そして鳥たちは、飛び方を忘れてしまった。【第2話】【全3話】
第2話 交渉
「お父さん、携帯貸して。Instagramのアカウントから、私が返信するから」
「いい。そんなこと、しなくてもいいから。詐欺じゃないかもしれないし」
父の口が、への字に曲がる。携帯を渡すのを、どうやら躊躇っている様子だ。もしかすると、まだ自分が詐欺に遭っているのだと、信じたくないのかもしれない。
「あのね、お父さん。最初から大金をせびるようなDMなんて、どう考えても普通じゃないでしょう?絶対に、詐欺だから」
「どうして、佑子はそうやって相手のことを決めつけるんだ?」
「いいから、お父さん。携帯を貸して」
父から奪い取るように携帯を取り上げ、虹のように飴色をしたアプリをトントンと指で押す。アプリのプロフィールを確認するなり、呆然とした。父は、なんと本名の「佐藤拓郎」で登録していたのである。
おまけにInstagramのプロフィール欄には、誕生日、勤め先の会社名まで入っている。顔写真は、免許で使用しているものを、そのまま利用していた。写真の父は、きゅっと口を閉めて、生真面目そうだ。詐欺師からすれば、格好のカモだったのかもしれない。
その様子を見るなり、佑子はくらくらと眩暈がした。ああ、ダメだダメだ。お父さんのInstagramアカウント、あまりにも個人情報が駄々洩れじゃないの。脇が甘いし、これでは詐欺に狙われる訳だ。
佑子は、おそるおそる紙飛行機のマークをクリックし、メールの内容を確認する。
うわべだけを飾り立てたような、耳ざわりがいい言葉の数々に、佑子は足元がふらふらした。どの写真もクォリティが素晴らしいだなんて、よくもまぁ言ったものだ。
写真には手の影が堂々と入っているし、ピントすら合っていない。あのレベルの写真を書籍に載せたところで、一体誰が見たいと思うものか。
仮に自費出版したところで、家族と親族が数冊購入し、あとは自主回収する運びとなるだろう。販売のサポートを受けたところで、売れる見込みのない書籍は売れる筈がない。
そのメッセージに対し、父は「素敵なお話、ありがとうございます。ぜひとも、検討させていただきます」と返信している。検討の2文字を見るなり、佑子は心の内で小さくガッツポーズを取った。
——検討。曖昧かつ、実に失礼のない謳い文句。うん、それでいい。
「契約します」ではなくて、あくまで「考えます」と父が言葉を濁してくれていて、本当に良かった。これなら、「やっぱり検討を重ねたのですが、お断りさせていただきます」で、話を終わらせることができるはず。
「お父さん。さすが、大手企業のサラリーマンだね」
そう言って、佑子はにっこりとほほ笑む。
「えっ、どういうこと?」
父は小首を傾げる。
「返事の仕方、一流だよ」
「そうなのか?父さん、普通に返しただけだよ」
「なかなかできないよ。相手の要求に対し、傷つけずにさらっと流す回答なんてさ」
そう言うと、父の顔に笑みがこぼれる。本当は、こんな業者のセリフにいちいち対応するのも馬鹿げているとは思うけれども。ちょっとでも褒めておかないと、お父さん可哀想だし。騙されたと責めすぎてしまった、これは私から父への償いだ。
父の携帯を奪うなり、佑子は業者に断りのメッセージを送る。隣では、肩をがっくりと落とす父の姿があった。
お父さんには、夢なんかないと思っていた。いつも真面目に働き続けて、文句を聞いたことなど一度もないし。
お父さんにも、やりたかったことがあったんだ。詐欺に捕まったのではないかと、お父さんを責めすぎたかもしれない。「言い過ぎて、ごめんなさい」という気持ちもあるけれど、私が謝るのはおかしいし。
せめて、お父さんのために何か力になれないだろうか。お父さん、せっかくやりたいことを見つけた訳だし。今まで、家族のために真面目に働いてきたのだから、少しはやりたいこともやらせてあげたい。
そうだ。親友の有紗なら、自費出版について詳しいかもしれない。
