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そして鳥たちは、飛び方を忘れてしまった。【第1話】【全3話】

【あらすじ】
佑子の父は、大手建設企業で働くサラリーマン。父は、長らく単身赴任で働き続けた会社を退職。退職後は、工場へ出向し今もなお働き続けている。ある日、父は家族に「自費出版をしたい」と言い始める。費用は200万円。父の告白に、目を丸くする母と佑子。

父の自費出版騒動を通じて起こる家族のドラマ、会社員として働く父親のストーリー、不幸話をネタにして稼ぐことへ葛藤するWEBライターの峰岸有紗。働くとは何か。家族を犠牲にしてまで、人生を仕事にささげた先にあるものとは。

父の自費出版騒動に翻弄される家族×退職出向で働く父×WEBライターの3つの短編ストーリーから成る、お仕事物語。

281文字

(各話リンク)

第2話はこちら
第3話はこちら

第一話【娘: 佐藤佑子さとうゆうこ

 けたたましい母の金切り声が、あたり一面に響く。重たい瞼をこすりつけ、ゆっくりと佑子は腰を上げる。窓の隙間から、閃光が差し込んで、目がジンジンと痛い。

 時計を見ると、AM6:00。出勤にはまだ早いし。それにこの時間だと、母はまだ起きていないはず。この騒ぎは、何事だろうか。まぁ、ヒステリックな母のことだ。どうせまた、父が何かをやらかして、喚き散らしているのだろう。どうして、そんなことをしたのよって。あなた、馬鹿なんじゃないのって。

 それとも、またぼったくりバーにでも捕まったのだろうか。母の話によると、父は過去に一度会社の人たちと飲んでいて、そのままお店に一人残ったところ、高額な金額を請求されたことがあるらしい。

 なんでも、カウンターのママが失恋して悲しそうだからと、慰め続けたみたいで。そんな嘘の涙で生きてきたような女のことなんか、放っておけばいいのに。

 こんなことは、一度や二度ではない。父は、そもそもお人よしな性格だ。真面目に生きているだけなのに、どこの馬の骨かもわからない人間から、常に「優しさ」を搾取され続けている気がする。

 この世は、優しい人に対してつくづく残酷だ。そもそも父は、隙も多い人だし。悪い大人からすれば、恰好のカモなのだろう。

 それとも。まさか、クレジットカードでこっそり借金でも重ねて、また飲み歩いていたのだろうか。そういえば、父は以前、人の誘いを断れないからという理由で、借金を重ねていた時期がある。

 あの時も、母は早朝から甲高い雄叫びを上げていたはず。そうだとしたら、顔も知らないどこかの悪者ではなく、父が完全に悪い。

 きっと今回も、ろくな話じゃないはず。やっぱり面倒くさいし、関わらない方がいいのかも。でも、ここであの2人を放置したら、また夫婦喧嘩が長期化するかもしれないし。

 そろりそろりと、足音を立てないよう、佑子は階段を下りる。床下から、母の狂ったような叫び声がこだまする。

「お母さん、どうしたの」

「佑子、聞いて。お、お父さんが……」

 母の顔は、真っ青だ。神経質で、怒ると鬼の形相で真っ赤になる母の顔は、屍のように青ざめていた。目にいっぱいの涙を浮かべ、今にも零れそうだ。こんな母の表情は、今まで一度も見たことがない。

 部屋の奥には、座敷童のようにぽつりと父が座っている。すっかり薄くなった頭皮に、丸まった背中がどこか頼りない。昔は身長も高く、すらっとしていたし、髪だってふさふさだったのに。いつからだろう。父が、こんなに小さくなってしまったのは。

