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表現の制約があった方が、自己表現はしやすいのか?

抹茶スイーツのテイクアウトの列に並んですでに15分は経っただろう。列が進む気配もなく、日なたのため後ろのカップルは帰ろうか迷い出している。

SNSで有名になると「とりあえず行列に並ぶか」という人が増えるような気さえしている。


明日は参議院議員選挙だ。昨日の悲惨な事件を振り返ると、せめて投票率が0.1%でも上がることを願わずにはいられない。

私はすでに期日前投票を済ませているが、若者同士で政治について語り合えるような時間は、まだ私の周囲ではめぐってきていない。


前置きのようなものが長くなってしまった。




自己表現の形というのは文章以外にもいろいろあるだろう。

noteはあくまで文字メインのプラットフォームであるが、
音声コンテンツや写真、絵やイラスト、、、さまざまな方法で自分のストーリーを作り上げている人たちがいる。
自身でクリエイターと名乗ることはしていなくとも、彼らはすでに自分が表現したい“言語化できない何か”をどうにかこうにか形にした、1人の表現者である。

私も未熟者ながら1人のクリエイターとしてここでたくさんのフォロワーさんに支えられている。


自分をなるべくありのまま、自分が表現したいがままに表現するとなった時、あなたは何を選ぶだろうか。
文字か?絵か?音か?映像か?ダンスか?
なんでも良いけれど、表現方法はきっと無限にあるだろう。


そうやって表現方法を選ぶとき、あなたはその表現方法を誰かに狭められている、と感じたことがあるだろうか。



例えば就活においてエントリーシートと呼ばれるものは、基本文字の羅列だ。自己PRと称された項目に写真を貼ることが可能なこともある。


だがしかし多くの場合はESと言えば文章だ。
このある種の文化をはみ出てきた(?)のがエントリー動画と呼ばれるようなもの、、、だが
制約がないならないでそれもまた困る.....という現象も同時に出てきた。

動画は身振り手振りで自分を表現可能だし、服装や背景に凝ることもできる。
だが編集はNGという制約がなければ、またそれはそれで難しい。テロップを入れても良いのか?というようにちょっと“凝る”が実現できてしまう。表現の幅が広がると、どこまで時間をかけるものかと悩んでしまうのもまた事実である。

凝り始めると止まらないんだよな〜と、あなたも1度くらい何かに夢中になったこと、ない?


ESは表現の方法に制約がある、だからありのままなんてかけるわけがない....と思ってしまうのは、就活からの逃げなのだろうか。

選択肢があるということは、幸せである場合の方が多いのかもしれない。自分で選ぶことができる、というのも1つの権利だからだ。


ただし自分に選ぶという能力が伴っていない場合――、選択肢がない方が、楽なこともあるのかもしれない。迷ってしまうという作業が苦痛な人もいるだろうから。



表現の幅に制約を設けるかどうかというのは、非常に難しい問題である。
最近のnoteは、noteの中に埋め込めるコンテンツ(?)の種類が増えたし、埋め込む時のデザインも豊富になったように思う。

これは表現の幅が広がったとも言えるが、色々な表現方法ができるようになったからこそ、
どう表現すれば読んでもらえるか?興味を持ってもらえるか?という悩みは良くも悪くも生じただろう。
自分の過去のnoteの話をする際の引用1つでさえも、色々な表現の工夫ができるようになったのだから。


実際文字(Twitter)や画像(インスタ)が主流だったSNSの世界も、動画(TikTok)や音声コンテンツ・ラジオ(色々)に押しつぶされ始めている。


表現方法が増えれば増えるほど、私たちには自己表現をする際に、その方法を選択する能力が求められてきているのだ。



結局何が言いたかったのか正直自分でも分からない。でも現時点の私は、「基本は文字で表現する」というnoteの制約が好きであるし、見出し画像の適度なサイズも気に入っている。
ここは自己表現の場所として、自分の意思で確かに選んだ場所のはずである。