いつか自分に子どもができたときに、することしないこと
まだ子どもを作る予定はないし、ほしいかもできるかもわからないし、できたとして「こんな子どもに育てたい」という願望もちゃんと考えたことはないのだけど、
「もし自分が親になったらこれはしたい、これはしたくない」っていうのは、結構前から思っていることがあって、
それが考えれば考えるほど自分の親を反面教師にしていることだなあ、と感じている。
今日はそのことについて書きたいと思う!
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まだ真剣に子どものことを考えたことがない私でも、心の中で、「これはする」と思っていることと、
「これは絶対にしない」と決めていることが、(いっちょうまえに)ひとつずつある。
ひとつは、子どもが「学校に行きたくない」といった時に、休ませてあげられる親になること。
具体的には、子どもにとって、親が自分の元気をチャージしてくれる存在で、そのことを子どもがしっかりと認識していて、素直に「休みたい」って言ってもらえる親になりたい。
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学校って、子どもが直面する最初の、オフィシャルな、”理不尽”、だと思っていて、
ある年齢に達すると、いきなり投げ込まれて、
やりたくないことをさせられたり、集団行動がもとめられたり、おこられたり、いじめられたり、くらべられたりする。(子ども自身がそれをするようになる可能性もある。)
簡単に地獄になりうる。
まあ楽しいこともあるだろうから、子どもがイヤなことより楽しいことに注目できて、
「まあ今日も学校に行ってもいいか」と思える毎日が過ごせるといいんだけど、
そうじゃないときに、「学校を休みたい」っていう子どもを否応なしに「そんなこと言ってちゃだめ!病気じゃないなら行きなさい!」っていうのって
めちゃくちゃ酷だと思うんだよね。
子どもからしたら、親からそう言われるとどうにもできなくなることが多いし、
行き場がなくなってただ耐えるしかなくなって、
悲しいとわかっている1日を迎えるだけになってしまうかもしれない。
わたしは学校がキライな子どもだったんだけど、両親にそんなことを言ってもまったく聞き入れてもらえなかった。
だけど、「学校を数日休む」って人生においてなんの支障もないと思うし、その数日で元気をチャージできるなら、わたしはぜひそうしてもらいたい。
わたしが子どもだったら、親になんの気兼ねなく、
「今日はなんだか元気がないな、学校に行く気になれないな、友だちとうまくいっていなくてちょっと落ち込んでいるんだよな〜、ちょっと心を休めたいな…」って、
否定されることをおそれずに、素直に言える関係だとすごく嬉しい。
そのうえ、親や家という存在が、自分にとって安心できて元気が充電できる場所だと、
それって子どもにとって、「ハッピーチャージができる場所が、わざわざ人員を確保しなくてもそこにあって、遠慮せずに、労力をかけずに手軽にアクセスできる」っていうことで、
すごく便利で生きやすいと思うんだよね。
学校は、子どもがヒトとして社会で生きていくなら、
「社会ってこういうものなのか、これに付き合って、対処して、できるだけいいとこ取りしつつ、楽しく幸せに生きていけることを目指していくんだな」
ということを知る場所でもあると思うから、
ある程度は行ったほうがいいとは思うんだけど、
行きたくないときに、子どもが親のことを「自分が元気になるために頼れる存在」として認識していて、素直にそれが言える関係性なのは、すごく理想だ。
わたしが在宅でフリーランスを目指すのは、将来子どもが自分を必要としたときに、元気チャージに付き合える人員として動きたいという想いもある。
わたしの両親は「他人の悪口は言っちゃだめ。みんなと仲良くね。」みたいな教育方針だったから、嫌なことがあっても家で愚痴をはけなくて、
わたしにとって家は「元気がチャージされる場所」じゃなかったし、
両親が共働きで多忙だったせいで、すごく寂しい思いをしたんだけど、
励ましてもらいたい日に、家にひとりでいなくちゃいけない状況って、子どもにとってとてもツラいと思うんだよね。(幼少期から小学生くらいまでは特に)
だから私にとって、いつか子どもができてたとき、
「今日はちょっと休みたいな〜」っていう子どもに、
「じゃあ今日は元気になるための活動をしよう!美味しいもの食べて、きれいなもの見に行って、遊ぼ!」って言えたらすごく最高だなと思う。
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それから、もうひとつ、「これはしない」と思っていることがあって、
それは、子どもが”こわい”と思うことはしないこと。
なんだそんなことか、と思うかもしれないけど、
子どもの「こわい、かなしい」っていう気持ちって意外に見落とされがちで、軽視されやすいものだと思うんだよね。
だって、子どもって「ええ、そんなことこわがるの?!?!」ってことでこわがるし、それって大人からすると可笑しくて可愛いから。
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わたしはサプライズ動画とかドッキリ動画を見るのが好きなんだけど、この前あるドッキリで、