「お父さん、今度は何をやったの?」

 そう言って、佑子は眉根を寄せた。

「お父さんね、騙されたみたい」

 母の体が、ぶるぶると震えている。凍えたように真っ青な唇は、今にも溶けてなくなってしまいそうだ。

「えっ。騙されたって。どういうこと?もしかして、オレオレ詐欺とか……」

「違う。自費出版するんだって」

「自費出版?どういうこと?」

 母の言葉を聞くなり、佑子は首を傾げた。

「Instagram(インスタグラム)に、見知らぬ人から自費出版のお誘いが届いたみたい」

 母の声が、震えている。そういえばお父さん、飲食店の食べ歩きが趣味だった。お店へ足を運べば、決まって食べ物の写真を撮影し、Instagramにアップしていたっけ。でも、写真はどれもピントが合っていないし、ぼやけたものも少なくない。

 いずれの写真も、どこにでもいるごく普通のサラリーマンが、趣味で撮影している程度の陳腐なものばかりだ。あの写真に、一体何の価値があるのか。それに自費出版だなんて。無理にも程がある。おそらく、父は自費出版系の詐欺にでも捕まったのだろう。

 怯える声で、佑子は「それで、いくらかかるの?」と尋ねた。父はどれだけ、騙されたのだろうか。いくらお金を取られたのか。胸の動悸がおさまらない。

「それが、200万円かかるって」

「えっ。嘘」

 佑子は、すっとんきょうな声をあげた。

「だって、仕方ないだろう。出版社の方が、カラー写真の多い書籍を出版する時は、文章のみよりお金がかかると言うから……」

 父の声が上擦っている。必死に言い逃れをしようとしているけれども、目はきょろきょろと泳いでいる。ああは言うけれども。父も、本当は不安なのだろう。

「お父さん。じゃあ、文章のみで出版する場合だと、通常どれくらいお金がかるのか知っているの?」

「それは、わからない」

 父は口を一文字にして、きっぱりと答えた。そんなことも調べないで、自費出版をしようとするだなんて。自費出版するなら、せめて出版にかかる相場費用くらいはネットで調べるはず。なんで、自分なりに調べようとしないのか。佑子は、くらくらと眩暈がしそうになった。

「わからないなら、確認しなきゃ。文章のみの場合、書籍を出版する時には、どれくらいお金がかかるのか。インターネットをググれば、いくらでも情報が出てくるでしょう?」

「ググるって、何だ?どこかに、潜るのか?」

「ググるの意味は、検索エンジンのGoogleで検索するって意味だけど」

「Googleって何だ。パンの種類か?父さん、横文字ちょっと疎くて……」

 佑子は、やれやれと頭を抱える。父が頭に浮かべているのは、Googleではなくベーグルの予感がする。父はInstagramも使えるし、食べログ情報にも詳しい。ただ、インターネットにすべて詳しい訳ではなく、ところどころにおいて、知識が乏しい。

 それにしてもGoogleの意味すら理解できない父が、よくもまぁInstagramなんて使えたものだ。Instagramは投稿画面も複雑だし、私ですらプロフィールの入力に手間がかかったほどだ。よっぽど、父はInstagramが楽しかったのだろうか。

「このまま真面目に答え続けると面倒だから、もういいよ。お父さん。とりあえず、私が今から自費出版の相場について調べるから、ちょっと待って」

 小刻みに震える指で、佑子は「G」と書かれた虹色の文字をクリックする。中央の検索窓に「自費出版 費用」と、震える指で入力した。

 ゆっくりと携帯のスクリーンをスクロールし、「自費出版の費用とは?文章のみ、写真が多いパターンなど状況別に費用相場を詳しく解説」と書かれた文字をクリックする。

 佑子はくまなく、記事の情報を隅々までチェックした。目を凝視しすぎたせいか、瞳の奥がぎゅっと痛い。指で瞼をこすると、じんわりとした痛みが皮膚を伝う。

 記事の情報を確認すると、どうやら自費出版の費用相場は、出版社の規模によって違いがあるそうだ。その他にも、文章のみにするか、写真を多めにするかなど、条件によって金額も変わるらしい。

 ネット記事で紹介された自費出版の費用相場は、おおよそ100~200万円前後と書かれている。出版社によっては100部から出版できるところもあるが、大きい出版社だと自費出版の条件を「300部から」としているケースが多く、費用もその分高くなるそうだ。

