ペリクレス(紀元前495年〜紀元前429年)の民主政治は,寛容の精神と人格者である演説の力である。
今の欧米人は「ペリクレスとソクラテスによる元祖デモクラシーの正統の嫡子が私たち欧米人だ」と言いたいのだ。
「ギリシア・ローマ文明(4大文明の次の5番目の文明とする学説あり)が欧州・北アメリカ文明だ」と欧米人は言いたい。
だがギリシアを叩き潰したのは後進国(新興国)のローマである。
ココに人類史の大きなスキャンダルが隠されている。


◆アレクサンドロス大王の世界征服の事実◆

【世界の中心バビロンを目指したアレクサンドロス大王】

アレクサンドロス大王は紀元前333年のイッソスの戦いでペルシア帝国(アケメネス朝)を打倒した。
この2年後の紀元前331年に戦場から逃げたダリウス3世(アケメネス朝ペルシアの最後の王)が死去してペルシア帝国は滅んだ。
アレクサンドロス大王はダリウス3世が死去する前年(紀元前332年)にイスラエル=パレスチナに入っている。
抵抗を蹴散らしてエジプトに向かった。
パレスチナ=イスラエルは地中海沿岸の小さな土地であり,帝国どうしの戦争から見たらチッポケな領土である。
それなのに一神教を創り後の世界を大きく歪めた。
ユダヤ教,キリスト教,イスラム教,その思想が産物だ。
アレクサンドロスはエジプトに入り自身の名が付く都市アレキサンドリアを創った。
その年にアクサンドロスはエジプトから引き返し,紀元前331年に世界首都のバビロン(今のイラクのバグダッド)に入っている。
アッバース朝のイスラム帝国が762年にバビロンからバグダッドに都を移した。
だから5000年の人類史の中心はバビロン(バグダッド)である。
ギリシア,ローマではなく,バグダッドが5000年前からの人類の中心だ。
ギリシア・ローマ文明よりも更に2500年古いバビロンが世界の中心である。
大英帝国(イギリス)とアメリカ帝国が世界の首都として威張ったのは,この200年間の事だ。
アレクサンドロスはバビロンを目指して進んだ。
バビロンが世界の中心だからだ。
自身らギリシアよりもバビロンの方が大規模で大繁栄した大都会だったからだ。
アレクサンドロスはバビロンでアケメネス家の娘と結婚した。
アテネよりもバビロンの方が格が上だった。
彼は破竹の勢いで更に突き進んだ。
ソレが支配,征服だからだ。
相手を支配しなければ自身が支配される。
コレが人類(人間)という愚かな生き物を貫いている自然法則である。


【10年間,動き回ったアレクサンドロス大王】

自分,峯岸が高校の世界史の授業で使っていた教科書に「アレクサンドロス大王の世界征服」と載っていた。
いかにも欧米を中心とした観点だ。
自分,峯岸は持って産まれた能力で強烈な違和感を抱いていた。
「世界征服」などと大袈裟に言うが,実際は東方遠征でペルシア帝国の全領土を10年間ゾロゾロと動き回っていただけだ。
世界征服ではない。
そして家来の司令官(将軍)たちが「もうギリシアに帰りたい。飽きた。こんな神がかりの男に,いつまでも付いてられない」と,アレクサンドロスは将軍たちによる共同謀議(conspiracy theory)によって紀元前323年に毒殺された。
この後ディアドコイ戦争(後継者戦争。紀元前323年〜紀元前281年)という,アレクサンドロスの少年時代から一緒に育った仲間の幕僚の将軍たちが互いに戦争を始めた。
最も強かったのがセレウコスという将軍で,中東全域,すなわちペルシア(今のイラン)とメソポタミア,バビロニア(今のイラクとシリア)までセレウコス朝の領土となった。
セレウコス朝シリア(紀元前312年〜紀元前63年)は遊牧民のパルティアに攻められて滅んだ。
このパルティア帝国は80年ぐらいで,224年に次のドドっと攻め下るササン朝ペルシアに攻められて滅んだ。
ササン朝ペルシアは400年後の651年に熱狂と共に湧き起ったイスラム教の軍隊(サラセン軍)に敗れて滅んだ。
ササン朝ペルシアは430年も続いた。
パルティアもササン朝ペルシアも,ギリシア=フェニキアを滅ぼし西で強大になったローマ帝国と対決する。
何度もローマ軍に攻め込まれた。
だが攻め込んだ筈のローマ皇帝が何人か川で溺死したり捕まったりしている。
アレクサンドロス大王の他の家来たちは,その後も中東に居座り残っていた。
彼らは中央アジアやインド北部(ガンダーラ,カシミール)まで,アレキサンドリアという名のギリシア人が植民した都市を創っていった。
紀元前333年のイッソスの戦い後,イスラム教の熱狂が起きた622年までギリシア白人たちの植民都市が中央アジア一帯に残ったのだ。
だから今のクルド人やヤズイリー教徒という山岳民族は,アレクサンドロス大王が現地に遺していったギリシア人の末裔である。
自分,峯岸は,視察やW杯で世界中の人々と交流する中で,彼らの金髪や青い目の名残りにゾロアスター教の強い影響を感じた。
ただのイスラム教徒(スンニ派)ではない。
今のクルド人(4ヶ国に合計2600万人いる)は,アレクサンドロスが遺していった白人種である。


