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17歳の私の”現代文観”

新型コロナウイルスによる全国一斉休校の際、当時17歳だった私は、現代文についてのこんなエッセイを書いた。

長いので、今回はその抜粋だけご紹介して終わりにして、別の記事でこれに対する考察を与えていこうと思う。

タイトル:「謎の教科」

「受験勉強は、まず学校の授業から」
 これは筆者(=私)の通っている高校でよく言われることだ。結局大学受験のテスト範囲は高校の履修範囲なのだから、入試では学校の授業でやったことしかでない。これは自明なことだ。一般に進学校と呼ばれるところでは、多くの授業が入試向けにカスタマイズされているので、授業を大切にするというのは入試基礎を固める上で有効な一つの手段だと思われる。(基礎はあくまで基礎だから、結局受験勉強は自分でやらなければならないのだが。)
 また、高校の授業はほとんどの場合教科書に沿って行われる。したがって、授業の復習で教科書を用いることもまた有効な手段であろう。
 さらに、同じことは模試にも言える。例えば、「あ、加法定理忘れてた!」となれば数学の教科書で加法定理を確認するし、「鎌倉幕府が崩壊したのはいつだったかなあ…」となれば日本史の教科書を確認する。もっとも、教科書より自分の愛用する市販の参考書の方がわかりやすいという人もいるだろうが、ここでは“どっちがより良いか”ではなく“それが可能かどうか”で考えて欲しい。上のような例は、“ベスト”かどうかはわからなが、別に全く不可能というわけではない。
 このように、筆者の通う高校では学校の授業、学校で指定した教材を中心とした日々の学習が提案されてきた。実際筆者は、学校の教科書と、教科書と一緒に購入した教材によって、少なくとも共通テストレベルまでは対応可能だと考える。
 しかし、大学入試にはこの授業中心の学習法が全くと言っていいほど適用できない科目がある。(より良い方法と言えないのではなく、こちらはほとんど不可能。)
 さあ、その科目とはなんだろう。
 もし読者のあなたが高校生か大人ならば、高校での授業を思い出して、少しの間考えてみてほしい。中学生ならまだわからなくてもしょうがないかもしれないが、中学校にも、高校でいう他の科目と融合した状態でその科目は存在する。