 父が出版社から要求された金額は、200万円。となると、ある程度大きな出版社だろうか。それとも、写真が多いから費用が高くなっているのかもしれない。

 まぁ、ネットの情報など正確な訳でもないし。顔も名前も知らない、どこかの誰かがネットで情報を拾っては、継ぎ接ぎしたものかもしれない。

 そもそも会社によって違いがあるなら、正確な情報なんて、インターネットに落ちていないのではないか。おそらく、サイトによって情報もまちまちだろう。

 結局、正確な情報など探したところで、どこにも転がっていない気がする。佑子は検索の手を止め、父に目を向ける。不安そうに泳ぐ父の瞳には、険しい表情をした自分の姿が映っている。

「お父さん。その出版社に、私も同行する」

「でも、お前に迷惑をかけるのも悪いし……」

 父は申し訳なさそうな表情で、ごくりと唾をのみ込んだ。

「仕方ないでしょう。お父さん、心配だし」

 佑子がそう伝えると、父の凝り固まった表情がみるみる緩んだ。


佐藤家の食卓

 ご飯の時間になると、不揃いの大きなお皿が食卓に並ぶ。湯気の立つお椀を口に運ぶと、濃厚な味噌のまろやかさに、 舌鼓したづつみを打つ。ぴりぴりした表情の母と、顔を合わせてご飯を食べるのは、ちょっぴり苦手だけれども。

 鰹出汁から丁寧に作る母の味噌汁は、いつ飲んでも美味しくて、一口含むたびに佑子は舌を鳴らした。

 思春期を迎えた頃の佑子は、いつも母と2人きりだった。佑子の父は、大手の住宅メーカーで働き続けている。転勤族だった父は、60歳の定年を迎えるまで、単身赴任だったため、家にはいない。

 父の勤め先は大手企業だったこともあり、福利厚生は充実していた。なんでも、父の勤める会社は自社の家を購入すると、特別に「単身赴任手当」が月に20,000円つくらしい。赴任手当がつくなどの理由から、父は最低でも1ヶ月に1回は家に顔を出していたと思う。

 父が家に戻っても、特別何かを話す訳ではない。父はごろんと床に寝そべり、テレビを見てばかりいる。せっかく家に戻ってくるなら、もっと家族に話しかければいいのに。

 そして、父は少し顔を見せたらまた、赴任先へすぐ戻ってしまう。友達のように、進学の悩みを父にしたことは、これまで一度もない。悩み相談どころか、怒られたことすらない。本当に、父とは家族なのだろうか。時折、疑問に思うことがある。

 親友の 有沙ありさなんて、いつも父や母に叱られたことや、門限の話を酸っぱい表情で話すというのに。私には、家族について話せるネタなど、何一つない。有紗の家は、家族との会話が常に絶えないんだってさ。きっと賑やかで、楽しい家族なんだろうなぁ。なんだか、ちょっぴり羨ましい。

 有紗は父が口煩くて、早く家出したいと言っているけれど。どうせ、本気で家出などするつもりもないのだ。あの子は、ちょっと不幸な話をして、人の気を惹きたいだけ。それにあの子は少し、構ってちゃんな所が昔からあるし。

 有紗の話を羨ましいと頷くうちに、私の思春期はあっという間に過ぎていく。20歳を過ぎるまでは、時間が経つのも遅かった。20歳を過ぎてからの、時間の経ち方は実に恐ろしい。

 じっくり、日々の出来事を噛み締めている暇もない。このまま棺桶に片足を突っ込むのではないかと思うと、ぞっとした。

 周囲の友達は、夢だの恋だの。大してオチもないような話を、ケラケラと笑いながら語り続けていた。あの子達の笑い声や、さえずりのような噂話が聞こえるたびに、胸がざわめく。

 あの子たちは、毒にも薬にもならないような話を、終始きらきらした瞳で語り続けていた。昨日のドラマ、見た?あの俳優さん、かっこいいよねとか。

 それが一体、あなた達の人生に何を与えるのだろうか。みんな、何がそんなに可笑しくて笑っているのだろう。私は、ちっとも面白くないんだけど。いいよね、何もなくても笑える人生なんて。

