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ありのままの自分を受け入れる、その第一歩に絶対に欠かせないこと

モヤモヤしたことを思い出してみよう


2月も残すところあと2日。

今月は "自力" と "他力" を考える月だったなと、あらためて思います。


なんの話?と思うかもしれませんが、説明に入る前に、みなさんにひとつ振り返ってみてほしいことがあって。


今月【モヤモヤしたこと】って、なにかありましたか?


この1ヶ月でもいいですし、もっと遡ってもいいので、少し時間をとって思い出してみてください。


そして、その出来事を以下の2つに分けられるか、考えてみてください。

自分がコントロールできる範囲の

1. 【内】にあるもの
2. 【外】にあるもの


はい、これだけでは分かりませんよね。笑

というわけで、わたしのリアルな例を挙げてみます。


わたしはつい何日か前に、それまでの自分のすべてを否定されるように感じる出来事に直面しました。


数年ぶりのどでかいショックで、夜は布団の中で泣いて、遺書でも書こうと考えるほど絶望して。

次の日に目が覚めても泣いて、布団から起きようにもなかなか起き上がれず・・・。


その出来事の渦中や前後は、延々とモヤモヤ(を通り越して、真っ暗闇w)の中にいました。


でですね、この出来事を先ほどの分け方で捉え直してみると、

1. 自分のコントロールの範囲内にあるもの
◉モヤモヤを感じ続ける時間の確保(予定をリスケするなど)
◉パートナーに相談するという選択肢、etc.

2. 自分のコントロールの範囲外にあるもの
◉絶望を感じている自分の感情や思考
◉内面的に不安定になったことで過敏になった知覚や身体の痛み

という感じになります。

なんとなく、イメージ掴めますか?



さらに別の例を挙げるなら、

『行きすぎた言動で人を傷つけてしまい、落ち込んでいる人』の場合は

1. 自分のコントロールの範囲内にあるもの
◉自分の感情や感覚を感じたり、何が起こったのかを考えるための時間の確保
◉相手を理解するための行動をとること
◉謝ったり、弁明する行動をとること、etc.
※↑は相手に拒否された場合、"範囲外" になりますね。

2. 自分のコントロールの範囲外にあるもの
◉傷つけてしまったという事実
◉相手が感じている悲しみや痛み、苦しみ
◉相手の思考や行動、選択
◉オートで出てくる自分の思考や感情


という感じです。


モヤモヤや絶望の渦中でこんな分類の仕方をするヘンタイな人はいないと思いますが(わたしだってしません笑)、あえて分けてみると、まず気づきませんか?


自分が1と2を分けて考えていないことに。


1と2を分けて考えてないということは、"自分になんとかできること" と、"自分ではどうしようもないこと" を、同じプレートの上に乗せてごちゃまぜにしちゃってる状態です。


そして、あーじゃこーじゃと混乱して悩んだり、無理やり気分転換しようとしたりして、肝心の「じゃあ、どうするの?」にいつまでも進めない。


これは、現実に適切に対処する余裕がない状態、とも言えるかもしれません(ちなみにわたしはこれのプロ中のプロでした。笑)


まず、この1と2を分けられることは、とても大切です。


そしてさらに、『1を増やして2を消そうとする』という無意識の性が、わたしたち人間にはある。


それを理解していることは、もっと大切なことかもしれません。


人は1を増やして2を消したい


これがどういうことかというと。

まず大前提として、『コントロールできないこと』は人にとって恐怖です。


何を考えているか分からない他者、どうなるか予想のつかない未来、いつ終わるか分からない不安、自分の意思とは関係なく悪化していく病、思い通りにいかない人の心、etc…