思い出したように、佑子はLINEを起動し、儚げな横顔をした有紗のアイコンを軽やかにタップする。
フリーランスの有紗なら、すぐに連絡も着くはず。有紗に連絡をとると、案の定すぐに返信が届いた。やっぱり、持つべきものは、時間に融通のきく友達なのかもしれない。佑子は、にやりと笑みを浮かべた。
有紗とは、中学から大学までずっと同じだ。どちらかが真似をした訳でもなく、たまたま進路が同じになった。2人で進路について相談し合っていたので、お互いに影響を受けていたのかもしれない。
私たちの進路に違いがあらわれたのは、大学に進学してからだ。有紗は大学生活を送る傍ら、副業でWEBライターの仕事をし始めた。
そういえば、有紗は昔から文章が上手で、先生からも褒められていたっけ。先生が有紗の文章を褒めた瞬間、私の心にピキッとヒビが入ったのを、今でも覚えている。
いつも同じ通学路を歩き、自動販売機でポカリスウェットを飲んで、そのままダラダラと話をし、ゲラゲラ笑っている有紗が、急に遠くへいってしまう気がした。
あの子がWEBライターを始めたと聞いた時も、そうだ。私の知らない業界へ足を突っ込む彼女が、どこか別人のように見えた気がする。
その後、有紗は副業をさらに大きく広げようと、電子書籍を販売し始めたらしい。有紗は、電子書籍の出版にAmazonを使用していた。
有紗の話によると、Amazonで電子書籍を出版した場合、2 種類のロイヤリティ(印税)プランから選べるそうだ。通常のプランだとロイヤリティは35%だが、一定の要件を満たせばロイヤリティ(印税)が70%になるのだとか。
その一定の要件には、「この本はAmazonでしか売りません」という約束も含まれるらしい。有紗はAmazonでしか電子書籍を売らないと決め、印税を多めに受け取っているそうだ。
そんな技を、どうやって身に着けたのかと。私は過去に一度だけ、有紗に相談したことがある。しかし有紗は決まって、「それは、私が本気だったから」としか答えない。詳しい稼ぎ方について聞いても、いつも鼻でフフッと笑って誤魔化されるだけ。親友って、案外不親切だなと思った。
本気でやりたいことなら、そこまで徹底して戦略を練って、売上を上げられるものだろうか。そういえば、今まで何かに本気になったこと、一度もないかもしれない。だから、有紗のように私はなれなかったのか。
有紗が「電子書籍の販売を始めた」と聞いた瞬間、より彼女の存在を遠く感じた。手を伸ばせば、いつでも届くところにあの子はいると思っていたのに。ずっと、私と同じ世界の住民だと思っていたのに。
有紗と私、本当はちっとも同じなんかじゃなかった。怠慢な話を、タラタラと話す子だと思っていたけど。
そんな有紗にも、やりたいことがあったんだ。私だけだ。やりたいこともなかったし、何も持っていなかったのは。
佑子は大学を卒業後、新卒で銀行に就職した。就職先を銀行にした理由は、銀行なら食いっぱぐれがないと思ったからだ。ただ、昨今の状況だとネット銀行の普及に伴い、店舗数を減らしている銀行も増えているらしい。
今の窓口業務、嫌いじゃないけれど。いつかは、この店も淘汰されるのだろうか。窓口に訪れるお客様には、いつも「ありがとう」って言ってもらえるのは嬉しい。でも、いつかはこんなやり取りすら、この世からなくなっていくのかもしれない。
このまま、ぼんやり仕事を続けても、大丈夫だろうか。有紗みたいに、やりたいことを見つけて、一芸を極めた方が将来的に、細く長く働けたりして。
でも私には、あの子のようにやりたいことも、得意なものも、何もない。そもそも、これまでやりたいことなんか一度も考えたことなかった。
就職先を選んだ理由だって、銀行なら潰れないだろうというものだし。真面目に働きさえすれば、お金に困ることはないと思ったからだ。世間的にも、銀行員というのは信頼されるし、響きもいい。
まぁ、確かに入社したばかりの頃は、ノルマに頭を悩まされたこともあるけれど。そういえば、入社した頃、新入社員のノルマとして、10人に会社のクレジットカードを作ってもらう必要があったっけ。