~Thinking Time~

 いかがだろうか?
 筆者が思うに、その教科とは現代文である。
 例えば、先ほど例に挙げたような模試の復習を、高校の授業として行われる現代文(以下高校現代文)の教科書でやろうとするとどうなるだろうか。
 「今日の模試ででた山月記の内容がよくわからなかったから、教科書で確認してみよう」高校現代文で扱った文章が入試や模試で出題されることはまずないので、こんな状況は基本的にありえない。もっとも、筆者は一度だけ山月記に関わる内容が漢文において出題された模試を受けたことがある。しかし、入試に出うる文章を片っ端から暗記するという勉強法はあまりにも非効率的だし、そもそも入試で要求されるのは丸暗記で解く能力ではないから、このような模試の見直しをする機会はまずあり得ないと言える。
 「二つの価値観を対比する論理構造がよくわからなかったから、教科書で“対比構造の公式(あるいはパターン)”を確認してみよう」そもそも高校の授業で“論理の構造や公式、パターン”などは扱われない。
 さらに、書店の参考書コーナーに並んでいる現代文の参考書はどうだろうか。これらはもちろん大学入試で出題される現代文(以下入試現代文)向けに作られたものだが、高校の教科書の中身とは程遠いのは、それを見れば明らかだ。すなわち、入試現代文の参考書が「解法マニュアル」であるのに対し、高校現代文の教科書は「文学作品集兼評論集」である。
 また、予備校で現代文対策の講座を取ったことがある人なら、高校現代文と入試現代文の大きな違いに気づくだろう。筆者も予備校の現代文の授業を受けたことがあるが、高校のそれとは程遠い。まるで別の科目のようだ。
 このように見ると、どうも高校現代文と入試現代文はかなりかけ離れているようだ。
 ではなぜそのような差異があるのか。筆者は、高校現代文と入試現代文のそれぞれの目的の違いが大きな要因となっていると考える。
 地元の教育大学で国語教育を専門的に学んでいる大学生に話を聞く機会があった。聞いたことによれば、高校現代文はそもそも大学入試で得点することを目的としておらず、それは学習指導要領にも表れているという。では高校現代文の目的とは何なのだろうか。
 例えば、桜が舞い散る様子を見て「美しい」という感情しか抱かなかった高校生がいたとする。そんな高校生が、高校現代文で「桜はあんなに早く散ってしまうのだから悲しいものだ」という表現に出会ったとすると、その高校生は桜が散る様子を見て「美しい」と思うと同時に「悲しい」とも思うようになり、見る世界が豊かになる。
 さらに、評論や随筆、小説など様々なジャンルの作品を読んで“読書術”ともいうべき本の読み方を習得することによって、その後の人生において本から多くの情報や教訓を学び取ることができる。加えて、「骨が折れる」など、中学高校を通して学ばれる慣用表現は、日本人としての一般教養の一環と言える。
 つまり、社会人としての一般教養を身につけたり、人生をより豊かにすることこそが、高校現代文の真の目的だったのだ。(ここまで全て教育大生の話に基づく。)
 では入試現代文の方はどうだろうか。
 現代文以前の問題として、そもそも試験とは何らかの能力を測るために行われるものだ。大学入試も例外ではなく、受験者が大学での教育を受けるにふさわしい能力を身につけているかどうかを測るものだ。また、大学の高度な教育において、難しい論文を読むための読解力や論理的思考力は必須だと言える。さらに入試現代文とは、与えられた文章を読んで設問に答えることによって、文章を理解したかどうかを問う科目である。これらを合わせれば、入試現代文で要求される能力とは、大学で扱うような難しい文献や論文を読み解く読解力や論理力であると言える。
 このように、入試現代文と高校現代文では目的が明らかに違うのだ。したがって、少なくとも入試現代文に至っては、「授業を大切に」という他の教科での謂れは通用しないと言えるだろう。
 ただし、筆者が通っているのはド田舎の高校で、お世辞にも教育が進んでいるとは言えない。都会ではさらに教育が進んでいて、高校現代文の目的を尊重しながら入試対策にもなる革新的な授業が行なわれているかもしれないが、もしそうなら、教育の地域格差を訴える高校生の叫びとして受け取っていただきたい。
 この高校現代文と入試現代文の乖離は、大きな入試現代文への誤解をも生むのではないかと筆者は考えている。
 入試現代文に関しては、その正攻法を理解していない人がかなり多い。「現代文なんてノリだよ!」「あんなの勉強したってしなくたってどーせ変わんないよ」「現代文はフィーリング♡」などと言っている人のなんと多いことか。
 先ほども述べたように、大学入試とは、大学レベルの教育を受ける能力があるかどうかを問うものだ。そんな大学入試において、「ノリ」や「フィーリング」などといった曖昧で不確かなものを大学側が測りたいはずがあろうか。
 また、試験とは公平でなければいけない。したがって、正しい思考法により問題を解けば、必ず正しいただ一つの解答にたどり着くことができるということは自明である。(もっとも、悪問や奇問もないわけではないが。)そうでなければ公平性が担保できない。入試現代文も、試験として行われる以上、出題者の主観や感覚によらない正しい思考法が存在し、ただ一つの答えが存在するはずである。