 大した話でもないのに、みんなはずっと楽しそうにペチャクチャとお喋りをしている。何も面白いとは思えなかったけれども、周りと足並みを揃えるべく、口を一文字に広げて笑った。

 でもよく耳をそばたてると、あの子たちにはそれぞれに夢や、やりたいことがあるみたいだった。

 みんなは、一体いつ夢を持ったのだろうか。あの子たちは夢や、やりたいことがあるから、ありふれた日常も瞬いて見えるのかもしれない。

 進路、恋、悩み、相談。いつ如何なる時も、あの子たちの隣には、親が寄り添ってくれていたのかも。私には、相談できる人なんて、1人もいなかった。

 食卓の母はいつも仏頂面で、「テストの点はどうだったの?」しか言わないし。テストの点が悪ければ、2~3日は口を聞いてもらえない。

 母親の顔色を伺いながら、勉強机に噛りつく日々。もう勉強なんか退屈だし、受験シーズンなんて早く終わってほしかった。それでも、母の張り詰めた顔を見ると、勉強からは決して逃れられないと感じる。

 受験シーズンは、来る日も来る日も、机しか見ていない。有紗は彼氏ができたと呑気に語っていたけど、私はそれどころじゃない。そんな有紗も、受験は私と同じ学校を受けるという。

 あの子は私と違って頭がいいし、要領も良い。私みたいに勉強しなくても、どうせ涼しい顔をして受かるのだろう。

 佑子は猛勉強の甲斐もあり、地元の名門大学へ無事進学した。親友の有紗も、飄々とした表情で大学を合格。有紗からは「4月からも、一緒だね」と言われたけれど。ちょっぴり、胸がざわざわした。

 大学卒業後、佑子は家の近くにある銀行に就職する。大学が決まった時も、就職が決まった時も。母は険しい表情を緩めて、「よかったわね」と喜んでくれた。

 母が笑ってくれるのは、嬉しかったけど。ほとぼり冷めた頃に、また顔を引き攣らせ始める日が訪れるのではないかと冷や冷やした。

 母は、大学への進学、就職が決まる度に、赴任先の父へ連絡をしていたそうだ。しかし、父はいつも「そうか」の一言で済ませたらしい。母は電話を切るなり、いつも呆れた様子だった。

「あの人は、いつもそう。家族の大事な報告も、ぜんぶ『そうか』で済ませるのよ」

 そう言って、母は重い溜息をつく。大学の進学、就職を父に連絡してくれるのは嬉しいけれど、溜息つくくらいなら。いっそ、やらなくていいのに。寂しそうに背を丸める母に、佑子はそっと「お父さんは、昔からそういう性格だから」と声をかけた。

 母は、父に対してあまりいいことを言わないけれど。父は不器用だから、言葉で上手く感情を言い表せないのだと思う。きっと受話器の向こうでは、くしゃっと笑って喜んでくれているはずだ。


父、退職

 父は60歳を過ぎてから、退職してようやく家に戻った。家に戻ったころの父は、体中の覇気を吸い取られたかのように、すっかりやせ細っていた。

 肉が削げ落ちた輪郭、枯れ木のように朽ち果てた腕は、まるで 蟷螂かまきりみたいだった。やつれたようしか見えない父は、退職後も勤めていた会社の工場へ、退職出向して働き続けている。

 退職出向とは、退職後も雇用契約を保持した状態で、別の事業所で勤務することを指す。工場は、家から電車で片道1時間ほどかかる。

 すでに骨と皮膚のみになった体に鞭を打って、無理をして父が働き続ける理由。それは、家の住宅ローンがまだ残っているからである。

 我が家は30年前、5,000万円の注文住宅を、ローンを組んで購入した。家を購入した理由は、会社の人から「そろそろ、家を買った方がいい」と勧められたからだ。

 家を買うのが無理なら、本来なら断ればいいような話だったのに。それなのに人の誘いを断れない父は、素直に応じてしまったのだ。

 あの日も確か、母は連日のように金切り声をあげて、怒り狂っていたっけ。両親が喧嘩をするのは、いつも佑子が寝静まってから。様子を伺おうと何度も思ったことがあるが、怖くて試したことは一度もない。