あの時は、親、友人たちに頭をペコペコ下げて頼んだのは辛かった。親友だと思っていたのに、有紗はものの数秒で「私、クレジットカードとか。そういうの、マジでいらないから」と、断ってきた。意外にも、あまり口を交わしたことのない知人くらいの人の方が、快く応じてくれた気がする。
あとは、毎年お金に関する試験を受け続けないといけないのもきつかったかも。FP技能士、生命保険・損害保険募集人資格、銀行業務検定、証券外務員……。
入社してから、一体いくつ試験を受けたことだろうか。仕事しながら、勉強も並行するのは苦しかったし、何度か眩暈もした。
試験勉強の愚痴を有紗に溢せば、「でも、自分で決めた道でしょ?」と、ぶっきらぼうに返してきた。その時の有紗の目は、まるで正気を失ったかのように覇気がなくて怖かった。
あなたは、いいよね。得意なスキルがあるから。スキルを売る知恵も持ち合わせているし。私のように、何も持っていない人間は、必死に会社へしがみついて、生きていくしか他無いのだ。
有紗の働き方を見る度に、ふと思う。ずっと、有紗とは中学から同じで、私と一緒だと思っていたけれど。そう感じていたのは、もしかすると自分だけだったのかもしれない。
そんな有紗も、一度は新卒で入ったマスコミ関係の会社に入ったものの、すぐに辞めてしまったという過去がある。今は電子書籍の印税を受け取りつつ、得意なWEBライターをゆるゆる続けているらしい。
電子書籍の印税がいいのか、WEBライターの収入が良いのかは定かではないが、有紗はお金に不思議と困っていないらしく、たまに会えばランチを奢ってくれる。
有紗のことは嫌いじゃないけれど、ちょっぴりずるくて羨ましいとは思う。あの子はいつも、時間にも場所にも縛られず、まるでふわふわと空を飛び交う鳥みたい。有紗みたいに、本当は上手く宙を飛び立ってみたい。
でも、どうしたらいいかわからない。自分には、何が得意で。何がやりたいのかも、何にもわからない。相談する相手も、いなかった。一体、私はいつから飛び方を忘れてしまったのだろう。
そういえば。有紗は、電子書籍の販売ならほぼお金がかからないと言っていたはず。有紗が試していた電子書籍なら、お父さんだって本を作れるかもしれない。万が一失敗しても、初期費用がかからないなら諦めもつくだろうし。
「お父さん、電子書籍は興味ある?」
「電子書籍?聞いたことはないが」
「電子書籍なら、お父さんも気軽に出版できるかも。友達に、1人電子書籍の出版に詳しい子がいるの。あの子ができるなら、お父さんもできるはず。今から、アポ取ってみるね」
佑子がそう伝えると、父の頬に血色が戻る。この世の終わりみたいな顔をしていた父の目じりが弛み、うれしそうだ。
父はこれまで、真面目に十数年働き続け、家族を支えてきてくれた。ちょっぴり頼りないところもあるけれど、家族のために自分を犠牲にしてきたのだ。
せめて、最後くらい父の願いをきいてあげなきゃ。佑子は意気揚々とした表情で、有紗にメールを送った。
【父:佐藤拓郎編】
棒のように固まった足が、痺れを切らしている。汗を吸い込んだ作業着は、肩にずしんと響く。朝からずっと、目を酷使しつづけて瞼が痛い。拓郎は、足の疲れを和らげるため、その場で数回トントンと足踏みをする。
朝から晩まで、部品の検品作業を続けるのは疲れるものだ。けれど、決して嫌いじゃない。検品作業とは、部品の数量や状態(破損、欠陥、故障など)、品番に誤りがないかを確認する業務のことだ。
地味な作業かもしれないが、検品が不十分のまま、部品を使って家を建てるのは問題だ。そんなことをしたら、家の一部が軋む、傾く、または災害の時に崩れるといった、欠陥住宅を招く恐れがある。
別に、特別な愛社精神がある訳ではないけれども。長く勤め続けてきたからには、会社にも情がある。確かに私は、仕事が人よりできないかもしれない。誰かのように得意なこともなければ、大して頭も回らない。