【人類史の中心は中東アラブ世界】

このように中東アラブ世界(ココが人類史の中心)を大きく捉えると人類史が大きく分かる。
日本人はギリシアやローマの欧州文明を中心に考えるから人類史が理解できないのだ。
コレは日本人の欧米白人文明に対する劣等感と強烈な羨望が由来である。
日本人がアメリカのベースボールとハワイに熱狂し,イタリアやフランスのファッション,文化に抱く強烈な憧れ(羨望)にハッキリ表れている。
自分,峯岸は,ココから意図的に離れて避けて生きてきたため,今の日本人の99%と対極に位置する。
欧州人が威張り出したのは,たかだか500年前の1500年代(16世紀)からだ。
欧州人による近代が始まり大航海時代(世界中を植民地にした)が始まった。
そして序章で述べたとおり21世紀の2000年代に入り,この海の時代が終わって陸の時代へ移ったのだ。
人類史の中心はバビロン(バビロニア。今のイラクのバグダッド)である。
そして北の一帯のメソポタミアだ。
チグリス川,ユーフラテス川の2つの大河沿いに中東の都市は建てられている。
イラクとシリアは近年(2014年6月から)ISIS(イスラム国)との戦闘で騒がれた。
各国からの難民が2000万人ぐらい発生し,このうち200万人が欧州へ渡り欧州が大混乱に陥った。
このように人類史が今も地球上の同じ場所で繰り返されている。
シリアからの難民の女性たちは西欧白人のような顔をしている。
同じアラブ人種なのに南のペルシア湾岸の人とは異なる。
このようにアレクサンドロス(紀元前333年)以来の白人種の移住の残影が21世紀の現代に続いているのだ。
日本にまで来た仏像はガンダーラ仏像(200年代に作成)の影響を受けている。
日本の仏像(本当は釈迦の像)の,あのパンチ・パーマの髪(螺髪)はギリシア彫刻の白人のクルクル巻き毛から来ている。
こういう知識は余計な知識だろうか?
自分,峯岸は,そうは思わない。
こういう側面からも大きく人類史が見えてくるからだ。


◆ ローマ皇帝とは大勝を強いられる戦争屋◆

【ギリシア語が知識人,役人階級の共通語だった】

アレクサンドロス大王の若い将軍(司令官)の1人だったプトレマイオスがエジプトの王に就いた。
プトレマイオス朝エジプトである。
この王朝の14代目が日本人も知るクレオパトラだ。
クレオパトラは自身をギリシア人だと思っていたためギリシア語を話した。
アレキサンドリアに住む多くの上層市民もギリシア語だ。
一般民はアラム語(古シリア語)を話していた。
そして紀元前48年に"ゼロ代"ローマ皇帝(理由は後述する)のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が政敵ポンペイウスを追いかけアレキサンドリアに来た。
そしてクレオパトラを見てクラクラになった。
彼女が美女で,且つギリシア語を話していたからだ。
そして2人は本気で愛し合ってしまった。
コレが権力者にとっては弱点となり命取りになるのに。
前回も解説したとおり,紀元前333年(アレクサンドロス大王の時)から紀元後400年代までの700年間,中東全域でギリシア語が使われていた。
地中海地域も含め知識人,役人階級の共通語はギリシア語だった。
ローマはギリシア(アテネが中心)を紀元前168年と紀元前146年に破壊したが,ローマ帝国の軍人や官僚や貴族たちまでもが公文書をギリシア語で書いていた。
話し言葉はラテン語(本当はローマ語)だが文章はギリシア語だった。
正書体のギリシア語の文章をサラっと書けると,それだけで「この人は学識ある高貴で偉い人」と,周りが深く尊敬して一目置かれた。
この事は中国でも同じである。
中国文明(黄河と長江の文明)では,漢文をサラっと立派な字で書ける人は偉い人だとされた。
軍人(将軍。彼らは暴力団の大親分)たちでも,この文人=士大夫である立派な漢文が書ける者(坊主を含む)を土下座するように尊敬した。
日本も同じで平安時代,室町時代まで,漢籍(中国文)が読めて漢文で綺麗な文章を書ける人は,それだけで大秀才として尊敬された。
だから日本も中国文明の一部であり,漢字の四書五経(儒教の聖典)を中心とする幻想の共同体の一員である。
儒教は「孔子の教え」という意味である。
孔子はソクラテスより83歳上で,釈迦(ゴータマ・ブッダ)は孔子の11歳上である。
この3人は人類史上の同時代人である。
このように人類史を大きく見るのだ。