「トイレ中、トイレットペーパーをもってきてくれた子どもに、うんちに見せかけたチョコレートを、子どもの手になすりつける」っていう動画があったんだよね。
親が用を足している現場に、トイレの戸を開けてトイレットペーパーを渡すっていう普通ならあまり引き受けたくない任務を、
純粋な親切心とお手伝い精神で、なんならウキウキでトイレットペーパーを運んできている子どもが、
(可笑しさと可愛さで)爆笑している親を傍らに「手にうんちがついた」と思い込んで号泣していて、
「ああ、この子どもはすごくこわくて悲しいんだろうな…普段は汚いしくさいから触っちゃだめ、ってさんざんに言われている汚物が手についているんだもんな…相当な恐怖だよな‥」っていうのが伝わってきた。
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この動画を見たことをきっかけに、
わたしの中で今でも強烈に記憶に残っている幼少期の思い出がよみがえって、
「デジャブだ…」となったことがあった。
わたしが小学生くらいのとき、クリスマスくらいの時期に親に
「これからあなたちを山に捨てに行くからね。お別れだよ」みたいなことを言われて、
車に乗せられて、馴染みのない山道を連れて行かれたことがあったんだよね。
結局、これは両親からのサプライズで、
「とてもきれいなイルミネーションを見に行く」っていう計画のひとつだったのだけど、
そんなことを知らなかったわたしと弟と妹は、本当に捨てられてしまうのかと思って怖くて怖くて車で泣きわめいた。
(親はこのサプライズを何回かしていたのだけど、わたしたち兄弟はどういうわけかこりずに毎回だまされて泣きわめいていた記憶がある。)
親からしたら、絶対にありえないような嘘にだまされて泣いている子どもはある種可愛くて可笑しかったのだろうし、
とっておきのサプライズのための嘘だからなんにも悪気は感じていなかったのだろうけど、
残念なことに、わたしにとっては「トラウマ的思い出」として刻まれている。
確かにイルミネーションがきれいだったことも覚えて入るのだけど、
それよりも「こわい、かなしい、いやだ、たすけて」っていう気持ちのほうが鮮明なんだよね。
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わたしの「サプライズイルミネーション事件」も動画で見た「うんち事件」も、
親からすると、子どもが「大人のモラル的にはするはずのないこと」をすっかり信じてしまっているのって、
それこそ可笑しくて可愛いのだろうけど、
結局やっていることは、弱さにつけこんで、だまして、おもしろがって、怖がらせているだけで、
子どもにとっては百害あって一利なしで、存在しなくていい感情だと思うんだよね。
「こわい、かなしい」感情ってマイナスの影響しかないと思うし、心の発育に絶対に影響すると思うし、
泣きわめいてまで必要な思い出とかサプライズとか笑いとかって絶対にない。
「大げさだ」と笑うのは、それこそ、
子どもの「こわい、かなしい」っていう気持ちをなんてことないものだと思っているからだと思う。
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幼少期の記憶ってたとえ覚えていなかったとしても、
そのとき感じたことはたしかに子どもの心を育てていて、
その子どもがどう考えるようになって、どんな発言をして、どんな行動を将とるようになるかに影響すると思うんだよね。
「うれしい、たのしい、げんきがでる、あんしんする」っていう気持ちは心の養分で栄養になるし、
反対にに、「こわい、かなしい、いやだ、ふあん、たすけてほしい」っていうきもちは、子どもにとって心の毒になる。
だから、子どもの負の気持ちには敏感になって、必要のないネガティブはできるだけ感じさせないように快適に過ごしてもらいたいなと思っている。
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まだ何も子どものことを考えていないわたしでさえも、これだけはする、しない、ってフツフツと自分の中で湧き上がって、自然にできてきた考えだから、
学校に行きたくなかったのにどうにもできなかったことも、捨てられてしまう怖さを味わったことも、
よっぽど幼少期の自分にとって衝撃的な出来事だったんだろうなと思っている。
子どものときにしてもらえなかったことや、されたくなかったことって、すごく記憶に残るし、トラウマになる。
子どもにとっては重大事件だ。
だから、いつか子どもができることがあったら、このことをちゃんと覚えておきたいなと思う。せっかく自分がたどって得た教訓だしね…!
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長年、頭にぼんやりと思い浮かんでいた将来できるかもしれない自分の子どもへの想いと、幼少期の記憶を、
しっかりと言語化しておきたいなあと思って今日は書いたよ!
わたしもすっきりしたし、もし同じような経験をしていてモヤモヤしている人がいたら、その解毒になっていたらうれしい。
今日も読んでくれてありがとう!
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