そんな私でも退職前は、宅建や建設業経理事務士などの取得をする必要があった。勉強は難しくて、試験の度に脳が溶けた。同じフロアの人間たちはみんな優秀で、1年も経たないうちに資格を取得していく。彼らに置いていかれる度に、砂を噛むような思いがする。
私が入社した頃は、学歴がなくても誰でも入れた会社だった。それなのに今では、名のしれた大学を卒業しなければ、うちの会社に入ることはできないらしい。
就職情報誌によると、私が働く会社は、今や「働きたい会社ランキング」の上位にランクインしているそうだ。そうなると、今の子たちは就職活動が本当に大変だと思う。
周りの人たちが俊足で資格を取り続けていく中、自分は宅建の取得に10年かかった。20歳若い部下の木下からは、「佐藤さん。もしよかったら勉強教えましょうか?」と声をかけられた。
あまりに必死だったので、どうも不憫に思ったらしい。木下は慶応大学出身のボンボンで、父親は会社の幹部だ。
周囲からはコネ入社と噂されたが、お坊ちゃん特有のおっとりしたゆとりと優しさがあり、嫌いにはなれなかった。結局、木下の好意は受け取らず、独学で学ぶことにした。頭が悪いなりにも、私にだってプライドはある。
頭は決して良くないけれど、会社に所属してお金を得ている以上、少なからず業務に関わっているのは確かだ。せめて、自分が関わった人たちの、少しでも役に立ちたい。
今、検品作業に携わっている以上、その部品で建てた「家」に住む人には、出来る限り安心して暮らして欲しい。そのためにも、検品はしっかり取り組まなければ。
それに、家には未婚の娘もいることだし。これから先、娘が結婚しようものなら、結婚資金も工面しないといけないだろう。
昔のように足は上がらないけれど、まだ動けない訳ではない。退職出向先は工場しか選べなかったが、全く別の企業へ再就職しようものなら、今ほどの給料はもらえないはずだ。
工場勤務は給料が安いと言われるが、大手企業の場合は別問題だ。たとえ出世しなかったとしても基本の給料が高いし、福利厚生も良い。それに、私には家族のために働かなければならない責任もある。
家族には私の我儘で、無理して家も買ってしまい、高額な住宅ローンを負わせてしまった。会社で働き続ける体裁のために、無理をしてしまったことは後悔している。
ただ、自社の家を建てたことで、より会社のことを理解できた気もするのだ。単身赴任で過ごしてきたため、私が実際に住み続けていた訳ではないが。
家を建てる時は、どれくらいお金がかかるのか。そして、住宅ローンに無理がないかなど。家を買うことで、得られる安心感や責任。住宅ローンを払い続けるために、会社を絶対に辞められないという覚悟。
それらは、実際に体験してはじめて、身にしみた気がするのだ。私は営業マンではないから、その経験は必要ないかもしれないが。それでも、家を売る会社で働く以上、そう簡単に人へ家を売ることはできないと理解できたことは、私にとって大きな収穫だった。
時計の針が、12時を指す。お昼の時間だ。拓郎は、大きく背伸びをして屈伸運動を始める。太腿に、ぶわっと血流が流れ込むのを感じる。朝から立ちっぱなしの仕事は、足の負担も酷いものだ。
腕をぶんぶん回していると、向こうから佐々木が「社食、いきませんか」と声をかけてきた。佐々木は、自分と同じ時期に退職出向でこの工場に辿り着いた人物の1人である。現役の頃、佐々木は中途採用だったので、仕事では後輩にあたる。
現役のころはスーツをパリッと着こなすエリートといった印象だったが、転勤先の若い女性と不倫してしまい、一度地方の営業所へ流されてしまったらしい。
佐々木が現役バリバリだった頃は、会社にかかってくる電話に対して「そうですよね……。承知しました。それでは、のちほど検討させていただきます」と、上ずった声で機械のように言っていたっけ。
承知したのに、検討するって。どっちなのかわからないし、一体どういうことなんだろう。その言い回しがあまりにおかしくて、今でも耳に残っている。
