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生まれて初めてのファッションショー

私は物心ついた頃からファッションというものに漠然と興味があった。

絵を描くことが好きだったので、お絵描き帳にお姫さまのドレスをデザインしたり、当時大人気だったピンクレディーのコスチュームやシューズをアレンジしながら夢中になって描いた。

紙の「着せかえ人形」も大好きだった。
数え切れないくらいの着せ替え人形を集めて、遊び終わったらそれをお菓子の空き箱に大事にしまっておいた。

小学校に入学するとリカちゃんやバービー人形のお洋服を見よう見まねで、ハギレで縫ってみたりした。


ヘアスタイルにも自分なりにすごく「こだわり」があって、美容院に行くと待合室に置いてあったヘアカタログや漫画の登場人物を見ながら「こんな髪型にしたい、あんな髪型にしたい」と毎回、子供ながらにリクエストしてみたりもしたが、その髪型はパーマをかけたり、もう少し伸ばさないと出来ないスタイルだったりと、私の意に反して結局はいつも「子供らしい」スタイルになっていた。


中学生になると『anan』や『mc Sister』『流行通信』などのファッション雑誌を読み漁り、1985年11月にテレビ東京で放送開始された『ファッション通信』は、大人になるまでほぼ毎週欠かさず見ていた。


今でこそパリコレやNYコレのランウェイショーは直接、ライブ配信で見ることが可能だが、インターネットが一般に普及するのは1995年であり、更にファッションショーを「Style.com」等でチェック出来るようになったのは私がパリに移住した2000年以降のことなので、それ以前の海外コレクション情報は (東京コレクション情報も含めて)、雑誌や業界紙などの発売、そしてテレビ番組の放送まで待つしかなく、1ヶ月くらい (あるいはもっと長い期間) のタイムラグがあった。


だから高校一年生の冬に、地元宇都宮の大谷石地下採掘場跡で山本寛斎のファッションショーが開催されると聞いた時には、会場に直接見に行かない理由など見つからなかった。

同じクラスで、やはりファッションに興味があった友人とチケットを購入し一緒に見に行った。凍り付くような真っ暗な夜道を2人で、マフラーをぐるぐる巻きにして会場まで必死に自転車を漕いだのを今でも時々思い出す。


ちなみに現在のパリコレなどのファッションショーは時間にすると10分前後のショーが殆どで、本当に呆気なく、あっという間に終わってしまうのでそれはそれで違った意味で驚きなのだが、当時のファッションショーはもっとずっとずっと長く、確か30分から1時間位のショーが一般的だったと記憶している。




生まれて初めてのファッションショーは、一大スペクタクルで圧巻だった。

何千トンだったか何万トンだったか、もう30年以上前のことなので忘れてしまったが、とにかく大量の水をナイアガラの滝のように会場に流したり、照明も空間演出も音楽も、もうランウェイショーというよりは、ファッション、音楽、舞台が一体化したパフォーマンスだった。

合計20人くらいのモデル達が全て、当時、国際的に大人気の日本人スーパーモデル、山口小夜子にそっくりな白い肌と切れ長の目のメイク、そして黒髪のおかっぱ姿でまず舞台に登場しコレクションを披露。

そしてクライマックスに山口小夜子ご本人が登場するのだが、彼女の存在感とパフォーマンスと美しさはもう、他のモデル達と比べ物にならないほど凄かった。




その後、90年代に入って間もなく私は文化服装学院に入学し、在学中に東京コレクション会場でヨウジヤマモトとコムデギャルソンのショーを数回見るチャンスに恵まれた。



更に、2000年にパリに移住して、数年後フランスのメゾンで働くことになるのだが、パリコレのショーに生まれて初めて自分が手がけた作品が出た時の震えと感動は今でも忘れられない。




----- 2020年7月27日追記 -----

山本寛斎氏が7月21日に76歳で亡くなられたことが本日公表されました。

上記の文章をを7月22日に投稿したのは全くの偶然だったのですが、どうして今のこの時期に30年以上前のこのショーの事を書こうと思ったのかは自分でもよく分かりません。でも何故か偶然のことのようには思えないのです。先月末にはインスタグラムのストーリーにもデヴィッド・ボウイ氏と寛斎氏が一緒の写真を投稿したばかりでした。

いつも元気いっぱいの笑顔をもう見ることが出来ないのは本当に残念です。心からご冥福をお祈りいたします。





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