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もうすでにあなたは十分頑張っている。 〜しんどい時に〜

セルフコンパッション瞑想で、ポロポロ涙した話。

私のぐるぐる悩みの根源の一つは「他人の目」である。気にしていないふりをしても、気づかぬうちに他人の目や言動に敏感になっているよう。

それに輪をかけて、言葉にもなっていない自分の声が、自分を責め続けている。無意識のうちにそれが起きていて、なんだかスッキリしない。

昔の自分と違うのは、そんな自分を自分で認知している。自己認識しているということだ。

そんな自分と日々どう付き合っているのか?どう変えていきたいと思っているか?ということからの話。

自分を整えるための「瞑想」

朝から右肩が突っ張って頭痛がしそう、心もなんだか少し不安定。(満月ゆえ?)

だから、肋骨回りの筋肉をほぐして(手でさすったりね)呼吸がしやすくなるようにした後に、youtubeのイマココさんの「自己批判に気づき自分への思いやりを育む / セルフコンパッション瞑想(15分)」をしてみた。

そうすると、「自分で自分を頑張っているよね」と心の底から認めた瞬間、自然と涙がポロポロ出てきた

不思議な感覚で、後味がないというか、いつも泣くと頭が痛くなるけれど、そうじゃなくてどちらかというと汗に近い。目から水分が出た。たまっているものが出た。そんな感覚。新鮮な体験でした。

もうすでにあなたは十分頑張っている

頑張っている。行動し続けている。でもまだ私の願いを叶えたくて。体現したくて。「まだまだ!」って日常で自分を鼓舞している。

でもすでに「十分頑張っているよ。あんなことがあって大変だったよね、心配に思うこともあったよね、でも救われて本当に良かったよね。」

誰もが周りの誰かに知ってほしい、認めてほしい、肯定されたい。
そうすることで存在が承認される。

でも「誰か」じゃなくて、自分で自分を認めてあげられた時に、本当の”癒し”が起きるのでは。

自分を、大切な親友のように。
大切な人に声をかけるように、自分にも声をかける。
「頑張っているね。お疲れ様。良かったよね。」


「ただ存在する」、地球上の1つの生物として。

ふと自然に目を向けると。
花はただ咲き、石はただ転がり存在し、雲は形を変えては流れる。

”何かしないと価値がない”ではない。
ただ存在している。肯定も否定もなく。
人間も自然の1つだから、ただ存在する、それだけで十分価値がある。

人間は「考える葦」だから ”考える”ことは大事な素質であり武器なのだけれども、それゆえに考えすぎてしまって「ただ在る」ということを肯定できなくなる時がある。意味をどうしても見出したい。

それもそれで大事なのだけれども、苦しくなってしまうくらいだったら、自分を自然界の1つの生物だと思い出して、存在させてみる。

(voicyのミアビータチャンネルの新田純子さんのお話を聞くのが好きなのですが、その中でもこういった話があり、とても響きました。)

どう動きたい? どう在りたい? ただそこに存在する

下を向いてただ寝そべっていたい?
上を向いて太陽の光を浴びて思いっきり息を吸いたい?

辛くなったら、身体がしたいように委ねて、動いてみる。
それでいい!あなたがそれで不安だったら私が声を大にして言う。

「それでいい!」

産後のエステケアをしてくれた人が「辛い時は、日向ぼっこしながら、両手を広げてただ寝そべっていればいいのよ〜」って明るくおっしゃってくれたけど、本当にその通りですね。

”考え”は、すべて幻。
あなたはあなたの好きなように咲いて良いのです。

誰かが私を見て「ひまわりがいい!」と言ったって、私は違うのです。
私はここで気持ちの良い風を浴びて、時に雨の恵みを受けながら、咲いているのがいいのです。

通りすがりの誰かが私に目を留めて愛でてくれたら、それはそれで光栄なことなのです。

ただただ、そこに存在するのです。

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