あのまま出世コースをたどっていれば、今頃退職出向などせずに悠々自適な老後が遅れたのではないだろうか。または、会社の幹部にでもなっていたかもしれない。
まだら模様の黒子で覆われた佐々木の皮膚には、亀の甲羅のようなヒビが犇めいていた。むかしは、肌も艶やかで意気揚々としていたのに。今の佐々木は、まるで枯れ木のように覇気がない。
拓郎は、佐々木のお誘いに「いいよ」と2つ返事で対応した。人と話すのは、嫌いじゃない。むしろ、結構好きだ。
工場は交代制のため、お昼の時間は全員バラバラである。普段は1人で昼ご飯を済ませるが、稀に同じ時間帯に休みを取る同僚に、お昼を誘われることがあった。工場内には、作業員専用の社員食堂がある。
食堂にあるメニューは、日替わり定食、とんかつ定食、エビフライ定食など、どれも定食ばかり。社員はみな、その日にメニューが代わる日替わり定食を頼むことが多い。
価格も、1食あたり5~700円とコスパも良い。会社としても、社食の導入は福利厚生にも繋がり、メリットがあるらしい。
ただ、ここで働く人が必ずしも社員食堂のご飯を利用しているという訳でもなく、なかにはお弁当を持参する社員も少なくない。ざっと見渡したところ、社食とお弁当の割合は1:1といったところだ。
「佐藤さん、日替わり定食にします?」
「日替わり定食が無難じゃない?」
「やっぱり、そうですよね」
そういって、私たちはけらけらと笑った。家にいても、後ろに険しい表情の妻がいるし。仮に家へ戻ったところで、何を話せばいいのかわからない。
転勤時代が長すぎるあまり、妻とどう接すればいいのかわからなくなった。時間とは、残酷だ。昔は、普通に顔を見合わせて話せたのに。
いつからだろうか。妻と、会話ができなくなってしまった。退職出向したのは、お金の他にも理由がある。家で妻と過ごすのが、何気に辛いのだ。こうして佐々木と、他愛ない話で笑えるのは、とても嬉しい。
今日の日替わり定食は、親子丼定食。テーブルに置くなり、ふわっとした鰹出汁の香りがして、今にも涎が出そうだ。一口放り込むと、とろとろの卵とジューシーな鶏の肉汁が混ざり合い、口の中でとろけていく。うん、今日も美味しい。
ふと、佐々木に目をやると。何やら、懸命に写真を撮っている。早く食べないと、冷めてしまうのに。何をやっているのだろうか。
「佐々木、食べないのか」
「今、写真を撮っていて」
「なんで、写真なんか撮っているんだ?」
「Instagramにあげるんですよ」
「Instagramって、なんだそれは。新手のゲームか?」
「違います。写真と説明文を投稿する、SNSです。投稿すると、ユーザーから感想がもらえたりして、楽しいんです。まぁ、ここは社食なんで。投稿時は、写真の位置情報を消しますけどね」
そう言って、佐々木はいたずらっぽく笑う。佐々木の説明は、横文字や、聞いたことがない言葉が多くて、何を言っているのかわからない。拓郎は首を横に傾げる。
Instagramに、位置情報って何だろうか。でも、きっと楽しいのだろう。さっきまで枯れ葉のような顔をしていた佐々木の表情に、みるみる生気が宿っていく。
「それは面白いのか?」
「僕は面白いですけど。もしよかったら、佐藤さんもやってみますか?僕、教えますよ」
普段なら、こんな訳のわからないものには応じない。でも、佐々木の表情があまりに楽しそうで、ついつられてしまった。
「私も、やってみたい」と言うと、佐々木は「じゃあ、携帯を貸してもらっていいですか?アプリからダウンロードして、投稿できる状態まで僕がやりますので」と言い始めた。
携帯を持つなり、リズミカルにスクロールをクリックする佐々木の姿を見ると、やはり元エリートは自分と違うなと、改めて悟った。
「Instagramのプロフィールに写真が必要なんですけど、何か写真って持っています?」
「今持ち合わせている写真なんて、免許証しかないけど」
「じゃあ、それでいいです」
