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左側マンの松葉杖生活。経過観察58日目(手術後28日目)

やはり我が故郷である柴又(実際は隣にある鎌倉町だが)は素晴らしい。
帝釈天の様子、特に人のいない日没辺りに商店街、参道を歩くと凄く落ち着く。今でこそ実家を離れた上に松葉杖生活にもなって安易に行けなくなってしまったが、松葉杖が取れて通常歩行が出来るようになったらまず最初にここへ行って心をリセットしてみようと思う。ただ今の心の状態が悪いという意味では無いので悪しからず。

本日の右膝

左が今日の右膝、右が5月9日の右膝

見た目の変化はやはりそこまで。変化しているのは内部の状態である。
可動域とリハビリ中の痛みで言えば良好傾向である。
毛が邪魔でわかりづらい写真ではあるが。笑(今日剃ります)

本日のリハビリ。MRIの結果。
今日から片方の松葉杖生活に入った。右脚加重3/4の許可が出た。
体重でいうと50kg前後である。とても快適だ。
トレーニングの種類も増えた。これは徐々に自分のYoutubeチャンネルでプレゼンしていこう。ちなみにMRI、CTの結果は共に問題なかった。
このまま順調にリハビリをしていけば予定通りに復帰できるだろう。
とにかく今日から右脚の筋力を取り戻す作業が増える。正直MRIの結果が何ともなくて安堵している。笑


今日で4つめのテーマに入るが、正直「あれ?4つめのテーマってなんだっけ?」と結局思い出せなくて4日前のnoteを見返して「あー”自分の命について”ね。」とかやってる時点で、「おれ本当にこれ書きたいのか?」と自問自答している。それよりも今朝にツイートした『少子化対策』についての方が、現段階でよっぽど書きたい。笑
だが書くと決めたから書く。そこはブレないでやります。

自分の命について

みなさんは”自分の命”について考えたことがあるだろうか。私はこれまで深く考えたことは無い。『命とは尊いものだ』と言われても、その場では『確かになあ。』とわかった気になっているが、意味そのもの自体はわかっていない、自分が理解出来ていないモノだからピンときていない。

『命とは尊いもの』とはどういう意味なのか。

命とは貴重なモノである、尊重すべきモノである。という考え方らしい。
確かにそう言われてきた。でもその根拠はなんだろう。これについて分析なんて出来るのか。でも人はみんな言うんです。

『そういうものだから』『そう言われてきたから』

これは分析でもなく根拠でもなく『思想』の話だ。
おそらくだけど、”実は”こうやって考えている人も私以外にはごまんといるのではないかと感じている。だが、私が「命を大事にしていない」わけではい。私自身死ぬ気も無いし、まだまだ人生を良くも悪くも楽しんでいきたいからである。私の”命”が唯一無二であることは確かなので、『命』そのものを軽んじて生きているつもりはない、ということは言っておきたい。
では、”命の尊さ”というのは何なのか。考えても全く答えが出ない中、以下の小説を目にして「ふむ。」と頷いた。⇩

命とは、なぜ尊いのか。命とは、なぜ素晴らしいのか

#自分の命 #命の尊さ #根拠 #分析 #思想


命の尊さ

この小説と、養老先生の講演動画から得た命に関する揺るぎないモノはひとつハッキリした。

『自分が死んでも自分は全く困らないが、他の人には迷惑がかかる。』ということである。

だから簡単には死ねない。
という事を言いたいのではない。
命の尊さっていうを追求することはかなり無意味に近くて、自分の子に『生まれてきてくれてありがとうと”思う”』そして『子供は可愛いなと”感じる”』というなぜそう思うのかわからない感情である。くらいに思っていた方が良いということだ。
ということは『〇〇が死んだ、悲しい』と思う人も大勢いるということ。
そう仮定すると、私が死んだ時にもきっと誰かに迷惑がかかるのだろう。
だから死ねない。そして私は死ぬ気がない。故に『自分の命は大事にしていこう』と思えたのだ。ただ、『どう大事にしていくか。』というのは不明である。だがそんなものも考えなくて良いと思っている。自分が生きながらえる方法なんてのは多分自分が一番わかっている。

#自分は困らない #他人は困る

自決だけは選ばない

そしてこの世界に今から自決をしようとしている人がおそらくたくさんいる。既に自決してしまった方もいる。だが私は絶対的に選ばない。
その理由は、どんな形であれ自決する勇気がないことだ。電車へ飛び込むことも、縊死(いし)も怖すぎる。もしかしたら不治の病や突然の交通事故でじわじわとこの世に未練を残しながらこの世から消え去る可能性もあるにも関わらず、呑気に”苦しみながらなんて死にたくない”と思っている。その勇気がないからだ。
前述した通り、勇気が無いというのも含め、周りに迷惑がかかるっていうことが全てなのだ。私だって、「自分が死ぬのは困る」よりも「相方に死なれたら困る」の方が圧倒的に強い。
こんなことを書いて、相方もたまに私のnoteを読んでいるので、もし今回の記事が目に留まってしまった時なんて言われるのか。なんてビクビクしてしまうので今の内にどんな言葉をかける考えておこうと思う。