【ギリシアに頭が上がらなかったローマ貴族】

中東,地中海(西洋)で,共通の上級語だったギリシア語が廃れたのは600年代である。
この頃からラテン語(本当はローマ語)が威張りだし,やがてラテン語で書かれる文章が欧州知識人の間で立派な文章という事になった。
ギリシア語は西欧では忘れ去られた。
「ガリア戦記」はカエサル(シーザー)が40歳から10年間,ガリア(フランス)やブリタニア(イギリス)に居た原住民であるゲルマン諸族(後にフランク王国を創る)に対し,次々に戦争を仕掛け何万人も殺したという大げさな書記である。
本当は一回の戦闘で死者は数百人ぐらいだ。
大戦(帝国と帝国の戦争)でなければ何万人も死者は出ない。
この「ガリア戦記」は元老院への報告書であり,ラテン語の最も美しい文章という事になっている。
だがカエサルは,ただの軍人で,それほど数養はない。
この頃の正式な文章はギリシア語で書かれている。
ラテン語(ローマ語と言うべき)で書かれた他の名文は,キケロとセネカの演説文やヴェルギリウスの歴史書「アエネイス」である。
当時のローマ貴族たちはギリシア知識(智恵,哲学)に頭が上がらなかった。
それなのに2回ギリシアの都市を攻めて破壊した。
そしてギリシア貴族たちを戦争捕虜として連れて来て,自身らの子の家庭数師にした。
ギリシア人に対する強烈な劣等感があったのだ。

エジプトは紀元前3000年からの帝国(31王朝ある)である。
ローマのような新参者(新興国)とは格が違う。
そのエジプト王朝を終わらせたのがアレクサンドロス大王である。
エジプトのナイル川から出る大量の砂金を奪い取ってローマ帝国は金貨を造った。
だからエジプトから出る砂金が重要だった。
ソレ以外に銀や銅でも貨幣を造る。
だが後に落ち目で貧しくなったローマ帝国は鉄で貨幣を造った。
鉄は何年かしたら手垢などで錆びて崩れる。
鉄を混ぜたら貨幣(硬貨)は終わりだ。
銅は錆びても残るが腐食する。
だが金(ゴールド)と銀は腐食しない。
だからエジプトの金(ゴールド)でローマ帝国は保ったのだ。
エジプトの金(ゴールド)が入手できなくなった時,西ローマ帝国は滅んだ。


【”ゼロ代皇帝“カエサルは戦争屋】

カエサルの後継者のアントニウスは紀元前31年のアクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れた。
このオクタヴィアヌスがアウグストゥスという称号をローマの元老院から貰い初代ローマ皇帝となった。
この時からローマを帝政といいローマは帝国になった。
紀元前27年(帝政の始まり)にオクタヴィアヌスは家来の軍人たちから「インペラトーレ」の称号で呼ばれた。
このインペラトーレとは,元々は階段の下(陛下)という意味で,宮殿の陛(きざはし)の下にいる私たちという意味である。
だから家来の兵士たちが「きざはし(階段)の上に,おられます,高貴な貴方さまに申し上げます」という尊称だ。
この陛下がインペラトーレ(エンペラー)で,漢字(中国語)の皇帝である。
このオクタヴィアヌスが悪賢く優れた政治家だった。
オクタヴィアヌスが,その後のローマ帝国の400年の基礎を作ったと言える。
するとカエサルという英雄の地位は,いったい何かとなる。
だから自分,峯岸は,カエサルは"ゼロ代皇帝"と捉えている。
ローマの皇帝は元気で戦争に強いがローマ貴族の中では貧しい。
暴れ者たちを何万人も統率できる暴力団の大親分みたいな者でなければならない。
年表を見ると,ローマ皇帝は4〜5年の短期間で代替わりしていく。
長くて在位20年だ。
世界各地で戦争し,反乱を鎮圧,平定して回り,更に「領土を拡大してこい」という任務を与えられた者だ。
だから本当はローマ皇帝に政治権力は無かった。
帝政(帝国)になっても元老院の議員である大領地を持っている老練で狡猾な元老たちが実権を握っていた。
コレが今のアメリカの上院議員(Senaters)の原型である。