拓郎は、ポケットから裾が擦れた長財布を取り出す。レシートでぱんぱんに膨れた長さ居るから、免許証を佐々木に差し出した。
いくら同じ会社の社員とはいえ、個人情報を他人にたやすく渡すのは、本当はよろしくない。こんなことをするのは、今回だけにしようと拓郎は心に決めた。
佐々木は免許証を受け取ってすぐさま、写真部分にカメラの焦点を当てた。その場が、パシャッと音を立てて、白く光る。その日から、私のInstagramアカウントは誕生した。
佐々木によると、Instagramにそのまま写真を投稿すると、位置情報が残るため場所が特定される恐れがあるらしい。佐々木は位置情報を消す方法を試しているらしいが、私には難しいので「社食」の写真を投稿するのは辞めた。
そもそも、どんなに位置情報を消せたとしても、会社の写真はインターネットに一切載せない方がいいだろう。おそらく、その脇の甘さが佐々木は不倫や、営業所への左遷に繋がったのだと思う。
私はその日から、外で食べ歩きをする度に、写真を撮影してInstagramにアップするようになった。投稿すると、見知らぬ人からいいねやコメントが届く。知らない人ばかりだけど、なんだか友達ができたみたいで嬉しい。
いいねが届いたら、投稿をくれた方にもいいねを返す。まるで、挨拶のやり取りをしているみたいだ。いいねは、海外の方から届くこともあった。コメントも、時折英語のメッセージがコメントに届いたりする。
海外の方から見ると、日本のご飯は珍しいのだろうか。誰かからコメントやいいねが届くと、まるで世界中に友達ができたような気持ちになり、拓郎のテンションも思わずハイになった。
拓郎がInstagramを楽しんでいた、ある日のことだった。Instagramに、見知らぬ人物から一通のメールが届く。どうもプロフィールを見ると、自費出版の会社らしい。
メッセージを確認すれば、あなたの投稿は素晴らしいから、自費出版しませんかといった内容だった。
出版かぁ。そんなこと、これまで一度も考えたこともなければ、自分に向いているとも思わない。でも、このまま人生を終えていいのかという思いもある。
今までふわふわと仕事を続けてきたまま、気づけば定年退職してしまった。今は退職出向で働いているし、給料の条件も悪くない。待遇にもそれなりに満足しているけれども。
でも、もしかしたら。自分には、もっと違う道があるんじゃないか。そうは言っても、自分には得意なこともなければ、何もできない。
きっとこのまま、目の前の物事を淡々とこなしながら、一生を終えていくんだ。愛する娘もいるし、妻もいる。そう悪くない人生だと思う。別に、このまま死んでも後悔はしないだろう。ずっとそう思って、これまで生きてきた。
ただ、こうしてメッセージを頂けるということは、それは運命なのではないか。このまま人生を終わらせるのが、急に勿体ない気もしている。ひょっとすると、自分には。これまで気づかなかった、秘めた才能が眠っているのかもしれない。
そういえば、芸能人が「街を歩いていたらスカウトされた」という話をテレビでしているのも、何度か見かけたことがある。
確かその芸能人は、そのことを「ターニングポイント」とか話していたはず。自分にも、ちょうど今そのターニングポイントが訪れたのではないだろうか。
まぁ、詐欺の可能性もあるだろうし。世の中、そんな上手い話しばかりでもないだろう。かといって、そのまま無視をしてもメッセージをくれた方から、冷たいと思われる気もする。詐欺であっても、きちんと返した方がいいだろうか……。
そうだ、ここは佐々木が良く使っていた「検討します」を使えばいいのかもしれない。そうすれば、いざと言う時も逃げられるだろう。
あとは、家族にも一度相談してみよう。拓郎は、小刻みに震える手で携帯のスクリーンをゆっくりとタップし続けた。
【続く】
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