そういった恐れを感じさせるような状況にぶつかると、人は無意識にその恐れを軽減しようとする。

つまり、問題解決に走ります。


そしてこの問題解決にも、いろんな形があります。


コントロールできない状況をなくすために、知識やスキルを身につけていく人もいるでしょう。


他者と関わるということは、『自分のコントロールの範囲外』をわざわざ自分の世界に招き入れるということですから、

人に頼らなくても生きている自分になろうとする人も、いると思います(これは『一人でできるもんの呪い』にもつながります)。


はじめのわたしの例で言えば、映画を見て気を紛らわせることで、止まらない自分の感情や思考を忘れようとするかもしれません。


人を傷つけてしまった人の例で言えば、「自分はなんてことをしてしまったんだ」「自分は最低な人間だ」といった自己否定や自己卑下を通して、


肝心の現実(人を傷つけたという事実や、傷つけてしまった相手)に対峙するといったことから、目を逸らそうとするかもしれません。


わたしたちはいつだって
コントロールできるものを増やし

コントロールできないものは

感じない・見えないように
心身を鈍化させるか
無きものとして抑圧するか
人や自分のせいにすることで

コントロール外にあるものを、可能な限り消そうとしています。


より優しく、より自由な在り方へ


ここで念のためお伝えしておきますが、これが間違っているとか、悪いことだと言っているわけではないですよ。


こうした行動は、むしろ自然なものです。

わたしたちに備わっている、生存本能によるものですから。


その事実を理解しておくことで、自分に対しても人に対しても優しくなれると思います。


ただし、コントロールできる範囲内だけで生きるということは、人としての内面的な成長の停滞を意味します。


絶えず状況に反応し、痛みを避ける行動を選択し続けることになるので、

新しい自分に出会うとか、他者や世界とつながって、何かを新たに創造していく生き方というのは叶いません。


わたしは、自分を可能性に開いて生きていきたいと思っていますし、多くの人がそんな彩り豊かな生き方を楽しめたらいい、と思っている人間です。


というわけなので、今月に限らず、いつもお伝えしたいことは変わりません。


自分にできることをやる。

そして同時に、コントロールが及ばないこともあると、受け入れる。

それが人としての強さ、生命の力です。


月のはじめに書いたように、なんでも自分でできるようになることが奨励され、評価されることが多い世の中です。


その証拠に、書店に行けば個々の能力を伸ばすためのhow to本がたくさん並んでいます。


だからこそわたしは、後者の "受容する力" をつけていこうよ、と書いたり言ったりします。


"可能にする力" ではなく、"受容する力" の重要性を伝える人は、まだまだ少ないから。


そしてこの受容する力は、自分や人にとって、より優しく、自由で、心身に楽な(負担のない)在り方をわたしたちに教えてくれるから。


可能を増やすことと、不可能を受け入れること


なんでも自分でできるようになろうとすることが、コントロールできない、予測できない現実と向き合う力を削ぐことがあります。


可能を増やすことが、『1(コントロールの範囲内のもの)を増やして2(コントロールの範囲外のもの)をなくそうとする、という人の無意識の性』に、ピッタリはまってしまうときです。


可能を増やすことと(=自力の領域)、不可能(範囲外)を受け入れること(=他力の領域)。


人の精神的な成熟において、これらは両輪。


そのことに無自覚な状態で、可能を増やすトレーニングばかりを積み重ねているうちは、

分からないことを分からないものとして抱え込む大きな器を、いつまでも育てられません。


そして、"できる" "できた" を目的や評価基準にすればするほど、インスタントな解決策を安易に求める心の体質を作ります。


未知なものや不快感すら抱え込むこと筋力が、つかなくなってしまうんです。


だから大切なのは、ただ可能にする力だけをつけようとするのではなく、

◉自分のコントロールの範囲内にあるものと、範囲外にあるものがあることを自覚すること

◉範囲外にあるものをなくしたがっている自分に気づくこと

◉その自分は何を避けようとしているのか、何を感じているのか、本当はどうしたいのか、感じてみること


ここからスタートしてみてほしいんです。


自分の内面を感じるにも、必要なリソース(信頼できる他者の存在や、心理的安全を感じられる環境、対話のための知識やコツ、etc.)というのは、たしかにあります。


ですがまずは、ただ自分の感情や感覚と共にある、というだけでもいいんです。


それも嫌だなぁ、と感じたら、そういう自分がいるな〜って、感じてみる。

どうやるのか分かんないよ、と思ったら、そういう自分がいるのか〜、って感じてみる。


その自分を静かに眺めている、っていうだけでも大丈夫です。


受容とは、ただ◯◯を与えてあげること


「感じるって、具体的には何を?」という話ですが、まずは身体の感覚を感じてみるのが分かりやすいと思います。



そして、感じるだけじゃなく、言葉にする(形容する)というのがポイントです。


\身体の感覚を感じて、言葉にしてみよう/

体は重い?軽い?
どの辺が重くて、どの辺が軽い?
呼吸は、浅い?深い?
速さはどのくらい?
どこかにモヤがある感じ?
大きさは?色は?温度は?質感は?
それはあなたに、なんて言ってそう?
詰まってるように感じる場所は?
お腹の中はどんな感覚?
頭は?腕は?指先は?
眉間は?首の後ろは?
言葉で表現するなら、どう形容できそう?