とにかく皇帝は戦争屋だ。
ガリア(今のフランス),ブリタニア(今のイギリス),ゲルマニアを制圧しに行くか,北のダキア(今のルーマニア),トラキア(今のブルガリア)とかで蛮族の南下を食い止める。
そして東のパルティア(アッシリアの後継の帝国。今のシリアや北イラク)を攻めた。
このように年がら年中,戦争ばかりしていなければいけないのが皇帝である。
大勝して帰ってきたら凱旋門を通る,その将軍が皇帝になる。
負けたら終わり,そういう役割だ。


◆ローマのアテネ破壊が欧州最大の恥部◆

【ローマ人がパルテノン神殿を破壊した】

ポエニ戦争でギリシアのアテネの,あの壮大なパルテノン神殿を燃やして破壊したのはローマ兵である。
紀元前168年に世界最高級の遺産を叩き壊したのはローマ人である。
紀元前200年代にギリシアはアカイア同盟で団結していた。
ギリシアはフェニキアと共に地中海全域に植民都市を創っていった。
第1回目のローマ・ポエニ(カルタゴ)戦争(紀元前264年〜紀元前241年)は23年間,戦った。
ローマがシチリアを奪い取った。
両者は和議(停戦)して決着はつかなかった。
スペインのフェニキア植民地であるカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)の港都市を経営し統治していたのがハミルカス・バルカ将軍だ。
このバルカ将軍の息子がハミルカス・ハンニバルである。
紀元前218年に英雄ハンニバルが第2次カルタゴ・ローマ戦争を始めた。
2年後にカンネー(カンナェ)の戦いで8万人のローマ軍を打ち破った。
カンナェはローマよりも南で,ハンニバルはグルっと回り込んで防御の薄い南からローマを攻略しようとした。
ローマに恨みを持っていた周辺の諸民族がハンニバル側に付いて戦い勝った。
しかしローマを攻めて落とす事は出来なかった。
この2年後の紀元前214年にギリシア(マケドニア王)のフィリポス5世がローマと激突した。
しかし決着はつかなかった。
この事実から分かる事は,ギリシアは同じ時にローマと戦っていた。
フェニキアと固く結束していたのだ。
この12年後にハンニバルは都のカルタゴが危ないという事で戻り,そしてカルタゴの南の郊外ザマで戦い大敗北する。
ローマの将軍,大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)がハンニバルに勝利した。
和議(講和条約)を結び,その32年後の紀元前168年がカルタゴの陥落ではなくギリシア(アテネ)の陥落である。
カルタゴは,この19年後の紀元前149年に陥落した。
紀元前168年(今こそ,この年号を覚えなくてはいけない)に,ギリシアのアテネが決定的に陥落してパルテノン神殿が破壊された。
だが話しは複雑で,カルタゴが陥落した紀元前149年の3年後の紀元前146年にギリシアは一度,陥落している。
ギリシアのアカイア同盟は解体されてアテネも占領された。
アカイア同盟の指導者だったギリシア人の都市の貴族たちは首に縄を掛けられてローマに連行された。
不思議な事に世界史(学)では,この年を第3次ポエニ戦争の終結とされる。
パルテノン神殿をローマ兵が燃やして破壊したのは22年前の紀元前168年である。
この紀元前168年にギリシア(マケドニア)の最後の王ペルセウスがローマと戦い大敗した。
ギリシア全土がローマ軍に支配された。
この大きな真実を今も欧米の歴史学者は話さない,書かない。
だから「紀元前168年,アテネがローマ軍により陥落」と,世界史年表(日本の東大系の歴史学研究会の「岩波世界史年表」)に載っていない。
この事が人類史学のスキャンダルであり欧州最大の恥部だからだ。
自分,峯岸は,この欧州白人文明が覆い隠す巨大な捏造を今も継続して調べている。
ローマ軍はギリシアの各都市(アテネを含む)の貴族,官僚たち数千人(彼らがアカイア同盟の幹部たち)をローマに戦争奴隷として連行した。
そして一部をローマの貴族の邸宅で子供たち(子弟)の家庭教師にした。
ローマ人はギリシアの言語,文化,文物,思想に憧れ,敬って劣等感を抱いていた。
ローマ人にとってギリシア文化は圧倒的に優等で高品質であった。
だからローマの貴族,高官,僧侶たちは,ギリシア語を話してギリシア語で文章を書いた。
コレと全く同じ事が同時代(紀元前200年〜紀元後400年代)の中東アラブ世界で起きていた。
だから新約聖書も旧約聖書(モーセ5書)も最初はギリシア語で書かれたのだ。
ヘブライ語でもラテン語でもない。
ヘブライ語が産まれたのは,ずっと後だ。
どの国家,民族も「私たちは古くからの民族だ」と,ずっと古くから在った先駆けのように見せかける。