#自決 #勇気

子どもの可愛さ

おそらくこの”子供の可愛さ”が理解出来た時、初めて『命の尊さ』がちゃんと自分の中でハッキリするんだと思っている。
だが私はいまだに『子供のかわいさ』というのを”しっかり”理解出来ていない。姉の子がよく実家に来ているので私も会う事が増えたのだが、確かにその場で感じた”可愛らしさ”に関しては『可愛い』とコメントすることはある。なぜ可愛いと思うのかを少し考えてみた。

おそらく私は『子供のハイハイが可愛い』よりも
『もしおじさんのハイハイなら可愛いと思わないよな』と思ってるんじゃないか、という答えに行き着いた。
ちょっと自分でも書いていてゾッとするのだが、これはかなり本気で思っている。ちなみに”子供のハイハイが可愛いと思っていない”わけではない。
それよりも”もしこれがおじさんのハイハイだったら可愛くないよな”というのにウェイトしてしまう人間なのかなと感じている。
『あなたすぐカウンセリングが必要です』と言われそうだが、本気で子供の可愛さがわからない人もたくさんいるので、そこまで問題視はしない。
なんというか、”赤ちゃん”ではなく”一人の人間として”見た結果こうなっている、という感覚である。

#子供 #可愛さ #赤ちゃん #おじさん #理解できるか #理解できないか

生まれたいと思って生まれていない

人は『この世に生まれたい』と思って生まれてきた人はいない。
自分が決めた『生』ではない。
人間が、自分の親が望んだ結果生まれてきた。
おそらくその根本に耐えられない人間の多くが自決してしまっている。
もちろんそれだけが理由ではないだろう。人の人生には様々な事情がある。

『こんな人生嫌だ。』『生きていても意味が無い、辛い』
そう思うのも仕方ない。だって自分で選んで生まれてきてないのだから。自分の好きな時代、タイミングで生まれてこれないのだから。『こんな子、生まなきゃ良かった』なんて人間もいる。本当に勝手だ。あなたが望んだんでしょう。

このように『自分の命なんて・・・』なんて陥ってしまった人を、社会は『かわいそうだ』『気の毒だ』という人もいれば『勝手にしろ』という人もいる。どっちの言葉も当人を救ってやれやしない。じゃあこういう社会を変えていきましょう、と政治家たちは言いながら自分たちの高い給料を引き下げないために税金を集めるのに必死だ。メディアは『いのちのダイヤル』というよくわからない宣伝をしている。

誰もそんなことを望んでいない。じゃどうするか。
『命は尊い』なんてのは、ほんの片隅に置いといて、もし生きたいと思うのなら、望んでいなかった世界で自分がどうやって生きてくかを自分で考えるしかないんですよ。自分が生きやすいように行動していくしかないんですよ。
その方法は、人に迷惑をかけなければ良い。今の法律に反していなければ良いんです。

#望んでいない人生 #でも生きること #どう生きるか #タイミング

自分の命と他人の命

書いていて、なぜ自分は「生きたい」と思っているのかが少し見えてきた。
私は「一人で生きている」という認識で過ごしていない。必ず『他人と共に生きている』ので、他人に迷惑をかけられないし、かけたくない。そして同じように思っている人もいるのかもしれない。だとしたらやはり『他人の命を尊ぶべき』ということになるのだ。これが「命の尊さ」という思想の意味なのかもしれない。

だから、『自分の命』だけでひとくくりにしない方が良いかもしれない。
「お前の身体はお前だけのものじゃないんだぞ」という言葉を耳にするが、これは命に置き換えても一緒である。他人に迷惑がかかるという点もそうだが、やはり少なからず悲しむ人がいるという事実があるからだ。
そういう環境に今いない人には当然何も響かないのは承知なので、もしそういった方が読まれていたとしたらそれは本当に申し訳ないです。ごめんなさい。だが、もしかしたら自分もそうかもしれないのだ。だって死んだ後ってそれを確認することが出来ないのだから。そんな悲しいこと言うなと言われてもこれが真実だと私は思う。なぜそれが悲しいと思うんですか?と仮に聞いてしまったら『命は尊いでしょう』という答えがだいたい返ってきそうで、前述のとおりそれを言われたら追求のしようがない。

以上のことから、『命の尊さ』を深く考えることを私はおススメしない。という結論に至っている。世の中が『命とは尊いものだ』と叫んでいることにただ『そーだそーだ!』と同調するのではなく、『そういうものか』くらいに、心の片隅に置いておくだけで十分だ。それよりも

『自分の命がもし無くなって、誰かが困るかもしれない。そういう人たちの顔を浮かべてみてみる』

こっちをおススメする。これをすれば『自分の命』というのは何なのか、何のためにあるのか。というのが明確になっていくと私は推測する。
私もいまだに『自分の命』についての答えはわかっていない。
死ぬその瞬間まできっとわからない。最期までわからないかもしれない。
これが人生の追求なのかもしれない。

#自分の命は知ること #それが人生 #人生の追求


ひとつよしなに。

みのってぃ。


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