誰かの目が気になること
何もせずにボーーーっとしているだけで1日が終わってしまったような気がする。最近正直自分はたるんでいる。生活習慣が乱れているというわけではないけれど、ボーッと考え事をするような時間が増えてしまっている。
まだまだ2年生のうちにやっておいた方が良いことはきっとあるはずなのに。
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おとといのつづき –––– 「見える誰か」、つまり他者の目から監視されていることについて今日は書いていく。
(↓は一昨日のnote)
私はどちらかといえば「見えない力やシステムからの監視」より、「他者の視線」が気になるタイプだ。いつも他者からどう見られているか考えて、いつも他者の視線に怯えている.....とかそういうわけではないけれど、「学校」という場所で同世代の人間たちと"集団生活"というものを送っている以上、他人の目が気にならないはずはなかった。
他者の目を全くと言って良いほど気にせずに自由に振る舞える一部の人が羨ましい。自分に自信があるのか。周りにどう思われようが気にならないのか。「自由」でありたいのか。自分が好きなように自分の人生を生きることができる人はわずかかもしれないけれど、その"ほんのひと握り"になりたいとさえ思う。
集団の中で、特に「スクールカースト」なんてものが存在してしまう学校生活の中で、「他人からの視線」つまり、「他人からの評価」、「自分が他人からどう見られているのか」ということを考えずにはいられない。この前もこの話は書いたが、「自分より上なのか下なのか」という基準で他のクラスメイトのことを評価してくる人間は少なくない。
どんなに「他人からの評価」を気にせずに生きようと努めたって、そうしたって誰かからの評価は自分に付きまとってくるし、その評価によってクラス内の立ち位置も決まってしまう。
他者に認められ、評価されることは時に自己肯定感を高めたり承認欲求を満たすことにつながったりするけれど、「他者」というものが自分を評価している以上、「他者」の考えによってそんな"良い"評価だって簡単に覆ってしまうかもしれないのだ。だからこそやっぱり「他者からどう見られているのかな....」と時に少し怖くなって考えてしまうことがあるのだ。
必要なのは「クラス」という集団の空気に溶け込むことなのだ、と何度思い知らされたことか。
周りより優れている者は嫌でも周囲の嫉妬の感情を感じてしまうときがある。周りより劣っているものは者は嫌でも周囲と自分を比べて"出来ない"自分に自己嫌悪することがある。リーダーシップをとる者は偉そうにしていれば周囲に陰口を言われる。教室の隅っこでアニメの話に花を咲かせている者はクラスの中心にいる人たちにオタクだとかインキャだとかそんなことを言われる。
流行りに乗らない者は話についていけなくなる。異質な者は周囲に注目されて良いこともあるけれど、時にそれは悪い意味で"好奇の目"にさらされることになる。
教室内では敵を作らない。誰とでもそれなりにうまくやる。恋愛に関して女の恨みは怖い。余計な恨みを買いたくなかったら、本当は人と関わらないのが1番なのだ。
他者という存在がいる以上、私たちは「周囲の人と関わる」ことを要求される。
授業内ではグループワークがあるし、行事ではクラスで一致団結!なんていうことも多い。他者の目を気にしながら、他者からの評価に揺さぶられすぎないようにしながら、他者の注目を浴びすぎないようにしながら、なんとか「他者」との関わりを持たなければならない。
学校という枠組みの中からはみ出してしまえば、まだまだそれを咎めるような本当にダメな大人(と、個人的には思う)はたくさんいる。学校の中でむやみに反感を買わず咎められずそれなりに勉強をし それなりに友達もいて 先生が扱いやすいような人間でいることが見えない力によって望まれている気もしている。
周囲と関わろうが関わるまいが、誰かからの視線は否応なしに感じてしまうもののような気もするし、「他者から評価をされない」ということは不可能なのかもしれない。
このnoteの結論が何か明確にあるわけじゃないけれど、ただ1つ思うのは結局生きていく上でこれからも「他者からの視線」、「他者からの評価」をある程度は気にしなければならない。
"学校"という場所にいた頃よりも、良い意味でそれらを気にし、自分がまた前に進めるような原動力とすることができれば良いと、今は綺麗事ながら思っている。