【ギリシア文化を盗んだローマ】

自分,峯岸は,10年前の2013年の欧州視察でギリシャに行き,アテネのアクロポリスの丘に上ってパルテノン神殿を見た。
この時,破壊されたパルテノン神殿を見て,ギリシア人に強い劣等感を抱いて何でもかんでもギリシアから盗んで真似したローマが目に浮かんだ。
ローマはオリュンポス12神まで真似し,ローマ式に名前を変えて自身らの神々を創った。
ゼウスをジュピターに,アポロンをアポロに,アテネをミネルヴァに,アルテミスをダイアナに,へルメスをマーキュリーに,そしてディオニュソスを酒神バッカスに。
このようにして超大国=世界覇権国は次々と移っていく。
19世紀の1815年,フランスのナポレオン(一代限りだったが本物の欧州皇帝)を打ち倒した時からの100年間が大英帝国(イギリス)である。
そして20世紀に入ると世界覇権はアメリカに移った。
1914年から世界覇権を大英帝国から奪い取った。
この年に通貨発行権がイギリスのロスチャイルド家からFRB(連邦準備制度理事会)を所有するアメリカのロックフェラー家に移った。
そして,この1914年は,まさしく第1次世界大戦が始まった年である。
欧州は大きく騙されて焼け野原になった。
第2次世界大戦も同じだ。
自分,峯岸の真の読者は理解あるとおり,このように世界覇権は120年前後の周期で移転する。
5000年の人類史が証明している。
だから今,世界は覇権の転換期ド真ん中にあるのだ。
この世界覇権の移転期の中に80年周期で回る災害⇨恐慌⇨戦争の過程がある。
この3段階を踏んで世界覇権は移転する。
この災害が現代なら2020年に勃発したコロナ・パンデミックだ。
だから次は恐慌が世界を襲う。
自分,峯岸は,この事をコロナ・パンデミック前から予言している。
この事をドナルド・トランプが大統領に就任した時(2016年末)の時点でハッキリと話した。
自分,峯岸の読者どころか身近な者でも「ソレは,いくら何でも...」と信用しなかった。
だがコロナ・パンデミックが勃発し,ウクライナでの代理戦争が始まり,イスラエルvsパレスチナが再戦し,彼らの表情が一気に青ざめた。
このように人間は自身の都合で動く浅はかな生物である。
次の世界覇権国は既に決まっている。
ソレは中国だ。
既に実質,世界覇権はアメリカから中国へ移っている。
だから帝国アメリカは最期の足掻きをしているため,世界が争乱しているのだ。
日本人は脳をヤラれているため,この事が分からない。


【世界史を貫く5つの正義】

自分,峯岸は,ギリシアの文化と思想が優れていて中東(オリエント)でも優位に立ったと解説してきた。
その証拠として全ての古代帝国の知識人層はギリシア語で文章を書いている。
だから新約聖書(イエスの物語)も旧約聖書(モーセ5書)も,最初にギリシア語で書かれた。
紀元前400年代から紀元後400年代までの800年間,欧州の知識人階級は皆ギリシア語を使った。
この後ローマ語(ラテン語)になる。
以下に載せる自分,峯岸が描いた「世界史を貫く5つの正義」を御覧いただきたい。


