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母の着道楽

夕食後にアイロンがけをしていると

私:このシャツそろそろ終わりだね・・・
母:そうなのよ・・・もう、襟のところが擦り切れてきたから今年いっぱいにしようと思うの
私:なんだかんだいって、もう20年も着ているものね
母:シャツのメーカーもそんなに着てもらえるなんて思ってないわよね。長年の愛用を表彰して金一封くれないかしら??
私:ハハ・・・金一封は難しいかもしれないけど、感謝状くらいはくれるかも。そういえば、このシャツ、もともと私が着ていて、こればかりを着て旅行していたら、ママが「もっとほかのお洒落な服を着ていきなさい」っていって、私がこれ着るの、嫌がったよね
母:だって、いつも同じ服着て写真写っているんですもの。なんだか恥ずかしくて・・・
私:私、そういうことにあんまりこだわりないのよね・・・
母:そういえば、あなたが服ほしがった記憶ってないわね・・・

私が服をほしがった記憶が母にないのは、私にいわせれば、ほしいなと思う前に、母が服を買ってきてくれたからである。

* * *

私が小学生の頃、母は実家が営む菓子屋に勤務していた。夜8時に店が閉まるのだが、自宅と店が別にあったので、夜8時少し前に自転車で私が迎えにいっていた。ときどき母はすぐに自宅には戻らず、商店街の洋品店に立ち寄って、私や弟のための服を見繕ってくれた。それも何着も。

翌日、弟と私は必ずそれを着ていくのだが、あるとき買ってくれた服が紺色のコーデュロイのズボンに白のシャツ、えんじ色のチョッキにサスペンダーといったものだった。男子中学生がブレザーを脱いだときのような組み合わせで、正直、あまり気乗りがしなかった。

当時、クラスに他人の服装の品評にうるさい同級生がいて、その子にまたグズグズ言われるのが憂鬱だった。教室に足を踏み入れたとたん、真っ先にその子と取り巻きたちに囲まれて、そして上から下まで舐めるように見られた。

同級生:それ、新しい服だよね。
私:うん、そう。昨日、お母さんが買ってくれたの。でも、ちょっと男の子みたいだよね。

相手がいいたそうなこと、いわれる前にいってみた。

同級生:ふーーーん。でも似合っているわよ。

その日はめずらしくそれで引き下がっていった。心の中で、「セーフ」のポーズをして、席についた。

「似合っているわよ」は決して褒め言葉ではないことはわかった。その子は、自分がクラスの女子の中で一番のおしゃれで、それ以外は引き立て役くらいにしか思っていなかったので、私が女子として自分より注目を集めそうな服を着ていたらグズグズいうところだったのかもしれないが、新しい服が男子風で彼女にとっては品評にも値しないということだったのだろうと理解した。

それはそれで、私としては清々しかった。

母が勤務する菓子屋に帰ると、母が待っていましたとばかり寄ってきて、

母:その服、なんていわれた?
私:あー、似合っているっていわれたよ。
母:そうでしょう?
私:でもちょっと男の子みたいともいわれた・・・

友人にいわれたという体で、自分の不満をチラッといってみた。

母:えーそう?今は「マニッシュ」っていって、女性が男性のようなズボンを履いたり、ネクタイのようにリボンをしたりするのは、お洒落の最先端なのよ!その子、わかってないわねー

心の中で、わかってなくてすみませんねと悪態ついた。

その後もことあるごとに服を買ってくれた。年頃になると、流行を取り入れたものを用意してくれたし、大人っぽい着こなしも教えてくれた。すると友人たちから「それかっこいいね!」といわれるようになり、母の見立てに全幅の信頼を寄せるようになっていた。

一方で、私があまり考えない着こなしをしていたり、TPOにそぐわない服を着ていたりすると、とたんに嫌な顔をした。

あるとき、学校から戻ると隣駅のデパートにいるので、すぐ来るようにとの書き置きがあった。とりあえず鞄だけ置いて、服装はそのまま、お出かけ用ハンドバッグを持ってデパートに駆けつけた。待ち合わせのレストランで私を見かけるや否や

「なにその格好、電車に乗ってデパートに来るんだから、それに相応しい服を来てきなさい」

と叱った。その日は体育の授業があり、脱ぎ着の楽な服を着ていた。当時まだデパートは、サザエさん一家がそうであったように、おめかしをしていくべきあらたまった場所で、周囲の御婦人たちはワンピースにハイヒール、ハンドバッグという出で立ちだった。

年に二度ほど、そのデパートの中華料理のレストランで家族そろって食事をすることがあった。夜出かける前には、風呂に入って体を清めて?ワンピースを着て、相応の靴とバッグを身につけて来ることを考えると、たしかに今日の服装は普段着すぎたなと思った。

そうはいってもね・・・学校から帰ってきたばかりで、着替えている時間なんてなかったんだよね・・・と言いたいところではあったが、母と言い合いになるのはめんどうくさいので、ハイハイと返事だけした。

高校は標準服があったが、着なくてもいい学校だった。母は標準服を買ってはくれたけれど、私服で行くことを推奨した。同級生たちは標準服に私服のブラウスやシャツをあわせていたが、フル装備私服で通学したのは、私ともう一人の友人だけだった。