「私は、絶対反対だからね。そんな高い家、どうして買わなきゃいけないの」

「だって、みんな家を買っているし。購入していないのは、フロアで俺しかいない。買わないと、職場にいづらくなるから。部長も、『老後のために、そろそろ家を購入した方がいい』っていっていたし」

「あなた以外の人は、みんな出世して、いい給料をもらっているからでしょう?貯金は佑子の塾で底をつきているし、頭金だって用意できない。

お父さんが住宅会社で働いているから、いつかは自社の家を購入しなきゃならないだろうとは思っていたけど。まさか、そんなに高いだなんて。せめて、注文住宅にする必要はないんじゃないの?」

 私を塾に通わせているの、もしかして無理をしているのかも。正直、別に塾なんか通いたくなんてないのに。そもそも塾に通っているのも、母が勝手に申し込んできたからだ。

 今の時代、女性も教養がないと生きていけないと。いい大学に通って、大きな会社に就職しなさいと。ステレオタイプのような母は、ボウフラのようにふわりと生きる私に、釘を刺し続けた。

 本当は、知っている。母がキャリアを捨て、専業主婦として過ごしていることに引け目を感じていることを。母は妊娠を期に、長く勤めていた会社を辞めてしまった。

 母はよく、昔働いていた頃のことを嬉しそうに話すことがある。会社で働いていた頃は、字が綺麗だねと上司に褒められていたとか。仕事を辞める時も、もっと続けてもいいと、先輩から声をかけられたとか。同じフロアのハンサムな男性から、交際を申し込まれたなどなど。

 昔の話をする時の母は、いつも瞳にきらきらとした星が瞬いていた。でも結局、産後に体調を崩してしまい、母は働くことを断念したらしい。

 本当は、出産後も仕事を続けたかったのかもしれない。母がキャリアを捨てて後悔しているのは、もしかしたら自分のせいだろうか。私が生まれてきたことを、母は呪っているかもしれない。

 口には出さないけれど。私なんて生まれてこなければよかったと、本当は思っているのではないだろうか。ぴんとはりつめた表情の母を見る度に、佑子は思った。塾なんて、無理なら別に辞めてもいいのに。それでも母は、絶対に辞めちゃダメだと言う。

「落ち着いて聞いてくれ。決して悪い話じゃないんだ。部長が『ここに、いい土地がある』って言うから、紹介してくれたんだよ」

「部長が、その家に住む訳ではないでしょう?どうせ、会社の売り上げをあげたいから、社員に無理強いさせているだけじゃないの。

そんなにいい土地なら、部長が購入するはず。あなたに進めているってことは、売れない土地だからでしょう?どうして、あなたはそんなに部長の言うことばかり聞くのよ」

 部屋の奥から、宙を引っ掻いたような母の叫び声が聞こえる。佑子は重たい布団を、そっと被った。

「そんなこと言われても、直属の上司だし」

「直属の上司だからって、何でも聞けばいい訳じゃないのよ。あなたはだから、会社で舐められるのよ。馬鹿にされるし、出世だってできないんだから。家なんて、絶対無理だからね」

「まぁ、買ってみればなんとかなるよ」

「どうして、そんなことが言えるの?家のお金の管理だって、私が全部やっているのに。それに家を買うなら、お小遣いを減らすから」

「わかった。お小遣いを減らしてもらってもいい」

 母の甲高い声と、父の野太い声が響く。布団に深く潜っても、両親のやり取りは耳にすっと入ってきた。本当は、2人の会話なんか聞きたくないけれど。嫌でも耳に入ってしまう。 