人類(人間)は突き詰めると,この5大正義の,どれかに依拠しながら今も生きている。
ギリシア人は①のポリスの正義を何よりも大事な正義とした。
公共(みんな)の為に働き闘う事が他の全てに優先すると考えた。
コレが偉大な思想家ソクラテスと賢帝ペリクレスの思想であった。
ペリクレスが人類史上初めてデモクラシー(民主政治)を実行,実現したギリシアの政治指導者だった。
因みに今のロシアのウラジーミル・プーチンは,このペリクレスの再来である。
日本人はプーチンの国家指導者(民族指導者)としてのズバ抜けた天才的能力を誰も理解していない。
対してソクラテスの孫弟子(プラトンの弟子)のアリストテレスは②の分配的正義が人間世界では優先するとした。
コレは冷酷な経済法則を認めるratio(合理)とreason(理性)の考えである。
つまりカネ儲けの欲望を正面から認めた。
後に,この事をイスラム商人とユダヤ商人とキリスト教商人たちが共に狂喜した。
アリストテレスの平衡(つり合い)の思想に依ってで,あまりにも多く有りすぎる戒律を最小限度にして下さいと,3大宗教の商人たちは乞い願ったのだ。
この現実主義の行動にイスラム法学者とユダヤ律法学者とキリスト教神学者たちは抵抗できなかった。
この動きは490年に出来たバビロン・タルムードの制定の頃から出ていた。
カネ儲け(利益活動)の肯定こそは3大宗教の信者たち,とりわけ商業(経済)活動をする者たちが強く切望していた事だからだ。
だから,この世界史を貫く5つの正義を,よく考える事は人類史を学ぶ事そのものなのだ。
人間世界の,あらゆる場面で,この5つの正義が互いに衝突し,何処かで妥協して内通する。


【戦争の本質は余剰人間の処分】

本当の冷酷な人類の歴史の真実は,戦争は余剰な人口(余っている人間)を消滅させる為に実行される。
戦争の本質は都市に寄せ集まってブラブラしている無職の若者を纏めて狩りたて,騙して外国に連れて行き廃棄処分する事である。
国家による人間の余剰,過剰在庫の処分だ。
中国の古代から語られている漢詩に「古来征戦幾人(いくたり)か回る」という有名な1文がある。
征戦とは,外国へ征伐しに行く侵略戦争である。
大きくは自国を守る為だ。
征戦して何人が自身の故郷に帰り着けたかという事だ。
すなわち戦争で連れて行かれた若者たちは殆ど死んでしまうという事だ。
この若者たちは都市で流民化し,職が無くて余剰,過剰になった若者である。
そういう不良たちを上手い具合に掻き集めるのが軍隊である。
荒っぽく強制徴兵する場合もある。
そうやって中国の清朝(大清帝国)は1回の征戦で50万人ぐらいの若者を処分した。
北方のオイラート族とジュンガル部という,モンゴル帝国の残党の遊牧民国を攻め滅ぼした。
「古来征戦幾人か回る」の漢詩のとおりだ。
コレで都市の犯罪(治安)対策,失業労働力対策になって良かったとした。
日本人には信じられないだろうが,実は今の日本の政府(岸田文雄政権)も国民を,このように見ている。
文句ばかり言う国民は鬱陶しいのだ。
国家の為に働いて税金を払わない無能な者は早く死ねと思っている。

大清帝国はオイラートを滅ぼすのに200年かかった。
その為に多大の出費が掛かった。
その隙に南蛮人(近代西洋白人)が1500年代から南に現れ,1911年に清朝は滅ぶ。
同じ廃棄処分を近代(1500年代から)の欧州の王族たちもヤッた。
国王たちは治安対策と社会福祉と銘打ち,都市流民(食い詰め者,乞食,窃盗犯)を捕らえ,囚人としてアメリカやオーストラリアや南アフリカに捨てに行った。
殺したりはしない。
新大陸に連れて行き「勝手に生きていけ」と放った。
アメリカは1620年に「清教徒がプリマス植民地に上陸した」という建国神話(物語)を作った。
しかし本当は,この100年前から欧州が北米に囚人を植民させていた。
ギリシア・ペルシア戦争ではラミスの海戦というのもあった。
海の戦いではアテネ海軍が強く常勝だった。
ソレ以前からギリシア人とフェニキア人(海洋性の商業民族)の同盟があった。
フェニキア(ポエニ)人は領土・都市はペルシア軍に攻め奪られても船団を組んで海に逃れ出た。
だから滅ぼされない。
この大後方があるため滅ぼされない事が歴史の知恵として重要である。
今で言えば北朝鮮の大後方は中国とロシアという事だ。
サウジアラビアやイランやカタールやUAE(アラブ首長国連邦)の中東アラブ世界の大後方も中国とロシアである。
ASEAN(東南アジア諸国連合)とアフリカ54ヶ国と南米(中米カリブ海地域も含む)の大後方も中国だ。
日本人は,この事が分からないから世界の動きが読めず,G7(未だに先進国のフリをしている衰退国家群)という沈んでいる船の中で座席争いをしているのだ。