もう一人の友人は途中、アメリカに留学してしまい、結局、私はクラスでただひとりフル装備私服で3年間通った。毎日コーディネートを考えるのは骨が折れたが、母が都度服を補充してくれたので、着るものには困らなかった。

しかし、女子大に入学したころから、母の買ってくれる服を着たくないと思うようになっていた。ときはバブル経済の終盤、『J J』や『CanCam』といったファッション誌のモデルさんのような格好をした女子大生が、街やキャンパスにあふれた。

当時の女子学生のファッションの主流は、ワンレン、ボディコンのイケイケ女子大生派と、ストレートヘアに膝上のキュロット、ミハマの靴のコンサバ女子大生派のいずれかで、母が選んでくれる服はそのどちらでもなかった。

襟のあるシャツやブラウスに膝丈のタイトスカート。あえてどちらかといえばコンサバに類されるのだが、そのときのコンサバ女子大生ファッション特有の可愛らしさや華やかさといったものが、まるでなかった。

私は学校の授業には真面目に出席し、歌舞伎研究部といったものに入っていたので、どうしてもお堅くみられがちで、そこに襟のあるシャツやブラウス、膝丈のタイトスカートなどを着ていると、大学の職員が教員に間違われた。

そんな事情で母の買ってきてくれる服はほとんど着なくなり、名実ともに「タンスのこやし」となった。着たい服、着たくない服をめぐって夜通しの口論となることもしばしばあり、母はしだいに服を買ってこなくなった。


四半世紀の時が流れて数年前、母が75歳の誕生日を迎える年、身辺を整理したいと言い出し、持っているものや書類などを処分・整理することになった。アルバムには、母自身の誕生から成人、結婚、私たちの子育てなど、母の人生が詰まった写真がいっぱいあった。

私や弟の七五三の写真、小学校入学の写真などもあり、それぞれ懐かしがっては、整理する手が止まった。あの頃、まだ七五三用の衣装をレンタルするという習慣がなくて、和装を誂えるか洋装を購入するかのどちらかだったよね、などと話しながらアルバムをめくった。

私は3歳のときも7歳のときも和装だったのだけれど、特に7歳のときの着物は沖縄の紅型染めのもので、大人の着物が2枚つくれるくらいのお値段だったと、そのとき母から初めてきいた。

大人っぽい青紫色(茄子紺色)がとても気に入り、どうしてもこれがいいと言い張った私と、赤やピンクなどの少女らしいものにしたかった母と呉服屋でケンカになったことは覚えていたが、そんな高価なものだったとは!

ランドセルを背負っている方の写真では、朝の連続ドラマ『べっぴんしゃん』のモデルとなったファミリアで購入したワンピースを着用している。水色のワンピースで、襟のふちと袖口には白の細いレースがあしらわれ、スカートには細かいプリーツが入っている。今みてもいい仕立てのワンピースだ。

「ママって、私たち子供の洋服や衣装には、とてもお金と気を遣ってくれたよね・・・。おもちゃはあまり買ってくれなかったけど・・・。衣食住では『衣』にこだわりあるよね。着道楽っていうか・・・」

すると母はアルバムの中から、自分が子供の頃、ピアノの発表会で撮った写真を見せてくれた。

「このときね、周りの子たちはみな晴れ着を着ているのに、私だけ、普段着だったのよ。母(私にとっての祖母)はお店(菓子屋)が忙しくて、そんなことにかまっている暇がなかったんだけど、悲しかったのよね・・・だからあなたたちにはそんな思いさせてはいけないと思って、つい、いろいろ買っちゃったのよね」

初めてきく、服にまつわる母の心の傷。大学時代、こんな服はもう時代遅れで誰も着ない、着たくないといって口論になった夜のことを思い出して、胸が痛んだ。

それをきっかけに母自身のアルバムを見ていくと、短大入学前後からさまざまな和服を着ていることに気がついた。この和服はあの時も着ていたね、この和服は見たことないけど、今どこにあるの?などと尋ねてみると、祖母が何かの行事や友人の結婚式、お見合いのたびに和服を誂えたということだった。

なんだ、おばあちゃんもママにはたくさんの和服、誂えてくれてたんじゃない。

その年に99歳で亡くなった祖母に対しては、母には母なりの思いやわだかまりがあることは知っていたので、喉まで出かかった言葉をのみ込んだ。

ピアノの発表会は戦争が終わった直後で食うや食わずの生活だったから、晴れ着を用意することはできなかったかもしれないけど、お店が軌道に乗って経済的な余裕ができた頃には、祖母は祖母なりに母に気を遣っていたように思えた。

* * *

結局、母の着道楽は私には引き継がれず、弟一家に引き継がれた。弟一家はみなお洒落で、高価ではないけれど会うたびに違う服を着ている。そんな弟一家を見るたびに、「私の着道楽を○○くん(孫)が引き継いでくれたのね、嬉しいわ」と顔をほころばせる。

そして母は母で得意な手芸を生かして、通販で買ったシンプルな服に刺繍をしたりアップリケをしたりして、自分なりの服を長く(20年も!)楽しんでいる。

衣服は人生なり、人生は衣服なり。



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