 どうか、早く2人のやり取りが終わって欲しい。佑子は、ぎゅっと目を瞑る。早く寝たいのに、瞼が言うことを聞いてくれない。


 あれは、夕立のように続いた両親の言い争いがぱったりと止んだ頃だろうか。私にも、部屋ができた。父が家を購入したのだ。

「今日から、ここが佑子の部屋だ」

 隣の父は、どこか誇らしげだった。ツンとするシンナーのような香りで、佑子はごほっとむせる。新築特有の香りだろうか。

 フローリングの床は、ひんやりと冷たい。足踏みすると、ふかふかと足跡がつく。足跡は数分すると、ゆっくりと時を刻みながら、元の姿へ戻ってゆく。

 大手住宅メーカーの家でも、床が頑丈という訳ではないのだろうか。それとも、物が落下した時の衝撃に備えて、あえて床を柔らかくしているのかも。首を傾げながら、何度も佑子はその場で足踏みをする。

 壁をおもむろに触ると、ごつごつとした突起が手のひらに当たって、じんわりと痛む。今日から、ここが自分の部屋になるのか。

「壁は、遮音性に優れた素材を作っているから。これからは、大きな声を出してもいいぞ。それに外壁は燃えにくい素材を使っているから、火事にも強いだろうし」

 父は、家で使われている材質の特徴について、嬉しそうに語り始めた。説明をする父の口元が、やんわりと緩む。自分が勤める会社の家を建てることができて、とても嬉しいのだろう。

 自分の部屋はずっと欲しかったし、嬉しいけれど。本当に、これで良かったのだろうか。両親は、この家を建てるにあたり、連日のようにもめ続けていた。喧嘩するくらいなら、正直家も。自分の部屋も。何もかも、私は要らなかったのに。

 家を建ててからというもの、母は毎月月末になると、鬼の形相で帳簿とにらめっこをし始めた。母によると、毎月のローンとボーナス払いで家計も火の車らしい。

 いくら支払っているかは知らないが、はりつめた母の背中を見る限り、家計のやりくりが大変というのはひしひしと感じていた。

 家を建てた途端、まるで会社からの嫌がらせのように父の転勤が決まった。家を建てた以上、父の単身赴任が強制的に決まったのは言うまでもない。家を建てたというのに、張本人がその家に住めないなんて。会社は残酷な指令をするものだと、父を不憫に思った。

 それから父は、数年に1回おきに全国各地の支店へ転勤を重ねる。どうやら父の話によると、転勤先の売上によって、ボーナスに違いがあるそうだ。

 父は運がいいのか、なぜか転勤先々の支店の営業成績が抜群によかったらしい。時折家へ戻る父は、嬉しそうにそのことを語った。

「父さんが行く支店は、みんな営業成績がいいんだ」

 父の表情は、とても誇らしげだ。

「でもお父さんが、営業している訳ではないんでしょう?お父さん、経理じゃなかったっけ」

「そう。父さんは、帳簿を目視で確認して印鑑を押しているだけだよ」

「じゃあ、お父さん関係ないよね。営業成績がいいのって」

 佑子がそう伝えると、父は眉を顰めた。どうやら、馬鹿にされたとでも思ったのだろうか。

「でもなぁ、佑子。父さんはこう見えても、会社では評判いいんだから」

「それは、お父さんが思っているだけじゃないの?」

「違うよ。経理の部署に、部下の三好さんって女の子がいるんだけど。その子がいつも『佐藤さんは、いつもニコニコしていて癒されます』って言ってくれるのよ。父さん、それが嬉しくてね」