<終わりに>

社会人になると世界史の勉強を改めてする事など普通の人はしない。
誰もが自身の生活と余暇の事しか頭にない。
それでも生き抜く為に文化,教養を身に付け,世界史の知識を学び直す事は重要だ。
「歴史の勉強は奥が深い」と言ってしまえば,ソレで何か言った気になる。
歴史は過去の人々の恥多き過ちの蓄積,集成の記録である。
「あ〜 あの時あんな事(決断,判断)をしなければよかった。そうすれば俺は生き延びていただろうに」と,敗北して殺されていった権力者たちは思うだろう。
我々の人生の悔悟と似ている。

人類史の全体像を描こうと思ったのは,2019年5月のイスラエルとパレスチナの視察を終えてからである。
高校の世界史の授業で習って以来,自分の世界の歴史の知識を自分なりに組み立て直し,反芻して作り変えてきた。
ソレを晒け出して世に問うべきだと考えた。
そのキッカケが2019年のイスラエル=パレスチナ視察であり,そんな中で2023年10月7日に両者の新たな交戦が始まった。
このイスラエルとパレスチナの交戦は昨年(2022年)2月24日にウクライナで開戦した代理戦争と軌を一にした動きである。
双方の戦いはアメリカ帝国が金融・経済と軍事・外交の両輪が外れた事により覇権が大きく瓦解した事に起因する。
つまり世界中の人々がメディアを通して目にしているウクライナvsロシア,イスラエルvsパレスチナという戦いではない。
NATO(欧米)vsロシア,イスラエルvs中東アラブ世界でもない。
今,世界が目にしている戦いはG7(アメリカ,欧州,日本)vs G8(BRICS+SCO)の世界覇権抗争である。
すなわち第3次世界大戦である。

2019年にイスラエル=パレスチナを視察した事で頭に天から多くの事が降ってきた。
小学校で世界史に触れ始めてから,自分の頭の中に在った多くの疑問が解明された。
疑問は小学校の社会科の授業の時から始まっていた。
自分,峯岸が小学5〜6年の時の担任教師が毎週1回,アンネ・フランクの『悲劇の少女アンネ』を朗読した。
通常の授業より,この時間が一番好きだった。
この時に「ナチス・ドイツ」「アドルフ・ヒトラー」「ユダヤ人」という言葉が強烈に印象に残り,それから色々と調べた。
この時に違和感を覚えたからだ。
この時から教師との対立人生が始まった。
教師たちが我々に教えている歴史が本当の歴史ではないと分かったからだ。

自分は小学3年生の8歳の時に偶然テレビで観た,後の先生(師匠)となる小室直樹(2010年9月逝去)が生放送で「角栄(田中角栄)を起訴して有罪にした検察官と裁判官を電信柱に吊るして死刑にしろ!ブッ殺せ〜!」と,拳を振り上げながら叫び,直ぐさまスタッフに両脇を抱えられながら退場させられる姿を観た,あの時に,頭の中で「日本はアメリカの属国である」が萌芽した。
あれから40年間ずっと考え込んで分からなかった疑問点を,この10数年で世界中を見て回って調べ直し多くの疑問点が解明された。
だから「自分の思考に大きな枠組を作る」という言葉を大事にして使ってきた。
そして自分自身の額縁ショーを作る事が出来た。
欧米白人文明が覆い隠す欺瞞を抉り出し,日本国民に体系的に知らせる事が出来たと自負している。
ココに至るまでに視察とW杯で世界中の人々と話して交流してきた。
この経験から大きく気づかされた事が多数あった。
齢50を目前に驚きと新たな発見の連続である。
記して感謝します。

峯岸祐一郎 拝



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?