 したがって、そもそも“試験”として行われる入試現代文において、「感覚」や「フィーリング」などで解くのは明らかに正攻法ではないのだ。一見曖昧な科目に見える入試現代文にも、ただ一つの答えにたどり着く正しい思考法が存在し、それこそが大学側の要求する能力であるはずだ。
 それにもかかわらず入試現代文を誤解している人が多いのは、そもそもこういった「入試現代文の正攻法」を高校で習わないからではないだろうか。
 おそらく一部の人は「一つの答えがある」という筆者の見解に疑問を抱くだろう。
 国語なんぞは、答えが曖昧な教科ランキングぶっちぎりの第1位だ。数学では、誰が問題を解こうと、正しい考え方でやれば1+1の答えは2になるし、3×4は12になる。非常にわかりやすい。だが国語になるとそうはいかない。それはおそらく、「文章の捉え方は人それぞれだ」という概念が根底にあるからだろう。特に小説においてその傾向は顕著だ。もちろん、趣味の読書ならどう解釈しようとこっちの勝手だ。巧みな描写に惹きつけられて、あたかも自分がその小説に入り込んだかの如く存分にその世界を味わう。そこに小説の魅力がある。
 しかし、そのような主観を入れて読む「趣味の読書における読み」しか知らない高校生に、「次の文章を読んで後の問いに答えよ」なんて問いを投げかけたらどうなるだろう。おそらく、自分の主観でおかしな解釈をして大変なことになる。もっとも、普段から評論を読めば、多少なりともロジカルに文章を解釈するようになるのかもしれないが、趣味であのお堅い文章を読む高校生は少ないのではないか。
 だったら高校生は一体どこで入試現代文の解法を教われば良いのか。他の科目であれば、解法の基本は学校の授業で習う。それは冒頭で述べたとおり、基本的には入試基礎と学校の授業はつながっているから、当たり前である。しかし、こちらも先ほど述べたとおり、高校現代文はそもそも入試を目的としていないのだ。
 総じて言うに、大部分の高校生は、入試現代文の解き方を知らないというよりは、そもそも高校で解き方を教わる機会がないのである。しかも、これほどにまで入試現代文では読書とは明らかに違う「読み」の技術が必要とされるのにもかかわらず。
 これは大変なことになった。もし物理の入試問題で一般相対性理論が出題されれば大問題だし、数学でゼータ関数が出題されれば入試はやり直しになるかもしれない。だがなぜか入試現代文だとそういうことはない。したがって大学進学を目指す高校生はまず、入試現代文では趣味の読書と比べ物にならないほど高度な「読み」の技術が必要であるという認識を持ち、学校の授業とは全く別枠で入試対策をしなければならない。
 しかし、高校の授業で啓蒙される機会がない高校生にとって、このようなことに自分で気づくのは難しい。予備校に通っていればまだチャンスがあるが、どうしても家庭の経済状況が関わってくるので、誰もが行けるわけではない。その意味では、一番教育の経済格差に貢献しているのは入試現代文だと言ってもいいのではないだろうか?(まあ少々言い過ぎな感じはしなくもないが。)そんなことを思って筆者は今回この記事を書くに至った。まずは正しい認識を持つことが重要なのである。
 ただ勘違いしないで欲しいのは、筆者は決して高校現代文が無能だと言っているのではない。教科書で様々な表現に出会って、その後の人生を豊かにしたり、日本人としての一般教養を十分に身につけることも重要だ。問題なのは、現代文という科目は、なぜか高校の授業と入試がうまく結びついていないことである。
 我々が今すべきことは、現状を嘆くことではない。なぜならいくら嘆いたところで現状は変わらないからだ。だとすれば、我々が今すべきなのは、行動を起こすことだ。
 筆者が思うに、最後の切札は参考書である。予備校に通っていなくとも、参考書を買うことならできる。あるいはどんな僻地でも、通信販売を利用すれば買い物ができる時代となった。
 一つ例を挙げるならば、筆者は“ミスター驚異の現代文”の異名を持つ出口汪先生の参考書を使っている。これに出会って初めて入試現代文がそもそもどんな科目なのか、そしてその正攻法を知った。出口先生は入試現代文を「論理」を駆使して明快に解き明かしている。それによって、入試現代文に対する曖昧さが一掃され、きっと現代文が得意教科になるだろう。
 もちろん、感覚で解いても十分得点できて、何ら不都合がない人もいるだろう。しかし、論理というものは入試現代文のみならず、これからさらに高度な学問を学んでいく上で大きな武器となりうる。なので、例えフィーリングで解けたとしても、論理を習得するのは無駄ではないだろう。
 手段はまだ残されている。やるかやらないかはあなた次第だ。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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