 父はそう言って、目じりに皺を寄せた。すっかり垂れた眉は、本当にうれしそうだ。

「もしかして、お父さんが笑顔で働いているから、支店の営業成績がいいってこと?それは、いくらなんてもポジティブ過ぎじゃないの」

「機嫌がいいって大事だよ。だってみんな、顰めた顔しているもの。それじゃ、いい仕事は回ってこないよ。機嫌のいいところに、いい仕事は回ってくるからさ」

 機嫌がいいだけで、父のいる支店の営業成績がいいだなんて。いくらなんでも、虫が良すぎるし。自分は、パワースポットだとでも思っているのだろうか。

 それに、そんな話をそこで働く営業マンが聞いたら、きっと「流石に、それは違いますよね。あなた、へらへら笑っているだけですよね」と、顔を顰めるに違いない。

「お父さんって、本当に前向きだよね。年齢の割には全然出世しないけどさ。その姿勢だけは、尊敬するよ」

 そんな父の様子を、母は後ろから訝しげに見つめていた。父は母の目線に気づかず、ふんふんと鼻歌を歌い始めた。


退職出向

 枝垂れ桜が咲く前に、父は飄々とした表情で家に戻ってきた。定年を迎え、今度は退職出向して働くらしい。

「また、働かせてもらえるみたいだ」

 そう言って、父は嬉しそうに笑った。退職出向先は、家の近くにある大きな工場らしい。そこで父は、部品の検品をするそうだ。大手企業のサラリーマンの場合、全国各地の支店を回るタイプには2種類の人間がいる。

 1つは出世を期待され、あえて全国各地の現場を回り、経験を積ませてもらうタイプ。2つめは、居場所を上手く作れないため、さまざまな現場へと流されていくタイプだ。

 父はどうも、後者だったらしい。全国転勤をして、いろんな現場を渡り歩いてきたはずなのに。父は大きく出世することもなく、退職を迎えたそうだ。

「あなた、工場って……。同期の牧野さんは、工場の支店長になったらしいわよ。奥さんから聞いたけど」

 母の眉間に、ぎゅっと皺が寄る。プライドが高く、世間体を気にする母からすれば、父の退職出向先がどうも気に食わないらしい。

「でも、働かせてもらえるだけでもありがたいよ。周りには辞めた同期も多いし、退職まで働き続けたことは凄いって。同じ部署の吉田さんって女の子がいてね。その子が、凄く褒めてくれるんだよ」

「後輩の女の子は、リップサービスで褒めているの!」

 母は、狂ったように声を荒げた。父はいつも、職場の女の子に褒められた話をよく話す。その都度、母はイライラと吠え始める。もしかすると、母は父の周りにいる女性たちに、嫉妬しているのだろうか。

 いや、まさか。だって、父にはもう気持ちなんかないって、母は前から口酸っぱく言っていたはずだし。ううん。そんな筈はない。佑子は、ぶるぶると首を横に振った。

 父は退職後、すぐに「退職出向扱い」で、働き続けた。父の同期は出世しているらしいのに、父にプライドはないのだろうか。どうしてあんなに、いつも飄々としていられるのだろう。

 昔からずっと、父は不思議な存在だ。単身赴任していたからあまり顔を見ていないというのもあるけど、家族なのに知らないことばかりだ。もっと、父のことをちゃんと知りたい。

 そう思った私は、父をご飯に誘うこともあった。父をご飯に誘うと、決まって不揃いの黄ばんだ歯が、にゅっと口から零れる。

「佑子。この前さ、工場の近くに美味しいランチのお店を見つけたんだ。今度、一緒に行ってみないか。食べログのランキングも上位だし、絶対に美味しいはず」

「別にいいけど」

 父が単身赴任をしていた頃、普段は一体何をしているのかについて聞いたことがある。

 父の話によると、1人で家にいても暇で仕方ないので、外で食べ歩くようになり、次第に楽しくなって食べ歩きを始めたそうだ。父は単身赴任中に、どうやら全国各地の飲食店へ足を運んでいたらしい。

 父と飲食店に行くと、いつもニヤニヤと笑みを浮かべながら、写真撮影をし始める。お陰で、ご飯を食べるまえに5分待たされる。まったく、こっちは早く食べたいのに、その撮影タイムはいつまで続くのか。

 撮影タイムが終わると、何やらごそごそと携帯を弄りだす。一体、何をやっているのだろうか。まさか、母の代わりに浮気相手がいるとか。

 でも、いつも同じヨレヨレのシャツばかり着ているお父さんと、一体誰が恋仲に落ちるのか。流石にそれはないと、佑子は1人頷いた。

 横からチラリと覗くと、四角い写真が将棋盤のようにぞろりと立ち並ぶ画面が少しだけ見えた。もしかして、あれはInstagram(インスタグラム)だろうか。いや、機械音痴のお父さんが、Instagramなんて絶対に使いこなせる訳ないし。