ここに、正解・不正解は当然ナシ!

騙されたと思って、ゲームだと思って、ぜひ一度やってみてくださいね。


そして最後に、肝心なことをお伝えしておくと。

この "感じる" ということが
自分を "受容する" ことになります。


え、それだけ?と思うかもしれませんが、そうです、それだけです。

自分にせよ、他者にせよ、受容するのに何か特別なことをする必要はありません。


変えようとするのではなく
ただ、「居ていいよ」と言うこと。


居場所を与えてあげること。


言葉を変えれば、
それは許可や赦し、となりますね。


愛を注ぐとか、抱きしめるとか、慰めるとか、そんなことをわたしたちは想像してしまうけど。


リアルはいたって素朴で
シンプルな行為です。


ただ、簡単ではありません。


だから根詰めすぎず、ちょっとしたゲームみたいな感覚でも、大丈夫です。

嫌になったら、いつでもやめていい。

向き合いたくない、考えたくない、逃げたいと思う自分も、根詰めすぎちゃう自分も、居たっていいんですよね。



すべての存在のすべての側面に、
尊厳と意義を。


そのためにはまず、
それらに、居場所を。


今後も変わることないと思う、わたしのメッセージ。

わたしがわたしとして、あなたがあなたとして生きるための大前提。


これからも、いろんな形でお伝えしていきます。


というわけで今回は、2月の【"自力" と "他力" が入り混じる月】というテーマから、インスピレーションを広げてみました!


今、必要な人に届きますように。

よい週末をお過ごしくださいね!

みっこ♡


※「最後まで読んだよ」「参考になったよ」という方(ツワモノですね!笑)は、ぜひスキ(♡)お願いします。


みっこがシッポを振って喜びます U。・ェ・。U

潜在数秘術協会のコンセプト(協会HPより)


\参考までに、オマケ/

先述の絶望事件では、終わりを知らない負の思考や感情を、わたしは "嵐" と捉えてやりすごすことにしました。

まぁ、結果的にそうなった、とも言えるんですが(そんなに冷静でいられるほど余裕はなかった笑)。

ただね、泣くのを我慢するとか、考えるのをやめようとするのではなくて、ただ待ったんです、嵐が収まるのを。

つまりは、嵐と共にあった、ってことです。

「感じてみよう」と思えるほどの余裕はなかったので、抗うことだけはせずに、そのまま悲しんだり、泣いたり、考えたりする、ということにOKを出した感じです。

そういう思いや感情に、自分の心を明け渡してあげた感じ。


あとは嵐が止むのを待って、落ち着いてきたら(翌日の午後あたり)、自分なりに振り返ってみて、整理して、そこで気づくものがあったりして、それを夫に話して・・・という手順を踏みました。

その結果、人生でも一、二を争うほどの最高に大きな気づきを得ました。

「あぁ、変なことさえしなければ、やっぱりちゃんとプロセスは進むんだ」と、確信が深まったのでした。

要らないものを吹き飛ばす嵐だったんだなって、気づけました。


ちなみに、嵐の最中に嵐と戦おうとすると(抑え込んだり、誤魔化そうとすると)、嵐が一層酷くなるか、おさまったと思っても、同じ嵐が再来します。

残念ですが、これは絶対です。涙


というわけで、荒ぶる神々が自分の中に現れたときには、自分の心をその舞台として、一時的に貸してあげましょう。

言いたいこと、叫びたいこと、たくさんあるんだと思うから。

そしてそんな懐の大きな自分を、しっかり労ってあげてくださいね♡


ではでは、長いおまけでした〜★

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