「お父さん、もしかしてInstagram始めたの?なら、ちょっと見せてよ」

 ほんの悪戯心で、佑子は父に尋ねた。写真のクォリティがダメだったら、思いきりダメ出ししようとも思った。

「おお。別にいいけど」

 もっと嫌がられるかと思いきや、父は当たり前のように、すんなりと携帯を差し出す。父の表情は、どこか誇らしげで嬉しそうだ。もしかすると父なりに、写真のクォリティに自信があるのかもしれない。

 父から携帯を受け取るなり、佑子は指でササっとスクロールする。父が撮影した写真の数々を見るなり、佑子の目が止まる。料理の写真はどれもピントは合っていないどころか、ブレブレだ。

 説明文も、「今日は、オムライスを食べました。とても美味しかったです」、「ここのお店は、メニューが多くて充実しています」と、誰でも書けるようなありふれたものばかり。読んでいても、さっぱり面白くない。

 それどころか、インスタグラムにありがちな「ハッシュタグ」もついていない。せめてお店を紹介するなら、店舗の住所、電話番号、営業時間。その辺りの情報を盛り込めばいいのに。

 そうすれば、見る人の役に立つ情報になるはず。まぁ、父はそこまで求めていないのかもしれないけれど。

 こんな父の投稿を、一体誰が見て喜ぶというのか。ツッコミどころが多すぎて、突っ込む気も失せてしまった。ぽかんと口をあけた佑子の元に、ウエイトレスが「お待たせしました」と声をかける。

「明太子オムライスと、ナスとミートのトマトソーススパゲッティです」

 ウエイトレスがテーブルへ料理を置いた途端、甘酸っぱいトマトとジューシーなお肉の香りが、あたりいっぱいに広がる。佑子はフォークでくるくるとパスタを絡め、口へ放り込む。

 細かく刻まれたナスの触感が、ふわふわでとても美味しい。トマトの酸味も効いていて、野菜も新鮮だ。パスタも固すぎず、柔らかすぎず、ちょうどいい。

「お父さん、美味しいね」

「やっぱり、お父さんが選ぶ店は間違ってないでしょう?食べログで、いつもお店のリサーチは欠かさないからね」

 そう言って、父は鼻息を荒げた。写真も説明も下手くそだけれども。Instagramに写真を投稿する父の姿は、とっても嬉しそうだった。

 お父さん、投稿下手くそだけれど。楽しそうだし。まっ、いっか。佑子は、顔をほころばせた。


 それから、数日経ったある日。家に事件が起きた。朝起きるなり、母が父をキンキンの声で叱り続け、大きな声で目が覚める。

 母に話を伺うと、父がInstagramを通じてある出版社から、自費出版をしないかと声をかけられたらしい。話を詳しく聞けば、自費出版には200万円かかるそうだ。父の写真クォリティを知る限り、どう考えても書籍を出版したところで、さっぱり売れないだろう。

 そもそも出版社なら、あの写真を見て「本を出版しても、売れない」という位のことは、理解しているはず。きっと、自費出版の費用で儲けようとしているか、または出版社を名乗っている新手の詐欺かもしれない。

「お父さん。その出版社に、私も同行する」

「い、いいのか……」

「仕方ないでしょう。お父さん、心配だし」

 父が、唇をぶるぶると震わせている。いつも飄々としているのに。私たちが責めてやっと、事の重大さに気づいたのだろうか。

「お父さん。まず、契約はもう済ませたの?」

「いいや、まだ」

「お金は?まさか、前払いで振り込めとか言われていないよね」

「いいや。まだお金のことも、何もしていない」

 父からそう聞くなり、佑子はほっと安堵する。ああ、よかった。まだ契約も済ましておらず、お金も払っていないなら何とかなりそう。

 あとは話さえ断れば、事なきを得られるかもしれない。

【続く】

第二話

第三話

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